赤靑靑
彼女はもはや、行きで遭遇した時のようにゆっくりとは歩いていなかった。明確な殺意と、獲物を引き裂く衝動を伴った大股で、爆音の発生源であるこの場所へ、一直線に迫ってくる。
前門の青い火の玉、後門の赤い女。
俺の背中の1億円が、ただの金属の塊から、確実な「死の重り」となって全身にのしかかっていた。
「動くな、神堂!!」
俺は、恐怖で弾かれたように外へ駆け出そうとした神堂の腕を、全力で掴んで引き止めた。
「狂ったか忌部!? 挟まれるぞ!」
「走れば確実に『音』で殺される! 前も後ろもだ!」
轟音を立てる発電機、ひしゃげた門、支柱に体当たりを繰り返す青い火の玉。この状況で俺たちが一歩でもパニックに任せて走り出せば、あの怪異たちは即座に「逃げる獲物の足音」という新鮮で、最も狩りやすい音にターゲットを変更するだろう。
「……あいつの『見えない』を信じるんだ」
俺は歯の根をガチガチと鳴らしながら、震える声で神堂に告げた。
赤い女は、音と「暗闇の監視カメラ」で俺たちを追ってきた。だが、裏を返せば、『音を出さず、監視カメラの死角にいれば、俺たちはあいつにとって完全に透明』なはずだ。
俺たちは管理棟のエントランス、いつの間にかに日が落ちた外から微かな月明かりが差し込む「光の当たる場所」のど真ん中に立ち、全身の筋肉を石のように硬直させた。背中の金塊と万券の重みが、皮肉なことに今は重心を安定させ、足の震えを抑え込んでくれていた。
ザッ……! ザッ……!
真っ赤なトレンチコートが、恐ろしい速度で接近してくる。彼女の目的は今、俺たちではなく、背後の発電機室で鳴り響く強烈なエンジン音だ。
(信じろ。俺たちは、見えていない……!)
女が、俺たちの目の前――わずか数十センチの距離を通り抜けようとした、その瞬間。
ピタリ、と。
女のヒールの音が止まった。
顔に空いた、底なしの二つの黒い穴。それが、ゆっくりと首を傾げるようにして、俺の顔の正面に向けられた。
(ヒッ……!)
隣で神堂が悲鳴にならない息を呑む気配がしたが、俺は彼の腕を万力のように握り締め、爪が肉に食い込むほどの力で絶対に動かさないようにした。
見られている。いや、見られていない。
黒い虚空からは、腐った土と錆びた鉄、そして大量の血液が酸化したような強烈な死臭が漂ってきた。
女の顔が、俺の鼻先数センチまで近づく。
彼女の冷たく、湿った吐息が、俺の頬をねっとりと撫でた。
目を逸らしたら殺される気がした。俺は女の黒い穴を、瞬きすら忘れて見つめ返した。乾燥で眼球が焼けつくように痛む。心臓が肋骨を内側から突き破るのではないかと思うほどの音を立てている。だが、背後の発電機の爆音が、俺たちの心音や呼吸音をギリギリのところでマスキングしてかき消してくれていた。
数秒が、永遠のように感じられた。時間の概念が崩壊するほどの恐怖。
やがて――女は俺から顔を逸らすと、再びザッ、と足音を立てて、奥の発電機室へと歩き去っていった。真っ赤なコートの裾が、俺の泥だらけのズボンに微かに触れて通り過ぎる。
「……ッ、はぁっ……」
「まだだ! 息を吸うな、歩け!」
俺たちは肺がちぎれそうな苦しみに耐えながら、女が完全に背を向けた隙に、すり足で音を殺して管理棟の外へと滑り出した。
だが、休む暇はない。
外に出た瞬間、目の前の森では、あの「青い火の玉」が吹き飛んだ支柱に向かって、狂ったように体当たりを繰り返していた。
ガァァァンッ!!
(火の玉が激突する轟音)
「いいか、神堂。あの火の玉が支柱にぶつかって『音』が鳴った瞬間にだけ、一歩進むんだ」
俺たちは『見えない』音の波紋を信じた。爆音が森に響き渡るコンマ数秒の間にだけ足を前に出し、泥を踏む音を環境音に完全に同化させる。
ガァァァンッ!!
(一歩進む)
……静寂。
(止まる。筋肉が痙攣しそうになるのを必死に耐える)
ガァァァンッ!!
(一歩進む)
まるで狂気と死の「だるまさんがころんだ」だ。背後の管理棟からは、赤い女が発電機を物理的に破壊し始めたのか、すさまじい金属の破砕音が聞こえ始めている。女が発電機を壊し終え、再び周囲の微細な音を探り始める前に、この火の玉の警戒範囲を通り抜けなければならない。
ガァァァンッ!!
あと数メートル。
ガァァァンッ!!
火の玉の放つ青い光が、俺たちの横顔を不気味に照らし出す。炎のはずなのに熱は一切なく、むしろ液体窒素を浴びたかのように、肌を刺す極寒の空気が漂っていた。
そして、ついに。
俺たちは火の玉の警戒エリアを抜け、破壊された門の先にある鬱蒼とした森の小道へと滑り込んだ。
「……抜けたッ」
もはや振り返ることはしなかった。
俺たちはただ、自分たちの見出した「見えない生存ルート」がこの先に続いていることだけを固く信じて、背中に食い込む重い金塊と万券を揺らしながら、底知れぬ夜の闇の奥へと足を踏み入れた。




