虹の橋
「ハァッ……ハァッ……!!」
俺は転がりながら立ち上がり、背後を振り返った。
分厚いチタンのシャッターの向こう側から、ドゴォォォン! ドゴォォォン! と、狂ったような打撃音が響き続ける。シャッターの中央が、内側からの異常な力でボコボコと丸く膨らみ始めていた。
(完全に防ぎきれるもんじゃない。七色が揃えば、あの『虹の結界』すら破られるんだ!)
俺は顔を上げ、周囲を見渡した。
そこは、施設の外周壁のすぐ内側。夜の森の木々が途切れ、開けた空間になっていた。見上げると、雲一つない夜空に、狂おしいほどに明るい『満月』が浮かんでいる。
「二時方向……北東だ。北東を探せ!」
俺は夜空の星回り――北極星とカシオペア座の位置から、おおよその方角を割り出した。そして、時計の針でいう『二時』の方向、北東の森の奥を凝視する。
月明かりに照らされた木々の隙間に、赤黒く変色した朽ち果てた石鳥居が見えた。
『鬼塚神社』。
あそこが、この狂った連鎖を終わらせるための「あの世への扉」だ。
メギャァァァァァッ!!!
背後で、ついにチタンのシャッターが完全に引き裂かれた。
地響きと共に地上へ這い出してきたのは、完全に七色のオーラを纏い、もはや人間の原型を一切留めていない巨大な『キメラ』だった。
赤と青が混ざり合った肉体。顔の至る所に浮かび上がる巨大な緑の目玉。裂けた橙色の口。そして、黄色い靴や紫の足すらも取り込み、ドロドロに溶け合って蠢く下半身。
ヤツが動くたびに、すべての感覚(音、匂い、視覚、荷重)を捉える不気味なオーラが周囲の空間を歪ませている。
七色が一つに統合された『鬼』。
ヤツがこの森の外周壁(虹の結界)を越えれば、このデスゲームの封印は完全に決壊する。
「虹の完成ってわけか。……上等だ、あの世まで案内してやるよ!!」
俺は満月が煌々と照らし出す北東――『二時方向』の森の奥へ向かって、全力で泥を蹴り上げた。木々の隙間から、赤黒く朽ち果てた鬼塚神社の石鳥居が迫ってくる。
「ミィ……ツケタァァァァァァァァッ!!」
背後から、複数の声帯が混ざり合ったような絶叫が鼓膜を殴りつけた。
振り返らなくてもわかる。ヤツは音を捉え、俺の匂いを嗅ぎ、一つ目で俺の背中を捉え、地面の荷重を完璧にトレースして、凄まじい速度で迫ってきている。
「来いよ……全部まとめて、あの世へ連れてってやる!!」
鳥居まであと10メートル。
だが、ヤツのスピードの方が圧倒的に速い。俺の背中に、紫色のドロドロに溶けた巨大な腕が迫る。その時、俺は研究所の資料にあった一文を思い出した。
『満月の晩に鬼門にある鬼塚神社にて虹の橋を完成させると、それを渡ってあの世に帰る』
「虹の橋」を完成させる?
――違う。予め虹を作るんじゃない、七色すべてを取り込んだアイツ自身が『虹』なんだ。
ならば「橋」とは何だ?
わからずに神社に近づいたその時、ちょうど雲の切れ間から満月の光が真っ直ぐに差し込んだ。
鳥居、灯篭、石畳……それらの影が一直線に伸び、月光と共に光と闇の「橋」を形作っている。
(満月の理由はこれか!)
後は、橋の袂である鳥居にヤツを真っ直ぐ通すこと。それこそが、還魂の儀式を完成させる最後の条件だ。
俺は鳥居の真下まで駆け込んだ瞬間、前方に飛び込むのをやめ、急ブレーキをかけて地面にスライディングした。泥まみれの地面を滑りながら、身体を反転させて仰向けになる。
俺の目の前、巨大な七色の鬼が、俺を喰い殺そうと大口を開けて鳥居に向かって大ジャンプを放っていた。満月の光が、ヤツの七色の巨体を照らし出す。
「今だ……通れッ!!」
俺は仰向けのまま、ショルダーバッグのジッパーを引きちぎるように開け、中に入っていた『大量の100ドル札』を、上空へ向かって全力でぶち撒けた。
バサバサバサッ!!
無数の札束が月明かりに反射して、宙を舞う。
音、匂い、視覚、そして重さ。空中に散乱した大量の札束に、ヤツの肥大化しすぎた「すべての感覚器官」が一瞬だけ撹乱された。
ヤツの鋭い爪が俺の鼻先数ミリを掠め――そのままの勢いで、ヤツの七色の巨体は俺の頭上を飛び越え、石鳥居の向こう側へと完全に突き抜けた。
その瞬間だった。
カァァァァァァッ……!!
満月の光が、鳥居を通り抜けたヤツの「七色」の肉体に強烈に乱反射し、夜空に向かって巨大な『光の虹』を形成した。
それはまさに、現世とあの世を繋ぐ「虹の橋」。
「ギャアァァァァァァァァァァァァッ!!?」
鬼が断末魔の叫びを上げた。
橋の向こう側の空間がグニャリと歪み、底なしのブラックホールのような暗闇が口を開ける。虹の橋(鬼自身の肉体)が、その暗闇に向かって凄まじい勢いで吸い込まれていく。
ヤツは地面に爪を立てて抗おうとしたが、七色の光は容赦なく分解され、文字通り「あの世」へと引きずり込まれていった。
シュゥゥゥ……。
やがて光が収束し、歪んでいた空間がパチンと弾けて消滅する。
後には、静まり返った夜の森と、冷たい満月の光、そして地面に散らばった数枚の100ドル札だけが残された。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……!!」
俺は地面に大の字に倒れ込み、震える肺に限界まで空気を吸い込んだ。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど脈打っている。だが、その音を狩りに来る「赤い女」は、もうどこにもいない。
終わった。
旧日本軍の狂気も、理不尽なデスゲームも、すべてあの世へ送り返してやった。
「……っはは、ざまぁみろ」
俺はゆっくりと身を起こし、泥だらけの100ドル札を一枚拾い上げて、パンパンと汚れを払った。
俺は「悪運」を味方につけて、一人でこの地獄を生き抜いたのだ。
森の奥から、朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
俺は散らばった札束を再びバッグに詰め込み、振り返ることなく、光が差し込み始めた出口の扉へと向かって歩き出した。外の世界では、俺の生還を信じて待っているバカが一人いるはずだから。
やがて、鬱蒼とした木々が途切れ、視界が不意に開けた。
顔を上げると、目に飛び込んできたのは、山の稜線から顔を出したばかりの、眩しすぎるほどの朝日だった。
「……眩しっ」
泥と血と汗で汚れきった手で目を覆う。
冷たい夜の空気は消え去り、太陽の確かな熱が肌を焼く。現実に、生者の世界に帰ってきたのだという実感が、泥のように重い足先からゆっくりと這い上がってきた。
未使用の扉にスマートウォッチをかざし、LEDが緑に点灯すると、俺はゆっくりと扉を開けた。




