第23話「買い取った夜」
使者が最後の値を告げると、マルシカは膝の上の袋を開いた。
これ以上は出せないと、夕方に聞いていた。アキスは庭の向こうを見た。帳面を先に買おうとした客が、背後のゼキトと短く話している。
「朝まで待て。金を持ってこさせる」
「十日待って、今夜だと決めた。その話を、今から戻せと言うのかい?」
ゲルモンは声を荒らげなかった。競り合っていた客は立ち上がり、卓へ手をついた。
「たった一晩だろうが! 倍だ。明日の朝には、そいつらの倍を払う!」
「惜しいね。今、ここにあれば受け取れたのに」
次の値は出なかった。
赤茶の髪をした矮人の立会人が、使者へ向いて売買の成立を告げた。マルシカは袋を両手で持ち上げた。卓へ置く時、硬貨の音が鳴った。
アキスは、自分も息を止めていたと気づいた。
「……もう、読んでいいんですよね?」
「読める……読めるのよね。ああ、もう、途中で返さなくていいのね……!」
マルシカは庭の出口を見た。競り負けた客の姿は、すでになかった。
*
使者と三人の護衛は、立会人の前で支払いを済ませるために残った。
ゲルモンがマルシカたちを北の荷場へ案内した。実物の包みを確かめ、持ち出す支度をする。エミーラも一緒だった。剣の広場から来たまま、背に長剣を負っている。
荷場は織場の中にあった。北の大きな入口には、上へ巻き上げた鉄格子がある。そこから南の荷ほどき台まで、中央の通路がまっすぐ延びていた。
通路の西には織機が並び、その奥に小さな戸がある。東の壁際は、畳んだ布を置く棚だった。天井近くの横木には、乾かすための長い布が掛かっている。
南の荷ほどき台の向こうには、窯場へ続く鉄の引き戸が開いていた。
モネサは最後の布を届けに来ていた。アキスたちを見て、下の片手を上げる。
「読めたら、あの子たちのところも教えておくれ」
「明日、持ってきてもいいですか。私も一緒に読みたいです」
スミナが答える間に、ゲルモンが三つの包みを台へ並べた。見本に出した帳面を戻し、古い順に数える。マルシカは革筒の図も広げて確かめた。
アキスは旅袋を空けた。途中で折れないよう、背へ当たる側に布を敷く。カフリが東の棚の前へ自分の袋を下ろした時、北の入口で誰かが叫んだ。
ゼキトが、格子の巻き上げ具へ手を掛けていた。
市場の警備兵が駆け寄る。その腕を止めようとしたところへ、ゼキトの下の右手から曲刀が伸びた。
兵が胸を押さえた。声が出ず、膝が折れる。ゼキトはその身体を入口の外へ押し、上の手で留め具を外した。
格子が落ちた。
床に残った布袋が押しつぶされ、鉄棒が石を打った。外から駆けてきた人が手を掛けたが、上がらなかった。倒れた兵の下へ、血が広がっていく。
「西の戸!! 走っておくれ、こっちだよ!!」
モネサが職人たちを呼んだ。
ゼキトが先に動いた。繭翼人の四枚の翅が開き、低く飛んで織機の列を越える。西の戸へ手を掛けた職人を引き戻し、内側から閂を落とした。
南で、帳面が床へ散った。
*
記録を競っていた客が、鉄の引き戸から入ってきていた。
上の二本の腕に長剣、下の右手に曲刀。空いた左手が、台の新しい包みを引き寄せる。その後ろから、戦斧を持つ繭翼人が続いた。
「ゼキト、北から応援を入れるな! 帳面は全部持って帰る!」
命じた客は、この一味の頭目だった。
ゲルモンが包みを押さえようとしたが、頭目の曲刀が手をかすめた。包みは下の左手へ渡り、肩に掛けた革袋へ押し込まれる。
マルシカが残る二包みを抱え、台から離れた。刃が追った。
上着の胸元が裂け、腕へ血が流れた。エミーラが彼女の腰を抱き、剣を抜く。長剣で頭目の刃を押し上げ、振り下ろされた戦斧を横へ外した。
斧使いの下の右手にも、長剣があった。その刃が、マルシカを抱えるエミーラの左肩を切った。
エミーラは腕を離さなかった。
「ゲルモン! マルシカを連れていけ、北へ! 早く!!」
ゲルモンはマルシカから包みを受け取り、そばの台へ置いて彼女の腕を取った。
マルシカを渡した途端、エミーラが前へ出た。
「閃駆!」
頭目の長剣が、振り上がる前に横へ跳ねた。腹へ走った刃を防御魔法が受ける。エミーラは止まらず、足を踏み替えて次の一撃を重ねた。
「連牙!」
防御の端が割れた。頭目が西へよろめく。追ったエミーラの背へ戦斧が来たが、彼女は剣を逆へ返し、斧の柄へ刃を滑らせた。
長い武器が外へ押し流された。エミーラは二人を、南の出口から離れた作業台の方へ追い込んだ。
アキスは見ていた。練習では肩へ触れて止まった剣が、今は防御魔法を割り、敵の長剣の刃を欠かせている。
だが北では、ゼキトが職人たちの前へ出ていた。
*
倒れた椅子と布巻きの間に、職人の脚が挟まっていた。
逃げようとする者に押され、抜けなくなったらしい。スミナが腕を引き、モネサが布巻きを押していた。アキスは剣を抜く前に肩を入れ、ルーシャと二人で持ち上げた。
脚が抜けた。モネサが職人を受け取る。
「二人とも、下がれ!」
カフリの声がした。
ゼキトの長剣が頭上へ来た。アキスは布巻きを放し、左腕の盾を斜めに立てた。刃が滑り、肩まで衝撃が響いた。
盾の下へ、曲刀が来る。
ルーシャが剣を抜いて止めた。ゼキトの下の左手だけが、空いたまま二人へ向いていた。
短い刃が、その手へ飛んだ。
ゼキトは光の壁を広げて刃を受けた。弾かれた投げナイフが床へ落ちる。アキスはその間に剣を抜き、ルーシャと並んで下がった。
カフリは東の棚の前にいた。荷を脇へどけ、革帯から次の投げナイフを抜いている。
「二人とも西へ寄って! そっちにいると投げられない! 木枠の方だ!」
アキスは盾を前にし、織機の列へ寄った。後ろではスミナが防御魔法を立て、モネサと職人を北の柱へ退かせている。
南から大きな音がした。エミーラの剣を受けた頭目が、作業台をひっくり返した。斧使いは二人を同時に攻められないよう間隔を取り、エミーラの脇を抜けようとしている。そのたびに剣が来て、足を止めさせられた。
「アキス! そっちは任せる! 職人たちを守ってくれ、こいつらは行かせない!」
アキスは視線をゼキトへ戻した。
長剣を持つ上の二本の腕。曲刀を持つ下の右手。魔法を使う左手。
どれか一つを止めても、残りが動く。アキスはルーシャと一度目を合わせ、盾の位置を少し高くした。




