第10話「街を生かすもの」
案内人が先に石段を下りていった。
祈り堂の入口から、盾を打つ音が届く。兵が防いでいるのは炎だけではない。扉の隙間を通して、長い翼が一度見えた。アキスは背後を見るのをやめた。
スミナが手の光で段を照らした。アキスはデンバルに腰を支えられ、右手を壁について下りていく。
前を行く寝台は、下側の兵が腕を高く上げ、上側の兵が腰を落として水平に保っていた。ルーシャも横から布を押さえ、負傷者が滑らないように支える。
石段の下で、案内人が鉄扉を押し開けた。その向こうには、祈り堂の地下を占める大きな空間が広がっていた。太い石の柱が天井を支え、その間に、赤い肉の山があった。
湿った空気が頬へ触れた。濡れた肉が幾重にも重なり、その間を太い血管が走っている。白い腱が柱よりも太い筋肉をつなぎ、脂のような淡い色の房が、脈を打つたびに揺れた。頭も手足も見当たらない。地下室の低い床を、端から端まで埋める身体だった。
アキスの足が止まった。
原環は街を守るものだと習った。灯りをともす魔力も、治癒術師が傷をふさぐ力も、原環から街へ渡されている。だが、祈り堂の床の下で、こんな肉の塊が生きているとは思っていなかった。
「そのまま北の扉へ。庭まで坂になっていますから、寝台は下ろさずに!」
案内人が、入口から北へ続く石の床へ寝台を導いた。低い床を満たす肉を右に見ながら進むと、北壁に両開きの扉があった。開いた扉の先は緩い坂になり、坂の先には庭の空が見える。二人で運ぶ寝台が、向きを変えずに通れる広さだった。
庭から下りてきた兵が、先頭の寝台を受け取った。運んできた兵はその場で手を離し、後ろの負傷者へ戻る。アキスたちも壁へ寄って道を空けた。ルーシャは寝台から手を離すと、剣を抜いて仲間たちの後ろへ回った。
背後の階段から、走り下りる足音がした。
祈り堂の正面に残っていた兵たちだった。一人が肩を押さえ、もう一人に背を支えられている。最後のバゼルトが下りると、二人の兵が南の鉄扉を閉めた。
「入口を破られた。すぐ後ろまで来ている!」
扉の向こうで、重い足音が止まった。
次の打撃で、鉄扉の中央が内側へ膨らんだ。押さえていた兵の靴が床を滑る。バゼルトは二人を横へ退かせ、左手の剣を構えた。焼けた右腕が下がったまま、身体が二つに分かれる。
もう一度、鉄を打つ音が響いた。扉が外れ、床へ倒れ込んだ。アキスたちが下りてきた階段に、戦槌を両手で握る巨角人が立っていた。
教官の一方が、その足元へ踏み込んだ。振り上げた戦槌の下で首を切られ、大きな身体が扉の上へ崩れる。後ろにいた岩翼人は死体を飛び越え、地下へ入ってから翼を広げた。
黒い衣をまとった魔角人が、その後に続いた。左右へ曲がった黒い角を低い戸口へかがめ、背の翼を畳んだまま最後の段を下りる。南の入口から原環の大きな身体を見渡し、その前へ並ぶ守備兵に目を止めた。
「原環は傷つけるな。兵を片づけろ」
北の扉の手前から、射手が南の敵へ矢を放った。魔角人が、その射手へ手のひらを向けた。炎が噴き出すより早く、バゼルトの剣がその手首を狙った。
魔角人は腕を引き、倒れた鉄扉を横へ越えた。その先へ、もう一人の教官が踏み込んでいる。双身の二つの身体が、続けざまに胸と首を狙った。
最初の刃を光の壁が止めた。もう一方の剣が背へ回ると、そこにも防御魔法が開いた。二本の剣を止めたまま、魔角人は北の射手へ顔を向けた。
「北へ抜けろ! 負傷者は守備隊が守れ!」
バゼルトは生徒たちを振り返らなかった。一方が低く踏み込み、もう一方が頭上から剣を振る。魔角人の両手が、二人へ向けて開いた。
炎が左右へ噴いた。教官たちは同じ方向へ逃げず、片方は倒れた扉を越え、もう片方は原環に沿った床へ踏みとどまる。炎が通り過ぎた直後、二本の剣がまた迫った。
南の階段から、両手武器を持つ別の巨角人が下りてきた。正規兵が横へ並び、射撃で先頭を押し返す。教官の背へ回ろうとした一人には、兵の槍が向けられた。
頭上では、岩翼人が矢を放つ射手へ降下していた。術者が防御魔法を斜めに広げ、翼をぶつけた敵へ射手が矢を放つ。敵は上へ逃げられず、柱の陰へ身をひねった。
「デンバル、壁!! 離れてっ!」
スミナがデンバルの服を引いた。石の間から半透明の腕が伸びている。近くの術者が壁へ防御魔法を沿わせると、幽体人の指は光に阻まれた。
