三話 アルバードは加速する。
はじめは疑念しかなかった。
この者はレイズに成り代わり、アルバード家に害をなす存在かもしれぬ――。
それゆえ、容赦なく試し、容赦なく斬る覚悟でここに立っていた。
だが──
真剣な眼差しで、額から滝のように汗を流しながら、必死に魔力を練ろうとする姿を見たとき。
胸の奥に、確かに何かが揺らいだ。
(……やはり、レイズだ)
血がどうこうではない。
魂の奥に宿る“在り方”が、それを告げていた。
本当は、長い間夢を見ていた。
いつか実の孫に、魔法と剣の稽古をつける日が来るのだと。
だがその夢は、現実には叶わなかった。
老いゆく日々の中で、諦めたはずだった。
それがいま──
形は違えど、確かに叶っている。
血のつながりではなくとも、今のレイズは自分を慕い、真っ直ぐに努力している。
悪意もなければ打算もない。
ただ、ひたすらに学びたいと願い、未来を掴もうとする姿がそこにあった。
「……かわいいやつめ」
小さく漏れた独り言は、誰にも届かない。
昔のレイズも、今のレイズも。
どちらも変わらず、自分にとっては愛しい孫なのだ。
ヴィルは、心の奥で静かに誓った。
――この子は、私が守る。
そして。
先ほど放った炎。
あれが決して本気ではなかったことを――
レイズは、まだ知らない。
ヴィルはふと問いかけた。
「して、なぜダイエットをしたいのだ?」
俺は両手でお腹を掴み、ぽよんぽよんと揺らしてみせる。
「ねぇ……ヴィルたちの美的感覚どうなってるんだよ!」
ヴィルは顎に手を当て、少し悩むように考え込んだ。
「そうですね……私から見れば、かわいい孫のようなものですかね」
「……あぁ、これ絶対“おじいちゃんフィルター”入ってるわ……」
俺は天を仰ぎ、深いため息を吐いた。
「それでも痩せたいの! かっこよくなりたい! そして、強くなりたいんだ!!」
その言葉に、ヴィルの目がかすかに光った。
「……強く、なりたいのですか」
静かに呟いた後、ヴィルは背後の棚から一本の木刀を取り出し、軽やかに俺へ投げてよこした。
「では、これを使いなさい」
「うわっ!?」
かっこよくキャッチ――できるはずもなく、俺は慌てて飛び退く。
ドンッ!
訓練場に重たい音が響いた。
「そのさ……ヴィル……頼むから投げて渡すのやめて……」
「はて?」
ヴィルはきょとんと首を傾げる。
「それは“重木”といって、この大陸でも特に密度の高い木から削り出したものです。そのサイズで……そうですね。今のレイズくらいの重さでしょうか」
「余計に投げるなそんなもん!! 死ぬだろ!!」
息を荒げて突っ込む俺。
「てか、おれと同じ重さの木刀を片手で振り回すって……お前、化け物すぎるだろ……!」
ヴィルは口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「……ですが、さっきは持ち上げてみせたではないですか」
その眼差しには、確かな温かさと誇らしさが宿っていた。
だが、必死に息を整える俺は、それに気づくことはなかった。
俺は静かに鼻で笑った。
「ふっ……見てろよ、ヴィル。俺なら優雅に木刀を持ち上げて――」
……れなかった。
「んぬぬぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
訓練場に響き渡る、意味不明なおたけび。
必死に歯を食いしばり、顔を真っ赤にして――どうにかこうにか木刀を持ち上げることに成功した。
だがその姿は、まるで洗濯機に放り込まれた子犬のように全身ぷるぷる震えており、優雅さのかけらもなかった。
「……」
俺は汗だくになりながら必死に耐える。
ヴィルはその光景を静かに見守り、口元にかすかな笑みを浮かべていた。
その笑顔の意味を、俺はまだ知らない。
ヴィルは木刀を構える俺を一瞥すると、静かに言った。
「……では、私は仕事がありますのでここを離れます。夕刻には食事をたくさん用意しておきますから、しっかり食べるように」
「ま、待て……ヴィルぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅ!」
木刀を必死に抱え込んだまま、俺は全力で引き止める。
ヴィルは振り返り、首をわずかにかしげた。
「なんでしょう?」
