赤赤
「……」
痛いほどの静寂。 聞こえるのは、自分の肋骨を突き破りそうなほど激しい心臓の鼓動だけだ。この鼓動すらヤツに聞こえているのではないかと錯覚するほど、周囲の音という音が消え去った。
ザッ……。
数秒後、扉の向こうから泥を擦るような音がした。 ヤツは扉を破るのを諦めたわけじゃない。建物の周囲を回り始めたのだ。
ザッ……ザッ……。 等間隔で響くハイヒールの足音が、外壁に沿ってゆっくりと移動していく。
(……間違いない。探してるんだ。『音』の発生源を)
俺は横目で神堂を見た。あいつも状況を完全に理解し、額から滝のような冷や汗を流しながら、彫像のように固まっている。
足音が、俺たちが隠れている壁のすぐ裏側に到達した。 壁一枚、わずか数十センチの距離に、あの真っ黒な穴の目を持った女がいる。
その時だった。 俺たちの頭上、手の届かない位置にある換気用の小さな鉄格子窓。そこから、スーッ……と不自然に冷たい風が吹き込んだ。
ヤツが、外からその窓に顔を近づけている気配がした。 「視覚」がないヤツは、穴の空いた顔を格子に押し当て、中の「音」を拾おうと耳(あるいはそれに代わる器官)を澄ませているのだ。
(動くな……絶対に音を立てるな……!)
俺は全身の筋肉を硬直させ、祈った。 しかし、不運は常に最悪のタイミングで牙を剥く。
神堂の背中だ。 彼が無理な姿勢で背負っていたリュックの中の「なにか」。それが、極度の緊張でわずかに震えた彼の肩の動きに耐えきれず、リュックの中でバランスを崩した。
――カチャリ。
道具同士がぶつかる、硬く冷たい金属音。 音量にすれば、ほんのわずかなものだ。だが、この極限の静寂の中では、爆音に等しかった。
「アァァァァァァァッ!!!」
窓の外から、人間のものとは思えない、空気を引き裂くような絶叫が轟いた。 直後、鉄格子の隙間から真っ赤なトレンチコートの腕が凄まじい速度で突き出され、コンクリートの壁をガリガリと削りながら、音の鳴った神堂の方向へ盲目に腕を振り回した。
「ヒッ……!」
神堂が声にならない悲鳴を上げ、思わず後ずさる。靴の裏が床を擦り、さらに大きな「音」が鳴る。
(マズい、完全にロックオンされた!)
女の腕が窓の枠を掴み、メシャアッ!という音と共に、人間には不可能な力で鉄格子をひん曲げ始めた。このままでは窓ごと壁を破壊して侵入してくる。
俺はとっさに視線を走らせた。 足元に、ポンプ場の設備の残骸らしき重い鉄のボルトが転がっている。
(視覚じゃなく、聴覚なら……!)
俺はボルトを掴み取ると、立ち上がりざまに、神堂とは全く反対の方向――建物の奥の暗がりへ向かって、全力でそれを投げつけた。
ガァァンッ!!
ボルトが奥の配管に直撃し、金属の甲高い音がポンプ場全体に鳴り響いた。
ピタリ、と。 窓枠を破壊しかけていた赤い腕が止まった。 次の瞬間、窓の外の気配が、すさまじい速度で「ボルトの落ちた音」の方向――建物の裏手へと向かって走り出す音が聞こえた。
「今だ! 立て!!」
俺は腰を抜かしかけている神堂の胸ぐらを掴んで引きずり起こした。 ヤツが裏手に回っている数秒の間に、俺たちはカンヌキを外し、正面の鉄扉を蹴り開けた。
外は相変わらずの深い霧だ。 俺たちは金と銀の重みを背中に引きずりながら、女が向かったのとは逆の方向へ、泥に足を取られながらも死に物狂いで走り出した。
「聴覚頼みなら……音で騙せる……!」
走りながら、俺はポケットの中のライターと、少しの小銭の感触を確かめた。 完全に撒けたわけじゃない。だが、ヤツの「ルール」が分かった以上、ただ逃げ惑うだけの時間は終わった。俺の不運体質が致命的な音を鳴らさない限りは、生き残る目算はある。
俺たちは一切の言葉を交わさず、足音を最小限に殺しながら、霧の立ち込める森のさらに奥へと歩を進めた。




