第27話「残った三枚」
朝、上着に腕を通そうとして、アキスは途中でやめた。
背中と胸が一緒に痛んだ。寝台へ戻ると、向かいのルーシャが左脚だけで立とうとしていた。
「ルーシャ、何してるんだ。立つなって言われただろ」
「水ぅ……。あんなに近いのに! ちょっと手を伸ばせば――ほら、あとこれだけなのに!」
アキスも水差しを見た。卓までは近い。だが、今立ち上がれば、昨夜巻かれた胸の布が食い込む。
「カフリに頼むか」
「下に行っちゃった。……ねえ、何か長いのない? 柄で引っかければ、こっちへ――」
「こぼすだろ、絶対。誰が拭くんだよ。俺、しゃがめないぞ」
ルーシャは伸ばしていた手を引っ込めた。二人とも水差しを見たまま、しばらく黙った。
戸が開いた。スミナが盆を持ち、カフリがその後ろから椀を運んできた。アキスが身体を起こすと、スミナは盆を置いて水を注いだ。
「二人とも、何してるの。呼んでくれれば来たのに」
「今、頼もうとしてた」
「水差しを倒そうとしてた、の間違いじゃない?」
ルーシャは椀を受け取った。
「倒してないってば……。スミナも、もう座って。顔、真っ白だよ」
スミナは言い返さず、寝台の端へ座った。椀を持つ指にも、まだ力が入り切らないようだった。
*
カフリがアキスの盾を卓へ載せた。
切れた縁は、腕に触れないよう厚い布で覆ってある。新しい革帯を通す位置には、白い印がついていた。
「今日、店へ持っていく。縁も直してもらうから、少し時間がかかる」
「そこだけ替えれば、使えるのか」
「見たところ、全体は曲がってないし、握りも使えそうだ。店に聞いてみるよ。買い直すより安く済むといいけどな」
アキスは左腕を見た。帯が切れた時の重さが、まだ手首に残っている。
「ゼキトの腕、二本使わせないようにしたかったんだ。長剣を受ければ、その間はほかを狙えると思って」
「私も。木枠に当たった時、今だって思ったんだよ」
ルーシャが椀を置いた。
「腕、切ったのに……木に載せたら、まだ振れるんだもん。あんなの、思いつかなかった」
カフリは盾から手を離した。
「俺だって、偉そうなこと言えない。棚を壊されてやっと場所を変えたんだぜ。ずっと同じ所から投げてりゃ、狙ってくれと言ってるようなもんだ」
誰か一人だけの失敗ではなかった。四人で傷を負わせ、その後の反撃で、二人は動けなくなった。アキスは右の甲に巻かれた布を見た。
「スミナ、あのルーシャ……本物だと思った。いつの間に、あんなの練習してたんだ?」
スミナは首を振った。
「いつもは、形を動かすと崩れるの。昨日はルーシャが立とうとしてて、そのまま走ったところが浮かんだ。止まってる姿じゃ、間に合わないと思って……」
「私、あんなふうに剣を振ってた?」
「振ってるよ。右へ走ると、尾もついていくの。……本人が知らないの?」
ルーシャが自分の尾を見た。寝台の外へ下がっていた先を、少し持ち上げる。
「そこまで見てたんだ」
「一緒に稽古してたでしょう。嫌でも覚えるよ、あれだけ動き回ってたら」
スミナは椀へ目を戻したが、口元が緩んだ。
「あれ、また出せるのか? ……今やれってことじゃなくて」
アキスが尋ねると、彼女は空いている床へ片手を向けた。
ルーシャの形が現れかけた。頭と肩は見えたが、踏み出す脚が伸び、床に溶けるように崩れた。スミナは息をつき、手を下ろした。
「……まだ、これくらい。昨日は出たのにな。名前だけは、写身って決めたんだけど」
「名前を決めるより先に、俺たちを助けてくれたんだな。……ありがとう。あれがなかったら、戻れなかった」
アキスが言うと、スミナは一度こちらを見た。
「今度は、もっと早く出せたらいいな。二人があんなふうになる前に」
椀を持ち上げる手が震えた。アキスは床へ落ちそうになった布を拾い、彼女の手元へ置いた。
「今日は休んでくれ。幻の後も、ずっと守ってもらったから」
スミナはもう一度試そうとはせず、背を壁へ預けた。
*
午後、マルシカが三枚の革を持ってきた。
一枚は端が黒く縮れていた。残る二枚は新しく、昨夜、像を見ながら書き写した物だった。
救い出した二包みには、土地の観測と、初めの実験の失敗が残っていた。だが、器具を焼かずに魔力を送れた最後の一年分は、ほとんど失われていた。
「三枚、読んできたわ。……もう少し残っていれば、と何度も思ったけれど。まず、この二枚を見てくれる?」
マルシカは写した二枚を並べた。
器具を当てる位置の図と、試験の間隔が書かれていた。一度魔力を送れた後、同じ場所では送れなくなったらしい。場所を変えて試した記録には、途中から数字がない。
「灰で隠れていたところですか」
「そこもある。でも、全部が灰のせいじゃないと思うの。元から空いていたらしい所もある。……これだけで試せとは、とても言えないわ」
スミナの表情を見て、マルシカは図へ指を置いた。
「スミナ、ここを見て。この位置へ器具を当てた図は、ほかに一つもないのよ。これがなかったら、試したことも知らずに帰っていたわ」
アキスは焦げた一枚を見た。表には器具の破損を調べた形跡がある。裏側へ返すと、違う大きさの字が現れた。
森の都で、傷に別の組織が残った身体の記録を借りる。
その下には、研究者の名と、連絡を取る場所が書いてあった。端は焼けていたが、そこは読めた。
「この人を、知っていますか」
「森で、身体を調べている人よ。私も会ったことがある。オズフェンが何を聞きたかったかまでは、まだ分からないけど」
マルシカは革を持ち上げた。
「火の中では、裏まで見ていなかった。宿へ戻って、乾かす時に気づいたの」
アキスは服の胸元へ手を当てた。古い傷は、そこにあった。右腕の変化と同じように、その傷も図に残してもらっている。
「俺の腕と、胸を診てもらえますか」
「頼んでみましょう。私からも話すわ。……でも、治せる人だと期待させて連れていくのは、違うわね。何が分かるかは、本人に聞かないと」
「会いに行きたいです」
言ってから、アキスはルーシャとスミナを見た。ルーシャは自分の右脚を軽くたたき、痛みに顔をしかめた。
「行くなら、これが少しよくなってからね。今のまま毎日歩くのは、さすがに無理」
「出発日まで、ここで決めるなよ。診てくれる人に聞いてからな。俺が勝手に連れ出したことにされたら、たまらん」
カフリが窓際から言った。
「途中で歩けなくなったら、結局、宿から動けないんだから。荷の軽い商隊を探してくるよ。少しでも乗せてもらえると助かるだろ」
スミナは三枚を見てから、マルシカへ尋ねた。
「その人のところへ行く間、私にも記録を読ませてもらえますか。写したところ、途中で分からなくなったから」
「一緒に読んでくれるなら、私も助かるわ」
アキスは三枚の置かれた卓から、窓の外へ目を移した。焼けた織場の方には、まだ人が集まっていた。
市場の警備兵は一人亡くなった。捕まった二人を誰が雇ったのか、使者もまだ聞けていないという。ゼキトの行方も分からなかった。
昨夜、記録を奪い返せればいいと思っていたわけではない。それでも、誰も死なずに外へ出られると思いたかった。
アキスは窓を閉じず、便りを書くための板をカフリに取ってもらった。