「その夕飯って……今日はなにが出てくるんだぁぁぁぁぁ!?」
ほんの一瞬。
ヴィルの口元が、わずかに緩む。
「そうですね。今日はお祝いに……象を一頭、こしらえようかと」
「アホかあああああっっ!!!」
反射的に木刀をぶん投げ、全力でツッコミを入れた。
「ヴィル、頼む……ヘルシーなのにしてくれ! 俺は痩せたいんだよ!!」
頑なな俺の態度に、ヴィルは眉をひそめ、珍しく声を荒げた。
「そんなことをしたら餓死してしまうだろうが!!」
憤慨したまま踵を返し、足早に去っていく。
俺はその背中に叫んだ。
「……ほんとに、あんたらの感覚おかしすぎるんだよ! 俺だけ? 俺だけなのか……!?」
訓練場に、虚しく声が反響する。
やれやれ、とため息をつきながら、先ほど投げてしまった木刀を拾い上げる。
「んぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅぅ……!」
全身を震わせ、意味のない雄叫びを上げながら素振りを始める。
優雅さの欠片もない。
だが、どこか必死で。
どこか、眩しかった。
(さっきの炎といい……あのじいさん……)
木刀を振りながら、俺はぼやく。
(絶対、俺のこと嫌いだろ……)
額から汗が流れ落ちる。
だが。
レイズは知らない。
ヴィルほど――
この少年を愛してやまない存在がいないということを。
訓練場。
レイズは全身を震わせながら、必死に木刀を振っていた。
「んぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅぅ!!!」
「ぬおおおおおおおおお!!!」
訓練場に響き渡る、獣じみた雄叫び。
その姿を、柱の陰からそっと見守るひとりのメイドがいた。
――レイズ様が……こんなに必死に……。
汗で髪が張り付き、顔は真っ赤に染まっている。
まるで脱水で倒れるのではないかと思うほどの姿に、かつての冷徹で無慈悲なレイズの面影はまるでなかった。
ただ、がむしゃらに努力する一人の少年がそこにいるだけだった。
メイドは胸を締め付けられるような思いで見つめていたが、不意にレイズと視線が合ってしまう。
「……っ!」
慌てて目を逸らし、足早にその場を去った。
――場面は切り替わり、屋敷。
廊下を歩くヴィルの表情は、隠しきれぬほどの喜びに満ちていた。
その姿を見た使用人たちは思わず目を見張り、ざわめく。
「……久しぶりですね」
「当主様が、あんなに嬉しそうにしているなんて……」
皆がそわそわと声を潜める中、リアナが駆け寄ってくる。
「ヴィル様! レイズ様は……!?」
ヴィルは軽く手を振って制した。
「放っておきなさい。それより――今日の夕餉は豪勢にしてください」
リアナは驚きながらも深く頭を下げる。
そしてヴィルは振り返り、背後に控える人物の名を呼んだ。
「……セバス。私と共に来なさい」
「ハッ」
応えたのは、鋭い眼光を隠さぬ一人の男。
背筋は伸び、白髪を整えた風貌は年を重ねてもなお隙がなく、ただ立っているだけで周囲に緊張を走らせる。
その存在感は、まさに執事の鏡。
そう――彼こそが、本物の執事長、セバスであった。
静まり返った廊下を、二人の足音だけが響く。
ヴィルは歩みを止め、背を向けたまま低く告げた。
「……セバス。私は当主を降りる」
セバスの瞳がわずかに揺れた。
だが言葉は発さず、ただ耳を傾ける。
「次代の当主は――レイズを据える」
「……」
短く間を置き、ヴィルは続けた。
「そして私は執事長となる。おまえは、私を補佐せよ」
それはあまりにも唐突で、常識を逸する決定だった。
だが、セバスは何一つ疑問を呈さなかった。
「……ハッ。そのようにいたします」
理由は聞かない。
なぜなら――セバスは長きにわたり、ヴィルという男を誰よりも近くで見てきた。
彼が一度決めたことに、無意味な迷いはないと知っている。
そして、その決断が必ず未来を切り開くものだと信じている。
それがセバスの忠義であり、尊敬の証だった。
そうして、必死に情けない雄叫びをあげているレイズは、知らぬ間に当主となっていたのだった。
セバスはヴィルから命を受けるや否や、すぐに動いた。
屋敷の使用人たちを一堂に集め、その場にはリアナと――訓練場でレイズを見守っていたもう一人のメイド、リアノの姿もあった。
