第11話「教官を残して」
アキスは右腕を床から持ち上げた。重さを支えようとするだけで、肘の奥が痛む。指先の間に、原環の赤い肉が残っていた。
あの肉が緩み、開いた傷へ火が入った。何をしてしまったのかも、この腕をどう戻せるのかも分からない。
「アキス、立てそう? 私につかまって」
スミナが右腕へ手を伸ばしかけた。アキスは腕を身体へ寄せる。
「待って!! 右は駄目だ! ……ごめん、スミナ。俺にも分からないんだ。触って、またあんなふうになったら……」
スミナは手を止め、代わりに背中の制服をつかんだ。デンバルが右腕で腰を支え、アキスは右足を踏ん張って立った。スミナも立とうとしたが、右足をついたところで身体が傾いた。
「スミナ、今度は私につかまって。痛い方は浮かせてていいよ。ほら、肩、ここ」
獣の脚を元へ戻したルーシャが、スミナの左腕を自分の肩へ回した。腰を支え、割れた床から離れたところへ連れていく。
アキスは足元の剣を拾おうとした。右手で柄を握ると、痛みが走って指が緩む。落としかけた剣を握り直し、腕を下げたまま息を整えた。重さも、巻き革の感触も分かる。手首を少しずつ動かせば、刃は思った方へ向いた。
北の扉のそばで、正規兵が壁へ防御魔法を広げた。光の端を回って射手へつかみかかった幽体人を、別の兵が剣で迎え撃つ。実体を持った胴を貫かれ、敵は扉の脇へ倒れて動かなくなった。
北の扉は開いていた。庭から戻った兵が最後の寝台を受け取り、坂を上っていく。デンバルがアキスの腰を支え直した。ルーシャもスミナに肩を貸し、二人の後から扉へ向かう。
南から熱い風が吹きつけた。
「焔冠」
魔角人の周りで火の玉が円を作った。教官たちは左右から斬撃を放つ。敵は片手を振り、二人の前へ防御魔法を開いた。二つの刃が光の壁に止まる。その間にも火の玉は動き、教官たちの頭上を越えて背後へ回った。
教官の背後から矢を放つ射手と、壁際の術者へ、炎が横や上から降り注いだ。
防御魔法が何枚も開く。炎は触れた光を燃料に膨らみ、支える腕まで迫った。
「その火は魔力を吸うぞ! 防御魔法を解いて、柱の陰へ!」
教官が叫んだ。兵は術を切り、床へ転がる。隣の兵がその背を引いたところへ、別の火が落ちた。
バゼルトは二人とも敵へ向かった。一方が正面の火を剣で払い、もう一方はその横を低く走る。手を振る間を与えず、魔角人の胸元へ入った。
敵は剣だけを見ていなかった。背後へ回しておいた炎が、踏み込んだ教官の背を焼いた。
二つの身体が同時によろめく。正面の剣も止まったところへ、魔角人が腕を突き出した。噴きつけた炎が教官の右肩を焼き破り、もう一人の同じ場所からも血があふれた。
バゼルトは崩れる膝を踏み直した。左手の剣を下げず、二つの身体でまた敵を挟む。
「断空斬!」
交差する斬撃が炎を切り分けた。魔力を持たない剣技を炎は食えない。だが、魔角人が両手を広げると、二枚の防御魔法が斜めに立った。刃は光の表面を滑り、左右の石柱へ食い込んだ。天井から大きな石片が落ちても、敵は足を動かさなかった。
教官たちは剣を振り直した。だが、一歩ごとに血が落ちていた。二つの身体があっても、傷は別々にはならない。
北の扉の手前で、右脚を負傷した兵が膝をついていた。ルーシャはスミナを坂から来た兵へ渡し、立ち上がれずにいる負傷兵の腰を支えた。アキスも剣を鞘へ収め、反対側へ肩を入れる。
「重い方、私が持つ。アキスは左にいて」
二人で扉をくぐると、坂から下りてきた兵が負傷者を受け取った。アキスは右腕を身体の前へ寄せ、扉の石枠へ肩を預けた。スミナは兵に支えられて坂を上り、デンバルもその後を追った。避難者はみな北の出口を通り、地下には教官と守備兵だけが残った。
