暗靑赤橙
「だから……別の重りを探す!」
俺はボートの底板に視線を走らせた。この古びたボートには、転覆防止のため、あるいは係留するための「何か」が積まれているはずだ。
俺は足元に転がっていた、コンクリートブロックと、それに繋がる太いロープを蹴り上げた。 そして、その重い塊を、俺の足首を掴もうとした暗青色の女の腕めがけて、押し付けるように転がした。
ゴトンッ!!
ボートの底で重い音が鳴った。 女の青白い手が、反射的にその重りをガシリと掴む。
瞬間、女の顔を覆っていた黒髪がバサリと揺れ、初めてその奥の「目」が見えた気がした。彼女は自分の手に「重いもの」が握られたことを確信したかのように、ズルリと後ずさりし、ボートの縁へと向かった。
ドボンッ!!!
水音と共に、イカリを抱いた暗青色の女は湖へと落下した。 すさまじい勢いでロープが引きずり出され、湖の底深くへと一直線に沈んでいく。
「……ッ、ロープを切れ!!」
俺は叫んだ。このままアンカーのロープが伸び切れば、俺たちのボートごと湖の底へ引きずり込まれる! 神堂がサバイバルナイフを引き抜き、船べりに擦れながら猛スピードで飛び出していくロープを力任せに切断した。
ブツンッ!!
反動でボートが大きく揺れ、水面が静まり返った。 湖の底深くへ、暗青色の女は重い鉄の塊と共に消えていった。
「ハァッ……ハァッ……」
俺たちは息を荒らげ、暗い水面を見つめた。 金塊も、万札も、そして俺たちの「足」も無事だ。ギリギリで最適解を引き当てた。
「……忌部、お前、頭おかしいだろ。金より命を優先しろよ……」
「結果オーライだ。それより、今の『重りを落とす音』と『水音』……デカすぎたぞ」
俺の言葉に、神堂の顔が再び青ざめた。
音を立ててしまった。 そしてここは、逃げ場のない湖のど真ん中だ。
湖畔の森の方角から、水面を叩き割るような凄まじいスピードの足音がこちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。赤い女だ。 ヤツは水の上だろうとお構いなしに、音の発生源であるこのボートへ向かって、一直線に「水面を走って」きていた。
霧の向こうから、水面を激しく蹴立てる音と共に「赤い女」が迫る。 ボートとの距離、わずか数十メートル。 ついにその姿が、霧の中から鮮明に浮かび上がった。
これまで俺たちを追い詰めてきた、あの不気味なマスク。それが、勢い余ったのか、あるいは獲物を前にして自ら外したのか――ズリ落ちた。
マスクの下から覗いたのは、「橙色の口紅」がべったりと塗られた唇だった。 その唇が、歪に裂け、俺たちに向かって、はっきりと響く音で紡いだ。
「――ミツケタ」
全身の産毛が総毛立つ。あまりの恐怖に、あれほど火照っていた身体の汗が一気に引いて、氷のような冷たさに変わった。
(おいおい、待て……今までの怪異は一体につき『一色』の法則があったはずだろ? 暗青色の女、黄色い靴、赤い女……。なぜあいつは『赤』と『橙』の二色なんだ?)
頭の中で思考が加速する。さっき小早川が犠牲になった。音を立てて走ったあいつが、赤い女に捕まった。 まさか……犠牲者を取り込むたびに、怪異は色を奪い、能力強化されるのか? 喋る能力を得た今、次に何を撃ち込んでくる?
とにかく、奴の注意を逸らさなければならない。
俺はとっさにポケットから、さっきボートに飛び乗る際に掴んでいた小石を一つ取り出し、全力で湖面の遥か遠くへ投げつけた。
ポチャンッ。
小石が静かな湖面に波紋を作る。 赤い女の進路が、吸い寄せられるようにその波紋の方向へグイッと折れた。 俺は神堂に目配せする。今だ、対岸へ漕げ。
俺たちは櫂を一度も水面に叩きつけず、極限の静けさでボートを動かした。 湖面に浮かぶ石の着地点で、女はピタリと立ち尽くした。
「……巻いたか?」
神堂が息を潜めて呟いた直後、女の首が奇妙な角度で、ギギッ……と音を立てて回った。 あいつは、音のしなかったはずの俺たちの方を、確信を持って見つめている。
あの仕草は何だ? 頭をゆっくりと左右に振りながら、何かを確認するように、探るように。 音に反応して走っていた時とは全く違う。獲物の正体を、空気の密度で……あるいは匂いで確かめているような、粘りつくような歩み。
俺の頬を、湖からの微かな風が撫でた。 空気が冷たい。そして、その風は……俺たちの背中から、あの女の方へと流れている。
「……神堂」
俺は震える声で告げた。
「色は口についているが、マスクが外れて現れたのは口だけじゃない。鼻もある。味覚、言語だけでなく、嗅覚を得た可能性はないか?」
マスクが外れた。そして、俺たちは風下ではなく、風上だ。 俺たちの体臭が、金塊と万札の独特の金属臭が、今まさに、この湖の風に乗って、あいつの鼻腔へ直接届いている。
「風が……止まらない。これじゃ、どこまで逃げても無駄だ」
女は、俺たちの放つ匂いを深く、深く吸い込むように肩を上下させた。その橙色の口紅が、再び不気味に吊り上がる。
「オイシソウ……」
獲物を確認した狩人の顔だった。 あいつはもう音なんて必要としていない。俺たちがどれだけ静かに動こうが、風が吹く限り、俺たちはあいつから逃れられない。
「神堂、ボートを捨てろ。水中なら、匂いはある程度防げる……かもしれない!」