二人は姉妹であり、同じくこの屋敷に仕えている。
整列した使用人たちは一斉に深く頭を下げる。
場を支配する沈黙の中、セバスは低く告げた。
「……ヴィル様は、当主をお降りになった」
その瞬間、場がざわめいた。
誰もが耳を疑い、視線を交わし合う。
「しずかに」
セバスの一喝。
厳しく、容赦のない声音に、ざわめきは一瞬で掻き消えた。
「そして――次期当主は、レイズ様とする」
再び、空気がざわつく。
使用人たちの間に、驚愕と不安とが交錯し、重い波紋のように広がっていった。
「静粛に」
再度響いた声は、先ほどよりもさらに冷たく鋭かった。
「次に同じ無礼を見せる者がいれば、許しません」
場は再び静まり返る。
耳を澄ませば、皆の息遣いすら伝わってくるようだった。
セバスは淡々と続ける。
「執事長はヴィル様が務められる。そして、私はその補佐に回る。――異論は認めません」
空気が凍りつく。
だが、それでも一人の執事が恐る恐る手を上げた。
「……発言をお許しください」
「許す」
「なぜそのような一大事を……そのような重大な決断を、突然に……」
セバスの答えは短く、鋭かった。
「知りません」
場が息を呑む。
「ですが――ヴィル様が決めたことです」
その一言に、誰一人として言葉を続ける者はいなかった。
ヴィルの決断がどれほどの重さを持つか。
それが絶対のものであると、使用人たちは全員、骨身に染みて理解していたからだ。
場には深い沈黙が降りた。
夕暮れまで、レイズは真面目に鍛錬を続けていた。
木刀を振り上げ、振り下ろすたびに全身から汗が噴き出す。
呼吸は荒く、視界はわずかに揺れている。
(……なんで、俺はこんなことをしてるんだろう)
(なんのために生まれたんだろう……)
(……俺の大好物って、なんだったっけ……?)
最後の思考は、もはや疲労で脳が限界に達している証拠だった。
だが――
次の瞬間、レイズの目の奥に光が宿る。
「……そうだ! 俺は……!」
絶対に成し遂げなければならない。
世界を救うとか、そんな壮大な話じゃない。
「――痩せるんだ!!!」
叫びとともに木刀を握り直す。
再び気力を振り絞ろうとした、そのとき。
「……レイズ様。そろそろお戻りになりませんと」
涼やかな声が背後から響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の執事。
「君は……?」
「クリスと申します」
月明かりに照らされた横顔は端正で、切れ長の瞳が静かに光を宿している。
礼儀正しく一歩引いた姿勢ながら、隠しきれない威圧感が漂っていた。
レイズは一目で理解する。
(……こいつ、ただならぬ強者だ……!)
そして、同時に。
(……くそっ、めちゃくちゃイケメンじゃねえか……!)
俺は、決して情けない姿を見せまいと踏ん張った。
何事もなかったかのように、軽やかに木刀を元の位置へ戻そうとする。
「んぬぬぬぬぬぬぬぬ……!!!」
全身を震わせ、顔を真っ赤にしながら、どうにか定位置へ押し戻す。
その姿を見て、クリスは目を細めた。
「……本当に、大したものです」
その言葉には、嘲りはない。
むしろ確かな敬意が込められていた。
クリスは理解していた。
ヴィルから聞かされていた意味を。
――ついに、レイズがアルバードの血を覚醒させる時が来たのだと。
(ようやくですね、ヴィル様……)
(ようやく。アルバードを導ける跡継ぎが……)
クリスの眼差しには、期待しかなかった。
「ふっ……あぁ、では行くぞ」
俺は低く響く声で応じ、できる限り格好をつける。
だが現実は無情だ。
全身は汗でびっしょり。
金髪は額に張り付き、服は体にぴたりと貼りついている。
もし引き締まった体なら、英雄の帰還のように映ったかもしれない。
だがそこに立っていたのは、金髪碧眼の丸々とした少年。
「勇ましい」よりも、「必死で頑張っている子ども」に近い姿だった。
それでも。
クリスの目には、期待しか宿っていない。
だがその視線は――
レイズにとって、皮肉でしかなかった。
(……どうせ、俺のことデブとか思ってんだろ……)
小さく自嘲しながら、レイズは視線を逸らす。
俺は気づいていない。
その期待が、体型ではなく――
覚悟に向けられているということを。