北の出口を守る術者たちは、床と壁へ防御魔法を張り続けていた。飛行兵は柱の向こうから出るたび、射手に狙われて引き返した。
その射手が、矢をつがえたまま倒れた。
炎に焼かれた脇腹に、穴が開いていた。隣の兵が抱き寄せる。防御を担っていた術者の一人が扉の前へ出たが、次の火に腕を焼かれ、床へ転がった。
魔角人は南の石柱の前にいた。二人の教官に攻められながら、片手を北へ向けて炎を噴きつけている。バゼルトの剣がその腕を追うと、今度は足元へ炎を広げ、踏み込む場所を奪った。
教官の一方が炎を越えて胸へ突いた。もう一方は、敵の後ろへ回って首を払う。魔角人が身体を低くし、背へ回った教官の腹へ手のひらを向けた。
手のひらから噴き出した炎が、教官の腹を焼き破った。背中側の制服からも火が噴き、もう一人の腹からも血があふれた。二つの身体が同時に折れた。
「教官!」
アキスは石枠から肩を離した。右腕の痛みが遠のき、教官の腹を貫いた火ばかりが目に残った。
教官たちは、まだ倒れていなかった。
一人が剣を振り抜く。魔角人は左手を上げ、防御魔法で刃を受けた。もう一人が背後から首を狙っても、翼の前に立った光を破れない。二本の剣を止めたまま、敵は床へ炎を広げた。教官たちは左右へ退いた。
近くの巨角人が戦槌を上げた。教官は剣を引き、振り下ろされる腕の内側へ入った。柄を持つ手を切り、続けて首を裂く。もう一方は敵将の正面へ戻り、助けに寄った敵兵を斬撃で切り倒した。その先の魔角人には、刃が届かなかった。
バゼルトの一方が、北の出口へ顔を向けた。もう一方は敵の正面へ踏み込み、剣を振り続けている。
「アキス。みんなを頼む」
アキスは口を開いたが、何も言えなかった。教官の服は腹まで焼け落ち、肌の上を血が流れていた。
「魔力がなくても、恐れず剣を手放すな。アキスなら、私より強くなる」
教官は視線を敵へ戻した。低く踏み込み、防御魔法を押す剣へ体重を乗せる。
「残った兵も北へ出ろ! 庭へ出たら、出口から離れろ!」
術者たちが交代で守りを張り、負傷した仲間を支えて戸口を抜けた。その最後の兵とすれ違うように、ルーシャが地下室へ足を出した。
「教官!! 私も、まだ戦え――」
アキスは彼女の制服の背をつかんだ。右腕に痛みが走り、息が詰まった。それでも手を放さなかった。
「ルーシャ、行くぞ! 頼む、こっちに来てくれ!」
「なんで!? 放してよ!! 教官、まだ立ってるじゃない!」
「見えてるよ!! 俺だって、戻れるなら……!」
ルーシャがこちらを見た。アキスは彼女の顔を見続けた。手を放したら、彼女も教官のそばへ行ってしまう。
坂からデンバルが戻ってきた。アキスの腰を右腕で支え、上へ向ける。ルーシャはもう一度教官を見たが、アキスの制服をつかみ返した。三人で坂を上がる間も、彼女は何度も振り向いた。
「伏せろ!」
背後から教官の声が届いた。庭へ出た兵に腕を引かれ、坂の出口の横へ身を投げた。
「断空斬!」
地下で石が割れた。振り返ると、坂の下の戸口を支える石が内側から崩れていた。天井の一部が落ち、教官のいた部屋をふさいでいく。熱い風と石の粉が坂を駆け上がり、アキスは顔を背けた。
立ち上がろうとしたルーシャが、動きを止めた。開いていた戸口は、大きな石で埋まっていた。
◇
バゼルトは振り抜いた剣を戻した。もう、北の戸口は見えない。逃がした兵も生徒も、部屋には残っていなかった。
背後で炎が膨れた。
魔角人の手から噴きつけられた火が、バゼルトの背と肩を包んだ。服が燃え落ち、皮膚がただれた。もう一方の身体にも同じ痛みが走り、左手の剣が下がる。