敵は壁を離れ、防御の端を回って兵の首へ手を伸ばした。その横へルーシャが踏み込む。指が実体を持って服をつかんだ瞬間に手首を切り、つかまれていた兵を肩で押しのけた。別の兵が胸へ剣を突き出すと、後ろの影は壁へ逃げ戻った。
ルーシャは傷めた脇腹を押さえ、剣先を壁へ向けたまま後ずさった。スミナたちが避難の列へ戻るのを見て、自分もその後ろへつく。
壁から逃れた人々が坂の入口へ押し寄せ、寝台を運ぶ兵の前をふさいでいた。デンバルはアキスの腰を支えたまま、防御魔法に守られた壁際へ下がった。
「そこを空けてくれ、寝台が通れない! 歩ける人は、こっちの壁際へ!」
スミナが人々を光の膜の内側へ導き、通路の中央が空いた。寝台を運ぶ兵がそこを抜け、先に坂を上っていく。
南で炎が噴いた。射手の前へ術者が防御魔法を広げると、炎はその表面を赤く染めた。バゼルトの剣が敵の手首へ迫り、もう一方の身体は背後へ回る。
魔角人が剣を避けて腕を引いた。その拍子に炎がそれ、原環の表面を焼く。敵はすぐに炎を止めた。煙が上がったが、焦げたのは表面だけで、その下の厚い筋は変わらず動いていた。
最後の寝台が北の扉へ近づいた。ルーシャは壁際に残った人を先へ通し、スミナと並んで下がった。
南で、二人の教官が左右から剣を振った。魔角人は石柱を背にして防御魔法を重ね、刃を受けながら片手を頭上へ上げる。
赤い光が、北側の守備兵の上に生まれた。
原環から離れた壁際で、天井のすぐ下に大岩が生まれた。柱の間を埋める岩を炎が包み、床に落ちた兵たちの影が揺れる。アキスは、西門を押し潰した岩を思い出した。
「墜星炎」
「柱の陰へ!」
教官の声に、ルーシャがスミナの肩を引いた。デンバルもアキスを支えたまま柱へ身を寄せる。
守備兵が頭上へ張った防御魔法に、大岩が落ちた。重みで光がたわみ、触れた炎が膨れ上がる。防御が破れ、兵が横へ跳んだ直後、岩が石床をたたき割った。
岩の破片が柱へぶつかり、炎と熱風がその両側から回り込んだ。床が突き上がり、アキスはデンバルと一緒に倒れた。耳の奥で音が途切れる。岩がめり込んだ場所から亀裂が伸び、原環の肉の上へ張り出した床まで走った。
スミナの立っていた床が、下へ折れた。
伸ばした手が縁をつかんだが、石ごとはがれた。腰から下が落ち、むき出しになった肉の間へ沈む。
「スミナ!」
ルーシャが剣を鞘へ押し込み、割れ目の前へ腹ばいになった。スミナの左腕を両手でつかむ。引き上げようとした瞬間、下から太い筋肉が盛り上がった。
落ちた石に押し分けられていた肉が、元の位置へ寄ってくる。スミナの右脚がその間へ埋まり、持ち上がった肉が反対の腿にもかぶさった。脈を打つたびに脚が奥へ引かれ、制服の裾まで見えなくなっていく。
「足が、やだ、待って、引っ張られ……っ!!」
「スミナ!! こっち見て! 私、放さないから! 放さないからっ!!」
ルーシャの身体が床を滑った。彼女は獣相と声を絞り、両脚を獣の形へ変えた。石の継ぎ目へ爪をかけ、つかんだ腕を胸へ引き寄せる。スミナの身体は止まったが、肉は腰の横までせり上がっていた。
アキスはデンバルに支えられて身を起こし、割れ目の前へ膝をついた。スミナの空いた右手を、左手でつかむ。傷めた肩から胸へ痛みが突き抜け、前腕の布がぬれた。デンバルが後ろから右腕を回し、アキスの腰を抱える。
足が抜ければ、二人で引き上げられる。
アキスは右手で剣を抜き、スミナの右脚を押さえる肉へ刃を当てた。引くと浅い傷が開いた。だが肉が縮み、スミナの身体まで一緒に動く。刃先のすぐ横に、彼女の膝が見えた。
「アキス、お願い、引いて!! 足、抜けないの! いや、もっと沈んで……っ!」
深く切れば、脚に当たる。アキスは剣を床へ置き、肉と脚の間へ指を差し込んだ。押し戻されて、指先も入らない。スミナは何か言おうとしたが、息が詰まり、ルーシャの手を握る指に力を込めた。
このままでは、顔まで埋まる。
アキスは右の手のひらを肉へ押しつけた。指を入れたい。ほんの少しでも緩めば、脚を抜ける。
胸の古傷に、焼けつくような熱が生まれた。
次の息を吸う前に、右腕の内側を激痛が走った。肘から先をねじり折られたように身体が跳ねた。
「あああっ!! 痛い、腕、あ、ああああっ!!」
右手を引こうとしたが、腕が言うことを聞かない。
「アキス!? なんだよ、その腕……! アキス!!」
