底辺YouTuber
外壁の外側を歩いていると、道端に見覚えのある背中があった。
ボロボロの服を着て、膝を抱え、まるで捨てられた犬のようにうずくまっている男。
「……おい」
俺が掠れた声で呼ぶと、男の肩がビクッと跳ねた。神堂だ。あいつは信じられないものを見るようにゆっくりと振り返り、俺の姿を視界に捉えた瞬間、顔をくしゃくしゃに歪ませた。
「お前……っ、忌部……! お前、本当に……!」
「言っただろ。俺の悪運を信じて待ってろってな」
俺はフラフラと歩み寄った。神堂は立ち上がると、俺の肩をバンバンと乱暴に叩いた。痛いが、その痛みが今はたまらなく心地よかった。
「死んだかと思ったぞ、バカ野郎! お前が来なかったら、俺はこの金塊を抱えたまま一生後悔するところだったんだぞ!」
「悪かったよ。ちょっと後ろの戸締まりをしてたら、手こずっちまってな」
神堂は涙を乱暴に袖で拭うと、大切そうに上着のポケットから「4キログラムの金塊」を取り出した。朝日に照らされたそれは、血と泥に塗れた俺たちの地獄を嘲笑うかのように、美しく黄金色の光を放っていた。
「……よし、約束通り山分けだ。お前がいなきゃ、俺は一人で潰れてた」
神堂が誇らしげに言うのを見て、俺は思わず吹き出した。
「ははっ……ああ、そうだな。だが、お前が賞金を失って負い目を感じてるかと思って、俺も少しばかり『お土産』を拾ってきたんだぜ」
俺は肩から下げていたショルダーバッグのジッパーを開け、神堂の目の前で逆さまにして振った。
バサバサバサッ! と音を立てて、泥だらけの「100ドル札の束」がアスファルトの上に崩れ落ちる。
「なっ……なんだこれ!?」
「出口の近くに散らばってたんだよ。化け物の目眩ましに使っちまったから少し減ったが……それでも数万ドル分くらいはあるはずだ」
神堂は目を丸くして札束と俺を交互に見比べ、やがて腹を抱えて大爆笑し始めた。
俺もつられて笑った。静かな朝の山道に、借金まみれで底辺を這いずり回っていた男二人の、下品で最高な笑い声が響き渡る。
金塊と、泥だらけのドル札。
命をチップにして賭けたデスゲームの報酬としては、あまりにも割に合わないかもしれない。だが、この金は俺たちの人生を買い戻すには十分すぎる額だった。
「……さて、帰るか。東京へ」
俺が立ち上がると、神堂も札束をかき集めて立ち上がった。俺たちは並んで歩き始める。
「なぁ、忌部」
「なんだよ」
「俺、この先一生……雨上がりの『虹』を見ても、綺麗だなんて思えそうにないわ」
神堂のぼやきに、俺は肩をすくめた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。色鮮やかな光のスペクトルは、俺たちにとって永遠に「死の恐怖」の象徴として脳裏に刻み込まれてしまった。
「同感だ。あと、『童謡』もな」
朝露に濡れた山の匂いが、鼻腔をくすぐる。
振り向くことは、もう二度としなかった。俺たちの背後では、あの呪われた森が、すべてを飲み込んだまま朝霧の底へと静かに沈んでいった。
「そういえば、動画、撮れてたかな」
歩きながら、俺は胸ポケットからボロボロになった小型カメラを取り出した。ずっと回しっぱなしだったはずだ。もしこれが無事なら、俺たちは一躍スターだ。賞金の金塊と、この地獄の映像。チャンネル登録者数が爆増するのは間違いない。
「……なあ、忌部。もう二度とこういう場所には行かないぞ」
「当たり前だ。……でも、もし動画がバズったら、次の企画どうする?」
俺の冗談に、神堂は呆れた顔をして、それから二人で声を上げて笑った。
翌日。ニュースには何も流れていなかった。
あの広大な敷地と、そこで行われた殺し合いめいた脱出ゲームの存在は、まるで最初からなかったかのように世間から隠蔽されているらしかった。
だが、俺たちの手元に残った金塊とドル札は、紛れもない本物だった。
換金所を転々と回り、ようやく現金化したその額は、なんと「2億円」。
――残りの1億はどこから出てきたのか?
