アメフリクマノコ
『おやまに あめが ふりました』
どこからともなく、無機質な童謡が響き渡った。
その音声が空気を震わせた瞬間、空が割れたかのように、突如として大粒の雨が降り出した。
『あとから あとから ふってきて』
雨脚は異常なスピードで激しさを増していく。肌を打つ雨粒が痛い。視界が白く濁る。
『ちょろちょろ おがわが できました』
足元に違和感を覚え、下を見た俺は息を呑んだ。さっきまでただの獣道だったはずの場所に、泥水を濁らせた幅2メートルもの「川」が濁流となって現れていたのだ。
(……まずい。どういう理屈だ? 童謡の歌詞の内容が、そのまま現実に起きている)
全身に粟が立つような悪寒が走った。
童謡の歌詞なんて、まともに覚えているはずがない。おまけに今は通信機器すら奪われている。スマホで調べることすら不可能なのだ。
『いたずら くまのこ かけてきて』
背後の森が、バキバキと不自然な音を立てた。
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、木々をなぎ倒しながらこちらへ一直線に向かってくる黒い塊だった。
(まずい、まずい、まずい!)
いくらなんでも素手で熊を相手になんてできるはずがない。
それに、なんだあのデカさは。歌詞は『くまのこ』だろうが! なんであんな、人を一飲みできそうな巨大な成獣が走ってくるんだ!
俺は死に物狂いで泥濘む森を駆け出した。肺が悲鳴を上げ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど脈打つ。
『そうっと のぞいて みてました』
どこまで走っても、木々の隙間からあの真っ黒な双眸が見つめてくる感覚が消えない。背中を舐め回すような、ねっとりとした死の視線。
どこか、どこか頑丈な建物に避難しなければ、絶対に殺される。
『さかなは いるかと みてました』
不意に背筋が凍った。
(この状況で『さかな』ってなんだ? 獲物のことか? ……イコールで、俺のことじゃないのか?)
鬱蒼とした木々の先に、コンクリート造りの無骨な建物が見えた。浄水場のポンプ室のようだ。俺は転がり込むように中へ入り、分厚い鉄の扉を全力で閉め、鍵をかけた。
『なんにも いないと くまのこは』
小さな窓から外をうかがうと、扉の向こうで熊がきょろきょろと周囲を探し回っているのが見えた。
荒い息を殺しながら、俺は必死に頭を回転させる。
この異常なゲームの「終了条件」はなんだ?
曲が終われば解放されるなら、とにかく耐え凌げばいい。だが、もし別の「クリア条件」が設定されていたら? そもそも、この理不尽な怪物を誰がどうやって制御しているというんだ。
ふと、頭上から異様な気配を感じた。
見上げると、天窓のガラス越しに、巨大な熊の顔がこちらを見下ろしていた。
(やばい。歌詞が思い出せない。この後、一体どうなるんだ……!?)
『さかなを まちまち みてました』
喉から出そうになる悲鳴を噛み殺し、暗闇の中でじっと身を潜める。
『なかなか やまない あめでした』
外の雨音は、まるで狂ったように施設を打ち付け続けている。
『かさでも かぶっていましょうと』
『あたまに はっぱを のせました』
ガシャンッ!!!!
その瞬間、天窓の強化ガラスが粉々に砕け散り、巨大な黒い塊が降ってきた。
熊の巨大な前腕が、まるで丸太を振り下ろすかのように俺の頭上へと迫る。その分厚い爪の間には、確かに一枚の大きな葉っぱが握られていた。
「ッ……!!」
俺は泥水が溜まる床へ、全力で横っ飛びに転がった。
直後、さっきまで俺の頭があったコンクリートの床が、爆音とともに粉砕される。あんな一撃を頭に食らっていたら、間違いなく俺の頭蓋骨はザクロのように弾け飛んでいただろう。
割れた天窓から、滝のような雨水が室内に雪崩れ込んでくる。瞬く間に水位が上がり、足元がおぼつかなくなる。
熊は体勢を立て直す隙も与えず、容赦なく二撃、三撃と致命的な爪を振り回してくる。風を切る音が耳元を掠める。紙一重で躱し続けるが、体力の限界は近い。
(水圧で扉が開かなくなったら、完全に終わる……!)
俺は熊が腕を振り抜いた一瞬の隙を突き、扉を蹴り開け、外の濁流へと身を投げ出した。
ふと、奇妙な静寂が落ちた。
(……曲が、終わった……?)
振り向くと、ついさっきまで狂ったように俺を殺そうとしていた熊が、まるで電池の切れたおもちゃのように、完全に停止していた。雨の中に立ち尽くすその姿は、あまりにも異様で、気味が悪かった。
(一曲で終了なのか……? とりあえず、助かったと、いうことでいいのか……?)
泥水に膝をつき、安堵の息を吐き出そうとした、その時。
無慈悲なスピーカーのノイズ音に続き、軽快な次のイントロが森に響き渡った。
タラらランランランランらーん……
(…………このイントロは!!)
俺は振り向くことすら放棄し、再び狂ったように走り出した。
曲から逃れたくて。
再び動き出すであろう、あの化け物から逃れたくて。
泥を跳ね上げ、走る、走る、走る。
心臓が口から飛び出すのではないかと思うほどの時間を駆け抜け、気がつけば一度通った廃病院の裏手へと辿り着いていた。
いつの間にか、曲は聞こえなくなっている。
(危なかった……あの状況からの『森のくまさん』は、どう考えても即死確定だろうが……)
膝に手をつき、むせ返るように酸素を貪る。
ようやく、報酬説明時のBGMの意味を理解した。
『通りゃんせ』
あの曲は、単なる「帰りは恐い」という脅し文句ではなかったのだ。
「童謡の歌詞が、凄惨な現実となって襲いかかってくる」という、悪趣味な二重のルールの提示だった。
(神堂のヤツ、生きてるか……?)
遠くの森の奥から、絶叫とも、物が砕ける音ともつかない様々な『音』が微かに聞こえてくる。参加している全員が、今頃同じような狂気の目に遭っているはずだ。
もう、考えるのはやめよう。
とにかく、ここから脱出してしまえば終わる。
出口を目指すんだ。この、狂った童謡の森から。