バゼルトは膝を折りかけ、剣先を床へ突いてこらえた。息を吸うと、焼けた喉が鳴った。二つの身体に分かれても、血は失われる一方だった。
近くの巨角人が大斧を横へ振る。剣で受ければ、今の腕では押し倒される。バゼルトは刃の下へ沈み、敵の膝を切った。崩れた身体を越え、敵将へ迫る。
もう一方の身体も、反対側から近づいていた。足を進めるたびに、腹の傷から血が落ちる。焼けた肩は動かなくても、左手にはまだ剣があった。
魔角人は石柱の割れ目を見上げた。
「飛行兵、階段へ戻れ!」
岩翼人が、南の階段へ向かった。魔角人も階段へ向き直る。バゼルトは二つの身体で敵将の左右へ迫り、階段へ向かう道をふさいだ。
魔角人は立ち止まり、足元へ炎を広げた。バゼルトは退かなかった。靴が燃え、足首の皮膚が裂けても、敵との間を詰めた。
二つの身体を、互いの剣が届く近さまで寄せる。ここで敵を止める。バゼルトは両方の剣を、同じ胸元へ向けた。
敵の右にいる身体が左手の剣を外側へ引いた。左にいる身体も、逆の向きへ腰をひねる。両方の切っ先が、床すれすれに下がった。
「双天葬」
二本の剣を、同時に振り上げた。
巨大な斬撃が左右から立ち上がり、魔角人の胸元で重なった。
敵が両手を突き出した。防御魔法が深くたわみ、その両足が石床を削って下がる。だが、刃は身体へ届かなかった。敵が腕を上げると光の壁が傾き、二つの斬撃が斜め上へそらされた。
刃が南側の柱を断ち、天井を切り裂いた。階段へ戻ろうとしていた岩翼人の翼が切れ、落ちた身体の上へ石が降る。部屋の南半分が、音を立てて崩れ始めた。
バゼルトの両膝が床へついた。左手は剣を握っていたが、持ち上げる力は残っていなかった。
魔角人は頭上へ防御魔法を張った。倒れかかった石柱が光にぶつかり、途中から砕けた。敵の身体には届かず、周囲へ大きな石が積み重なっていく。
バゼルトの頭上にも石が落ちてきた。二つの身体で立ち上がろうとしたが、足は動かなかった。最後まで握っていた剣ごと、崩れた天井に覆われた。
◇
庭の地面が揺れた。
「伏せろ!」
兵が叫んだ直後、ふさがれた坂の奥から土煙が噴き上がり、小石が庭へ飛び散った。祈り堂の南側で、石の崩れる音が続いていた。
最後尾を守っていた術者が、庭へ防御魔法を広げていた。飛んでくる石を止めながら、出口と左右の壁を見張っている。壁を抜ける敵も、坂を上ってくる敵も現れなかった。
アキスは土を吐き、上体を起こした。
「教官!」
坂へ戻ろうと足を引き寄せた。立つ前に、兵が肩をつかんだ。
「下がれ、まだ崩れる!」
引き戻す兵の腕を押し返し、アキスは声の限りに叫んだ。
「教官っ!! 教官、返事して……!!」
喉が痛み、声は途中でかすれた。せき込みながら坂の奥を見たが、返事は聞こえなかった。教官が落とした石が、戸口をふさいでいた。
右手を開いても、指の震えは止まらなかった。ルーシャの制服を、どこで放したのかも覚えていなかった。
「アキス」
スミナがそばへしゃがんだ。彼女も何度もせき込み、名前の後を続けられない。デンバルが右手を伸ばし、アキスの背についた土を払おうとして、そのまま手を止めた。
先ほど運んだ兵が、庭の端からこちらへ腕を伸ばしていた。自分では立てず、壁へ肩をつけている。
アキスはルーシャを見た。彼女も坂の方を向いていた。名前を呼ぶと、ようやく顔がこちらへ戻った。
「ルーシャ……あの人、助けを呼んでる。俺、一人じゃ無理だ。一緒に、来てくれ……」
アキスは右足で地面を踏み、ルーシャに腰を支えられて立った。教官の声が耳から離れなかった。二人で負傷兵のところへ歩く間も、坂へ目が戻った。