答えは単純だ。塔からの折り返し時に『身体に直接括り付けていた金塊』の存在を、俺は極度の緊張と疲労で完全に忘れたまま持ち帰っていたのだ。
一方で、苦労して持ち帰ったショルダーバッグの中の賞金は、「順位ペナルティー」として大半が没収されてしまった。優勝はなんの困難もなかった神奈木さんだった。一度も童謡も色にも合わなかったらしい。俺とは反対の運を持っているようだ。
結果的に身体に括り付けていた金塊のおかげで、俺たちは莫大な金を手にした。通帳の桁が増えたのを見て、ようやくあの地獄のような体験が夢ではなかったと実感できた。
しかし、俺たちの心に刺さったままの棘は、別のところにあった。
「……なぁ、確認するぞ」
俺の部屋で、震える手でずっと回し続けていた小型カメラのSDカードをパソコンに差し込む。
撮影中、あんなに命がけで逃げ回り、童謡を聞き、怪異のルールをくぐり抜けてきた。そのすべてが、このカードの中に記録されているはずだった。
「……なんだ、これ」
神堂が息を呑む。
モニターに映し出されたのは、確かに撮影したはずの数時間分のファイルだ。しかし、クリックして開いてみても、画面はただの「真っ暗闇」だった。
音声も一切入っていない。ノイズすらなく、ただの無音が、最初から最後まで続いているだけだ。まるで、俺たちがその場所にいたこと自体が最初からなかったかのように。
「……嘘だろ。俺たちが泣き叫んで、走って、助け合って、死にかけたあの時間が、全部消えてるってのか?」
俺はパソコンの画面を叩いた。データ破損かと思い、復旧ソフトを何種類も試した。だが、どのソフトを使っても「データが存在しない」としか表示されない。物理的な故障ではない。記録そのものが、何らかの力で「消し去られた」のだ。
「賞金は本物だ。でも、証拠はゼロかよ」
神堂が力なく笑った。
俺たちは有名YouTuberになることも、あのデスゲームの真実を世間に告発することもできなかった。手元に残ったのは、通帳の莫大な数字と、誰にも信じてもらえない「悪い夢」のような記憶だけ。
「……動画、撮れてなかったよ」
俺はカメラを机に放り投げた。
誰にも見せられないし、信じてもらえない。でも、俺たちの身体には、あの泥の感触や、冷たい恐怖の記憶が確実に刻み込まれている。
神堂はテレビをつけた。ワイドショーでは、どこかの国の平和なニュースが流れている。「ま、いいか」とあいつは言った。
「命があって、金もある。……世間に知られるなんて、そもそも俺たちみたいな底辺には向いてなかったんだよ。この金で一生分食いつないで、二度とあんな場所には行かない。それが一番の『勝ち』だ」
俺はその言葉に深く頷いた。
窓の外では、東京のありふれた夕暮れが広がっている。俺たちは、あの地獄から生者の世界へ帰ってきた……はずだ。
だが、時折、部屋のどこからか、あのノイズ混じりの『かごめかごめ』が微かに聞こえるような錯覚に襲われることがある。
カメラには何も写らなかった。
だが、あの門の向こうで、俺たちが「何か」を置いてきた――あるいは「何か」を連れ帰ってきてしまったことは、確かなような気がする。
俺は換金した札束を棚の奥にしまった。有名YouTuberへの夢は消えた。でも、俺たちの「不運で幸運な」人生は、これからも続く。
……たとえ、自分の背中についた色が、鏡を通して見えないとしても。




