黃黃
数分後。
水を打ったように静まり返った宿舎の廊下に、不気味な音が響き始めた。
カツッ……カツッ……カツッ……。
硬い革靴が、リズミカルに木の床を叩く音。
「……来た」
隙間から見えたのは、小早川が恐怖に顔を歪めて語った通りの、あまりにも異様でシュールな光景だった。
空洞の空間の下に、薄汚れつつもやけに目立つ黄色い革靴と、グレーのスラックスの裾だけが動いている。上半身は完全に透明で、光の屈折すら見えない。だが、そこに「重さ」を持つ何かが確かに存在しているのが、床板が軋む音と沈み込みでハッキリとわかった。
俺たちは瞬きすら忘れて、ヤツの動きを注視した。
黄色い革靴は、先ほど小早川が歩いた廊下のルートを一寸の狂いもなく進んでいく。歩幅、立ち止まって躊躇した場所、つま先の僅かな角度まで、まるで小早川の過去の動作をビデオの逆再生で見ているかのように、完璧にトレースしているのだ。
そして、黄色い靴は俺たちが最初に指示した「右の部屋」へと入っていった。
向かいの部屋に置いた匂いのついた上着には、顔を向ける素振り(上半身はないが)すら見せず、一切見向きもしない。
数秒後。
右の部屋の中で、黄色い靴の動きがピタリと止まった。
そこは、俺たちが小早川を両脇から抱え上げ、彼の靴の裏が床から離れた「最後の足跡」の地点だった。
黄色い靴はその場で何度か足踏みをするように動いた後、完全に停止した。
まるで、見えない足跡の道が突然途切れてしまい、ルートを見失ってシステムエラーを起こしたプログラムのように。
「……結論が出たな」
俺は極限まで声を潜め、隣で息を呑む神堂と小早川に囁いた。
ヤツは『足跡』を完璧にトレースする怪異だ。匂いでも視覚でもない。ターゲットが踏みしめた地面の圧力、あるいは残された荷重の痕跡そのものをなぞって追ってきている。
小早川の顔に、このデスゲームが始まってから初めて安堵の色が浮かんだ。
足跡を追ってくるだけならば、対処のしようはいくらでもある。水の中や川を歩いて痕跡を消すか、あるいは今回のように「足跡自体を物理的に消す(他人に運ばれる)」ことで、ヤツの追跡ループを強制的に断ち切れることが完全に証明されたのだ。
「とりあえず、ヤツが右の部屋でフリーズしている間に、もう少し奥の部屋へ移動して休もう。……自分の足元には気をつけろよ」
俺たちは極力音を立てないように、しかし確かな希望を持って、宿舎のさらに奥の部屋へと歩を進めた。
窓を閉め切り、交代で数十分の仮眠を取り、少しでもすり減った体力を回復させようとしていた矢先だった。
静まり返った宿舎の廊下に、再びあの音が響き始めたのだ。
カツッ……カツッ……カツッ……。
「……起きてくれ、神堂、小早川」
俺は即座に二人を揺り起こした。ヒールの音ではない。男物の硬い革靴が床を叩く、一定のリズム。あの「黄色い靴」だ。
だが、おかしい。
ヤツは右の部屋で足跡を見失い、完全にフリーズしたはずだ。それなのに、足音は相変わらず一切の迷いなく、俺たちが休憩しているこの部屋のドアへ向かって真っ直ぐに近づいてきている。
「なんでだ!? 足跡は消したはずだろ!」
小早川がパニックを起こし、頭を抱え込む。
俺たちが休んでいる間に、ヤツの「ルール」が更新されたのか?
この部屋は入り口のドアの他に、掃き出し窓から外の広いベランダ(かつての洗濯干し場だろうか)へと出ることができる。
「外に出るぞ。ヤツが『誰』を追ってきているのか確認する」
俺たちは追跡の「条件」を再確認するため、ベランダから外へ這い出し、庭先の敷地で三方向に分かれて散開した。互いが見える位置を保ちながら、それぞれが別の方向へ歩く。
誰の足跡を追ってくるのか。それを見極めるためだ。
数秒後、俺たちが飛び出してきたベランダの窓が開き、空中の「黄色い靴」が姿を現した。
ヤツは手すりの柵を、まるで平地を歩くように滑らかに乗り越え、音もなく地面に着地する。そして、迷うことなく歩き出した。




