暗靑
――――ゴボッ。
今度ははっきりと、ボートのすぐ脇で水音が鳴り、水面が大きく波打った。 神堂が信じられないものを見るように目をひん剥き、俺の顔と水面を交互に見る。
(……次はなんだ? 頼む、ただのデカい魚であってくれ……!)
だが、俺のささやかな祈りは、次の瞬間に無惨に打ち砕かれた。
ズズズ……ッ。
淀んだ湖面を割って、ゆっくりと「それ」が浮上してきた。 青より暗くふやけた肌。そして、顔面を完全に覆い隠すように、べっとりと張り付いた長い黒髪。 どう見ても、人間の女の頭部だった。
女は肩まで水から姿を現すと、濡れた髪からポタポタと黒いしずくを落としながら、ボートの上の俺たちを見上げるようにピタリと静止した。
「……ッ!」
神堂が反射的に悲鳴を上げそうになるのを、俺は血相を変えて首を横に振り、目で強烈に制圧した。 叫んではいけない。大きな音を立てれば、対岸からあの『赤い女』が高速で追ってくるかもしれないのだ。
だが、状況は最悪だった。 ここはヤツのテリトリーである「水の上」であり、俺たちの逃げ場は幅わずか数メートルのボートの上しかない。さらに、俺たちの背中にはそれぞれ1億円分の金塊と万券という「極上の重り」が括り付けられている。もしヤツがボートを揺らして転覆させれば、俺たちはそのまま湖の底へと一直線に沈んでいく。
チャプ……。
女の青暗くふやけた手が、ゆっくりと、音もなく水面から上がり、ボートの縁へと伸びてきた。 顔に張り付いた黒髪の隙間から、濁った眼球が、俺たちの背負っている「荷物」を品定めするようにギョロリと動いた気がした。
ズズズッ……。
ふやけた青暗い両腕がボートの縁を掴み、その「女」は濡れた体を滑らせるようにして、ゆっくりと船内へ這い上がってきた。
月明かりの下で、彼女が身にまとっている衣服が判別できた。古びたワンピースだ。
だが、俺と神堂を真の恐怖に陥れたのは、彼女の顔や肌の色ではない。完全に船上に姿を現した彼女の、「下半身」だった。
ボートの底板に投げ出されたスカートの裾。それは、あまりにも不自然に「ぺったんこ」だったのだ。布の下にあるはずの肉体の膨らみが、太ももから爪先に至るまで、一切存在していない。まるで、上半身だけのマネキンに服を着せ、下半分を折り畳んで床に置いたかのような、異様でグロテスクな光景。
「……ッ!!」
神堂が後ずさりしようとして、背中の万札の重みでバランスを崩しそうになる。ボートがグラリと揺れ、水音が立った。
(動くな!!)
俺は目で神堂を制し、這い上がってきた「暗青色の女」を凝視した。
彼女は音もなく、ズルズルと腕の力だけで俺たちの方へ這い寄ってくる。顔を覆う黒髪の奥から、怨念のこもった視線を感じる。
なぜ、こいつはボートに上がってきた? こいつの「ルール」はなんだ?
俺は極限の恐怖の中で、目まぐるしく思考を回転させた。怪異には必ず法則がある。
異常な点として、こいつがボートに乗り込んだ時、船体は1ミリも沈み込まなかった。下半身がなく、這いずる音さえ立たない。つまり、こいつには「質量(重さ)」が全くない。そして、今現在顔を上げることもなく、真っ直ぐに俺の足元あるい神堂の背負っている「荷物」に向かって手を伸ばしている。
(……質量がない? 足がない?)
その時、俺の脳裏に、さっきまで俺たちを陸地で追跡していた怪異の姿がフラッシュバックした。
『下半身しか存在しない、黄色い靴』。
対して、今目の前にいるのは、『上半身しか存在しない、暗青色の女』。
俺は背筋が凍るのを覚えた。 もし、あの黄色い靴とこの暗青色の女が「対」の存在だとしたら? 足のみで重さがないヤツは自分にはつけることのできない足跡を追い求めていた。ならば、この上半身のみで重さもない女が求めているものは……。
「重さか機動性」だ。
こいつは水底に沈みたいのではないか?だが、下半身という機動性と質量を失ったため、永遠に水面を漂うことしかできなくなっている。だから、水辺にやってきたボートに這い上がり、水底へ帰るための「重たいもの」「新しい足(下半身)」を奪いに来たんだ!
女のふやけた手が、俺の足首に触れる寸前まで迫った。 このまま触れられれば、俺の両足はこいつの「重り」として奪われ、あのスカートの中に引きずり込まれる。
対処法は一つしかない。俺の足よりも重く、こいつを水底へ沈めるのに十分な質量を持つものを、その手に握らせてやることだ。
俺の背中には、1億円分の金塊が詰まったバッグがある。 神堂の背中には、万札の詰まったリュック。
(この重すぎる『賞金』を渡せば、こいつは満足して湖の底へ沈んでいく……!)
だが、ふざけるな。 ここまで泥水啜って、命をかけて手に入れた1億円だ。これを手放せば、俺はまたあの最底辺の日常に逆戻りだ。
「……神堂」
俺は震える手でオールを握り締めながら、極限の小声で前に座る神堂に囁いた。
「こいつは『重り』を求めてる。お前のリュック(万札)か、俺のバッグ(金塊)をくれてやれば助かるはずだ」
「なっ……! 冗談じゃねえぞ!」
「だよな。俺も嫌だ」
女の手が、ついに俺の靴の先端に触れた。氷のように冷たく、感覚が麻痺しそうな悪寒が走る。




