テルテルボウズ
息が落ち着くまで、俺は廃病院の冷たい床に座り込んでいた。
口の中に血の味がする。あのまま『森のくまさん』で捕まっていたら、今頃どうなっていたか想像もしたくない。
頭の中を整理する。
「童謡の歌詞が現実になる」――それがこのデスゲームの隠されたルールなのだとしたら、あまりにも理不尽でタチが悪い。日本の童謡には、よくよく考えると残酷で不気味な歌詞が山ほどあるからだ。
立ち上がり、まずはこの場所の安全を確保することにした。
薄暗い廊下を見渡し、壁に設置された古い火災警報器の受信機と、天井を這うむき出しの配線を無意識に目で追う。施設全体の電気が完全に死んでいるのを確認すると、俺は廊下を区切る重い防火扉の前に立ち、手動のラッチを外して軋むレールに強引に引き出した。
分厚い鉄の扉で、空間を物理的に遮断する。これで、少なくとも背後から何かが突然突進してくるリスクは減らせるはずだ。
窓の外を見ると、さっきの『あめふりくまのこ』の影響か、どしゃ降りの雨がまだ狂ったように降り続いていた。
「出口を目指すにしても、この雨じゃ視界が悪すぎる……」
その時だった。
静まり返った廃病院の、どこかにある天井スピーカーから、ノイズ混じりの不気味な電子音が流れ始めた。
チロリン、ロリン……♪
『てるてるぼうず てるぼうず』
(……またか! 今度はなんだ!?)
俺は反射的に身構え、防火扉の影に身を隠した。
『あした てんきに しておくれ』
童謡の『てるてるぼうず』。
一見すると無害な祈りの歌だ。だが、俺は背筋に冷たい汗が伝うのを感じ、必死に記憶の底にある歌詞の続きを探った。
たしか、一番、二番とあって……。
『いつかのように はれたなら』
『きんのすずを あげましょう』
病室の窓の外、雨に打たれる中庭の大きな枯れ木に「何か」がぶら下がっているのが見えた。
白い布を被った、人間大の巨大なてるてる坊主だ。首のところを太いロープで縛られ、風雨に揺れてゆらゆらと首を振っている。
『てるてるぼうず てるぼうず』
『あした てんきに しておくれ』
曲が進行する。雨は一向に止む気配がなく、むしろ雷鳴まで轟き始めた。
てるてる坊主の白い布が、雨を吸って徐々に重く、泥のようにどす黒く変色していく。
(マズい……! 童謡の歌詞が絶対なら、この雨が止まらなかった場合の『三番の歌詞』は……!)
『それでもくもって ないたなら』
スピーカーからの音声が、急にテープが間延びしたような、低く歪んだ声に変わった。
中庭の枯れ木にぶら下がっていた巨大なてるてる坊主が、ズリッ……と自ら首のロープを引きちぎり、泥濘んだ地面にドスンと降り立った。
のっぺらぼうの顔が、真っ直ぐに俺のいる窓の方を向く。
そして、濡れた布の袖の下から、巨大な裁ち鋏のような銀色の刃物がギラリと鈍い光を放った。
『そなたのくびを チョンと切るぞ』
(首を切るぞ、だ!!)
ガシャァァァァンッ!!
目の前の窓ガラスが粉々に砕け散り、巨大な刃が俺の首元めがけて一直線に突き出された。
ヂャキンッ!!!
空気を切り裂くような金属音。
間一髪、後ろへ仰け反るようにして倒れ込んだ俺の鼻先数ミリを、巨大な銀色の刃が通り過ぎた。数本切断された前髪がハラリと床に落ちる。
(あっぶねぇッ!!)
這いつくばったまま後ずさりすると、てるてる坊主は窓枠に両手をかけ、ズリ……ズリ……と、重く濡れた身体を病室の中へと引きずり込んできた。
のっぺらぼうの顔には目も鼻もないが、確かな「殺意」だけが俺の首元にロックオンされているのがわかる。
ヤツは立ち上がり、巨大な裁ち鋏を両手で構えた。
チャキ……チャキ……と、刃を擦り合わせる嫌な音を鳴らしながら、泥水を滴らせて一歩ずつ距離を詰めてくる。
「冗談じゃねえぞ、てるてる坊主の首を切るのは人間の方だろうが!」
俺は床を蹴り、病室から廊下へと飛び出した。
さっき確認したばかりの廃病院の構造が、頭の中にマッピングされている。俺は真っ直ぐに、先ほどラッチを外してレールから引き出しておいた分厚い鋼鉄製の「防火扉」へと向かって走った。
ズズッ……ズシャッ……!
背後から、濡れた布を引きずる重い足音が猛スピードで迫ってくる。
振り返らなくてもわかる。ヤツは鋏を大上段に振りかぶり、俺の首を刎ねようと跳躍の体勢に入っている。
俺は防火扉の隙間へ滑り込むと同時、扉の裏側に回り込み、両足で床を強く踏み締めた。
ヤツの白い布で覆われた頭と、凶悪な鋏を持つ腕が、扉の隙間に突っ込んでくる。
(今だッ!!)
俺は全身の体重と筋力を腕に込め、重さ数十キロはある鋼鉄の防火扉を、レールに乗せて勢いよくスライドさせた。
ガァァァァンッッ!!!
凄まじい金属音と衝撃。
ヤツが俺の首を狙って突き出した鋏は空を切り、その代わりに、防火扉と壁の間にてるてる坊主の「首」が完全に挟まった。
「ギ、ギギッ……!!」
布の奥から、くぐもった奇声が漏れる。ヤツは挟まった首を抜こうと暴れるが、建物の区画を物理的に遮断するための防火扉の重量と構造は、そう簡単に押し返せるものではない。
俺はさらに扉へ体重をかけ、てこの原理を使って容赦なく押し込んだ。
『そなたのくびを チョンと切るぞ』
童謡の三番の歌詞が、脳内でリフレインする。
「首を切られるのは……お前の方だ!!」
メキャァァァッ!!
不気味な破砕音と共に、てるてる坊主の首が完全に折れ曲がり、扉の圧力で物理的に千切れた。
巨大な裁ち鋏が、ガラン……と力なく床に落ちる。首を失った白い布の胴体が、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
……プツッ、ザーーーッ……。
その瞬間、天井のスピーカーから流れていた電子音がノイズと共に途切れた。
「……ハァッ……ハァッ……」
俺は防火扉に背中を預け、荒い息を吐き出した。
終わった。一曲クリアだ。歌詞の通りに「首が切られた」ことで、歌の呪縛が強制終了したらしい。それが自身の首であったとしても。
ふと、廊下の窓から外を見ると、さっきまで建物を沈める勢いだった豪雨が、嘘のようにピタリと止んでいた。
厚い雨雲の隙間から、薄日が差し込み始めている。
『あした てんきに しておくれ』の願いが、いびつな形で叶ったということか。
「……とりあえず、晴れたな」
俺は床に転がったままの巨大な裁ち鋏を横目に、ふらつく足で立ち上がった。
休んでいる暇はない。童謡のレパートリーがどれだけあるのか見当もつかないが、次のイントロが鳴り出せば、また新たな地獄が始まる。
(神堂のヤツも、どこかで違う歌に追われてるはずだ。死ぬなよ……)
見えない相棒の生存を祈りながら、俺は廃病院の非常階段を見据えた。
雨が上がった今なら、外の視界も利く。童謡が流れない無音の隙を突いて、一気に『出口』のゲートまで距離を稼ぐしかない。俺は濡れた服の裾を絞り、再び薄暗い廊下を駆け出した。




