赤
「何を騒いでいるんだ。何に見つかるかわからないのに。」
覚えのある声に振り返るとそこのは神堂が立っていた。
「神堂!なんでこんなところに。脱出できなかったのか」
「こちら方面は扉が使用済みばかりで外に出られなかった」
「そうか。俺も壁沿いに扉をかたっぱしから探しているんだが、使用済みしかないな」
森からでて今度は開けた場所に出た。かなり遠くまで見渡せる。
周りが緑色に支配される中で遠くに赤い点が見えた。
「おい、神堂。あれ……」
「ん?」
神堂がサバイバルリュックから双眼鏡を取り出し、レンズを覗き込む。 しばらくの間、神堂は微動だにせずその「赤い点」を凝視していた。やがて、彼は一切の無言のまま、ゆっくりと双眼鏡を俺に手渡した。その横顔は、血の気が引き、土気色に染まっていた。
「……あれはヤバいだろ」
双眼鏡を受け取り、ピントを合わせた俺の口から、思わず乾いた声が漏れた。
レンズの向こう、霧が立ち込める森の道を、それがゆっくりと歩いてくるのが見えた。 泥だらけの悪路には場違いすぎる、真っ赤なトレンチコート。そして、足元はハイヒールだ。
だが、ヤバいのはその服装ではない。 彼女の「顔」だった。
双眼鏡越しに拡大されたその顔には、鼻や口といった造作は微かにうかがえるものの、目があるはずの位置に、ただ底なしの「真っ黒な穴」が二つ、ぽっかりと空いていたのだ。
眼球がないとか、抉られているとか、そういう次元ではない。そこだけが光を吸い込むような、完全な暗黒の虚空。その黒い穴が、遠く離れた場所に立つ「俺たち」を、確実に見据えているのが分かった。
――ゾクリ、と。 背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走る。
あの女は、人間じゃない。 関わってはいけない、理解してはいけない純粋な「怪異」だ。
「いくぞ!」
俺が叫ぶのと、神堂が踵を返すのは、ほぼ同時だった。
俺たちは女が向かってくる道とは別の方向――手入れされていない鬱蒼とした獣道へ向かって、全力で駆け出した。
背中の金の重さが、今は命を削る枷のように感じられる。だが、捨てる選択肢はなかった。
「ハァッ……ハァッ……! なんなんだよ、あれ!」 「知るか! とにかく距離を取れ! 振り返るなよ!」
ぬかるんだ地面を蹴り、枝をなぎ払いながら森の奥へ突き進む。 背後からは、まだ足音は聞こえない。だが、あの真っ黒な穴に見つめられているという「視線」の感触だけが、首筋にねっとりと張り付いて離れなかった。
森を抜け、唐突に視界に現れたのは、苔生したコンクリート造りの古いポンプ場のような建物だった。俺たちは迷わずその重い鉄扉をこじ開け、中へと転がり込んだ。
「ハァッ……ハァッ……! 閉めろ、早く!」
神堂と二人で錆びついた扉を押し込み、内側のカンヌキを力任せに下ろす。ガチャン、という鈍い金属音が薄暗い空間に響き渡った。
俺は壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。背中の金塊の重みでそのまま床に倒れ伏しそうになるのを必死に堪え、荒れ狂う呼吸を整えようとする。
だが、休んでいる暇はない。俺は這いずるようにして、扉の横にある採光用の曇りガラスの隙間から外を覗き込んだ。
「……嘘だろ」
森の奥から、あの赤いコートの女が真っ直ぐにこの建物に向かって歩いてきている。マスクで口元は隠れているが、あの底なしの黒い穴の目。視線が合っているわけではない。だが、まるで俺たちがここにいることを完全に把握しているかのような、一切の迷いがない足取りだった。
「なんで分かるんだよ……俺たちの居場所が」
神堂が絶望的な声を漏らす。 俺は頭をフル回転させた。行きで、病院や森の中で「何か」に追跡された時のことを思い出せ。あの時、俺は物陰に隠れ、微動だにせず、息を殺していた。 その結果、ヤツは俺を見失い、どこかへ消えていった。
どっちだ? 視覚か、聴覚か?
あの、顔に空いた真っ黒な虚空。あれで俺たちの姿を「見て」いるとは到底思えない。 それに、よく考えてみろ俺たちが走り出した瞬間、女の歩くスピードが明らかに上がった気がした。泥を跳ね上げ、枝を折る俺たちの激しい足音に反応するように。
(……音だ)
確信が閃いた。
「神堂、聞け」
俺は極限まで声を潜め、神堂の肩を強く掴んだ。
「アイツは『見て』ない。音を聞いてるんだ。」
「音……?」
「そうだ。俺たちがバタバタ走って逃げたから、その音を追って一直線に来てるんだ。行きで俺がやり過ごせたのも、完全に息を殺して音を消したからだ」
外から、ザッ……ザッ……という、ハイヒールが泥を踏みしめる不気味な足音が近づいてくるのが聞こえた。もう、すぐそこまで来ている。
「動くな。喋るな。呼吸も限界まで浅くしろ。賞金の入ったバッグも絶対に鳴らすなよ」
俺は神堂にそう耳打ちすると、口を両手で覆い、建物の暗がりに深く身を沈めた。 直後。
ガンッ!!!
鉄扉が、外から凄まじい力で叩かれた。 ヒールの先で蹴り上げているのか、それとも素手で殴っているのか。金属が軋み、扉が内側に向かってわずかにたわむ。
カンヌキが悲鳴を上げている。俺は冷や汗で全身を濡らしながら、ただひたすらに、己の鼓動すらも消し去るつもりで暗闇に溶け込んだ。
ガンッ!!!……ガンッ!!!
鉄扉を叩き割らんばかりの打撃音が、コンクリートの壁に反響して鼓膜を震わせる。俺と神堂は息を殺し、ただ暗闇の中で互いの存在だけを頼りに身を縮めていた。
だが、数回の強烈な打撃の後――唐突に、ピタリと音が止んだ。




