ユウヤケコヤケ
俺は濡れた前髪をかき上げ、軋む膝を叩いて無理やり立ち上がった。
隠し扉の先は、配管がむき出しになった無機質なメンテナンス通路だった。等間隔で設置された非常用の赤いランプだけが、果てしなく続く一本道を不気味に照らし出している。
水を吸った靴が、ギュッ、ギュッと重い足音を立てる。
『あめふりくまのこ』での濁流と巨大グマ。
『どんぐりころころ』での人食いドジョウ。
『やぎさんゆうびん』での無限の死の指示。
どれもこれも、童謡の「歌詞」に隠された理不尽な殺意ばかりだ。
日本の童謡には、一歩間違えれば呪いのように聞こえる不気味な歌が山ほどある。次にどんなイントロが流れても即座に対応できるよう、俺は極限まで神経を研ぎ澄ませて暗い通路を進んだ。
湿って重く淀んだ空気。暗く果てしなく続く通路へ歩を進めていたその時、突如として周囲の光源が全て消滅した。
まるで巨大なスイッチを切ったように、急いで点けたペンライトの光さえも、圧倒的な闇に吸い込まれて消えてしまう。
心臓が嫌な音を立てる。
遠くで、重厚な鐘の音が響いた。
『ゴォォォォォン……ゴォォォォォン……』
遂に本当のホラーがはじまったかと思えば、暗闇の奥からかすかに『夕焼け小焼け』のメロディが流れてきた。
『夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る』
……なるほど。この一寸先も見えない真っ暗な現状が、「日が暮れる」を表しているのだろう。
真っ暗過ぎて先に進めずに立ち尽くしていると、闇の中で、俺のすぐ背後に「言いようのない圧迫感」が生まれた。後ろを振り返る勇気はないが、背後の空気の密度が明らかに変わったのがわかる。
視界の端、ぼんやりとだが、白く、巨大な「丸い何か」が、ゆっくりと、しかし着実にこちらへ向かって浮遊しているのが見て取れた。
あれが『まあるい大きなお月さま』か。
『カァァァァッ! カァッ!』
頭上で、カラスの鳴き声が響く。
その瞬間、俺の足が勝手に動き出すかのような強烈な衝動に駆られた。
『お手々つないで みなかえろう カラスと一緒に 帰りましょう』
……そういうことか。このカラスの鳴き声が響いている間だけが、唯一の「移動許可時間」なんだ!
「走れ……!」
俺はカラスの鳴き声に合わせ、全速力で真っ暗な地下道を駆け出した。
背後の「お月さま」も、俺の速度に合わせて一定の距離を保ちながら、ヌルリと闇を滑るように追いかけてくる。
『カァッ、カァッ……』
カラスの声が途切れると同時に、俺は足に全力を込めてスパイクで突き刺したかののようにその場で停止した。今までの経験で、童謡の歌詞の意味を取り違えれば、確実に不幸な目に遭うのが骨身に染みてわかっているからだ。
直後、頭上の暗闇の配管から、ドロリと粘り気のある光る液体が滴り落ちた。
『空には キラキラ 金の星』
……俺が急停止した場所のわずか数センチ前。もし一歩でも余計に踏み出していれば俺の頭上に降り注いでいたであろう「溶けた黄金の塊」が、ジュワァァッ!と音を立ててコンクリートの床を焦がす。
「……冗談じゃない。物理的に溶かされるのかよ」
俺は震える足に力を込め、次のカラスの鳴き声を待った。
背後の白いお月さまは、俺が停止している間も決してスピードを緩めない。じりじりと近づいてくる。あの巨大な丸い光に追いつかれたら、『小鳥が夢を見る』ように、永遠に覚めない夢を見ることになるのだろう。
『カァッ!』
再び鳴き声。俺は反射的に跳び出した。
道はどこまでも続き、出口は見えない。
『カァッ、カァッ、カァーッ!』
連続するカラスの鳴き声。俺は死に物狂いで走る。
『……カァッ(……!)』
不意にカラスの声が弱まり、消えかかった。俺は急ブレーキをかける。
しかし、地面がひどく濡れていた。前を通った先行者の汗か、それとも地下の結露か。
俺の靴底が滑り、バランスを崩して数センチ前に体勢が流れてしまう。
「やばいっ……!」
頭上で、再び金の雨が降る予兆――不気味な「沸騰音」が聞こえる。
避ける時間はない。俺はとっさに背中のバッグを頭上に掲げた。水を吸って重くなった千円札の塊が詰まったバッグが、唯一の盾になる。
ジュウウッ!!
高熱の黄金がバッグに叩きつけられ、ひどく焼ける臭いが鼻をつく。重い。熱い。札束が焦げる煙が目に染みるが、頭は無事だ。
しかし、体勢を崩した俺のすぐ背中まで、ついに「お月さま」が迫っていた。白く冷たい光が俺の身体をすっぽりと覆い、絶対零度の寒気が脊髄を突き上げる。意識が、フッと遠のきかける。
「神堂……生きててくれよ。俺は……俺はまだ、帰るんだ……!」
俺はバッグの焦げた匂いと、背後から迫る圧倒的な死の眠気に耐えながら、カラスの次の鳴き声を、ただひたすらに、心臓の音を噛み殺して待ち続けた。
『……カァァァァァァッ!!』
今までで一番大きく、そして長い鳴き声が地下道に響き渡った。
「おおおおおッ!!」
俺は雄叫びを上げ、凍りつきかけた両足の筋肉を無理やり引き剥がして駆け出した。
お月さまの光の範囲から強引に抜け出し、真っ黒な空間を遮二無二走る。溶けた黄金の飛沫が肩や腕を掠め、服を焦がすが、もう立ち止まる選択肢はない。
『子供が帰った あとからは』
スピーカーから流れる童謡が、いよいよ終盤に差し掛かる。歌が終われば、カラスの移動許可時間も消滅し、俺は確実にお月さまに飲み込まれる。
暗闇の先に、かすかな、本当に針の穴ほどの「自然光」が見えた。
出口だ。
『まあるい おおきな お月さま』
背後の光が爆発的に膨張し、俺の影を前方に長く伸ばす。
出口の扉は、古びた重厚な鉄の押し扉だった。鍵はかかっていないように見える。
『小鳥が夢を 見るころは』
「見ねえよ、んなもんッ!!」
『空には キラキラ……』
俺は黄金の雨が頭上に降り注ぐコンマ数秒前、ショルダーバッグを抱え込んだまま、出口の鉄扉へ向かって弾丸のように飛び込んだ。
肩から扉に激突する。錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、分厚い扉が外側へと弾け飛んだ。
ドガァァァァンッ!!
「あ……ぁっ……!」
床を転がり、コンクリートの地面に放り出された俺の全身を、暴力的なほどの「光」と「熱」が包み込んだ。
人工的なお月さまの冷たい光じゃない。本物の、太陽の光だ。
背後で、ガコン、という重い音と共に鉄扉が閉ざされ、『金の星』の歌詞は分厚い壁の向こう側へと完全に遮断された。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
俺は仰向けのまま、眩しすぎる空を見上げた。