デンバルの声が近くで聞こえた。返事をしようとしても歯がぶつかり、声にならなかった。右腕の筋肉が勝手に縮み、袖の下で皮膚が引き伸ばされていく。袖の縫い目が裂け、肘の内側から手首へ、白い筋が肌を押し上げるのが見えた。
骨まで押し広げられる。そう思うほどの痛みが、今度は五本の指へ集中した。床についた膝から力が抜け、額が石に触れる。視界が涙でにじみ、スミナの顔が見えなくなった。
左手まで滑りかけた。
アキスはその手だけを握り直した。右腕をどうすればいいのか分からない。だが、左にあるスミナの手は離せなかった。息を詰めて顔を上げると、彼女もアキスの指にしがみついていた。
「抜ける! スミナ、足っ! 今なら抜ける!!」
ルーシャが叫んだ。アキスの右手を押し返していた肉が、指の下で崩れている。スミナが左脚を引き寄せ、続けて右膝を曲げた。さっき刃を入れた傷が引っ張られ、柔らかくなった肉ごと大きく裂ける。
「せえのっ、引けぇ!!」
デンバルが右足で床を押した。アキスも腰を引き、ルーシャは両脚で踏ん張ってスミナの上体を引き寄せる。右足が肉から抜けた。スミナの身体が割れ目を越え、ルーシャの胸へ倒れ込んだ。
ルーシャはスミナを抱えたまま、割れ目から後ずさった。スミナの右足首は赤く腫れ、制服には腿から腰まで血の混じった液がついていた。息を吸おうとして何度もせき込み、ルーシャの服をつかんでいる。
アキスは左手を放し、床へ肩をつけた。右腕を引き寄せようとすると、再び胸から指先へ痛みが走った。開いた口から短い息ばかり漏れ、吸っても吸っても足りなかった。
デンバルが腰を支えている。すぐ隣で、ルーシャがスミナの背をさすっていた。
肘の先から、深い青紫の肌が現れた。白い隆起が斜めに走り、手のひらへ枝分かれしていく。横へ張り出した指の節が動くたびに、腕の奥を鋭い痛みが刺した。五本の指先から、黒い爪が伸びていた。
スミナが、アキスの右腕を見ていた。ルーシャの手も彼女の背で止まる。二人の目を見て、服の下へ隠そうとした。けれど、手首を曲げるだけで声が漏れた。
やがて皮膚の下の動きが止まった。腕を裂くようだった痛みが少しずつ弱まり、ようやく長く息を吐けた。それでも胸の古傷は熱く、右腕の奥が脈に合わせて痛んでいた。
指を動かそうとすると、黒い爪が床をこすった。その感触は分かる。思った通りに動くことが、かえって信じられなかった。
南の石柱の間で、魔角人が教官の剣を避けながら、北へ炎を噴きつけていた。射手を守る術者が防御魔法を広げ、その火を受け止める。
視界の端で、魔角人がこちらを見ていた。教官を追っていたはずの目が、アキスの右腕から離れない。
ルーシャが顔を上げた。
「伏せて!!」
頭上を熱が通り過ぎた。
兵の防御魔法は炎を受け止めていたが、火は消えずに光の表面へ広がっていく。支える兵の両腕が震えていた。
ルーシャがスミナを抱いて身を伏せ、デンバルはアキスの背を押さえた。防御魔法が破れ、術者が横へ身を投げる。
炎が崩れた床の下へ吹き込んだ。アキスが手を押し当てた肉には、大きな裂け目が開いている。
炎が裂け目へ入った。
赤い光が、裂けた肉の内側を走った。部屋の中央へ続く肉の筋が膨らみ、太い血管が次々に照らされる。その先の厚い肉の奥で、音を立てて火が膨らんだ。部屋中の灯りが一度まぶしくなり、すぐに暗く落ちた。
魔角人が腕を引き、噴きつけていた炎を止めた。
原環の体内に燃え移った火は消えない。厚い筋の間を赤く燃えながら、奥へ広がっていく。守っていた表面の肉がめくれ、その下から、焦げた筋が崩れ出た。
「下がれ! 近づくな!!」
魔角人は配下を止め、炎の噴き出す裂け目へ手を向けた。裂け目から炎が噴き上がり、その手前で一つにまとまる。内側の赤い光が弱まり、膨れ上がった火も小さくなって消えた。
消した炎の向こうから、教官の剣が迫った。
魔角人は片手を上げた。正面の刃が防御魔法に止まり、背後から首を狙ったもう一本も、翼の前で光に阻まれた。敵は振り返らずに腕を払った。教官の足元から炎が噴き上がる。
二人の教官が左右へ跳び、炎を避けた。着地した一方へ巨角人の大斧が落ちる。教官は柄を切り、もう一方とともに再び敵将へ向かった。魔角人は南の石柱の前から動かず、迫る剣へ手を向けていた。
原環の肉に残ったのは、底の見えない黒い傷だった。
傷の周りの肉が何度も寄ってくる。だが、焼き切れた奥までは届かず、触れ合う前に崩れた。先ほどまで規則正しかった低い音に、長い間が空いている。




