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ただ、今を生きるということ

 鉄格子のなかで、両手首に意識を集めてみる。エルフの里で二年間練習した基礎だ。


「一応、使えるのか」


 いつものように飛び出て剣の形になったりはしないが、数的黒い血が出てきた。契約が続いている証拠だろうが、ニオからきつくきつく言われていた『自らの意思』が弱まっているせいか、なんの形にもならない。


「血は、ある。シールの分も……」


 クラッドはなぜ、あの場で殺さなかったのか。国家反逆罪は基本的に死刑。多少許されても終身刑だ。王族という立場と、シールのこと、それに私怨も含めて、多少周りが止めても殺していただろう。意思のある黒い血を入れるリャナンシーを模した瓶も、シールを蘇らせる天使の羽根もあった。


 なぜ殺さない。いや、あの場でどうしても殺せなくても、ここへ投獄されてから無理やり殺しに来ることも可能なはずだ。クラッドならやりかねない。


 それをしないということは、まだ生きていられるのかもしれない。


 シールの意思の宿る血を差し出して、子供たちも蘇って、旅を終えられる。うまいこと逃げれば、そのまま生き続けるってことも……


「そんな価値、ねぇな……」


 この命は、シールによって救われた。最終的にシールが蘇ってもクラッドには行かず、こちらに戻ってくる確固たる自信があった。だから戦えていたし、あの頃を見たまま生きていられる。


 ――いっそ、もう死ぬか。食事用か、トレイにフォークとスプーンがある。苦しい死に方になるが、フォークを喉に突き刺して……

 気が付くと、もう手に持っていた。喉に近づく手は止まらず、尖ったフォークの先端が、皮膚を押し込んだ。


 その瞬間、鉄格子の扉が開いた。虚ろな目で誰が開けたのか確認する前に、バチンと頬を叩かれた。


「馬鹿! アンタ今死のうとしたでしょ!」

「アリス……」


 あの場にいなかったアリスが、どういうわけか鉄格子を開けて目の前にいる。フォークを取り上げて、両手で首元を締め上げられた。


「アンタはそれでいいの? こんなことで諦めちゃうの?」

「だが、もう俺が生きていても……」

「違うわ! アンタはそんなこと言わない! こんなことでへこたれたりしない!」


 怒りながら泣いていた。男勝りでいつも勝気で百六十年を生きたアリスが初めて泣いた。


「アリス、俺は……」


 涙を拭いたアリスは、強い眼差しでカイムを睨んだ。


「情けなんかいらない! アンタはシールシールって馬鹿みたいに願ってりゃいいのよ。アタシも付き合うから……どこまでだって付いていってあげるから……だから、死なないでよ。生きることを諦めないで……」

「――じゃあ、どうすんだよ。意思がグラグラで、まともに血を操れねぇんだ。クラッドに任せれば、あるかどうかもわからねぇ血の石碑なんて頼りにしなくていい。シールは生き返って、子供たちも生き返って……俺のところには、戻ってこない。なら生きる価値、ねぇだろ」


 もう一度頬を叩かれた。今度は握りこぶしだ。フラフラなカイムは倒れてしまう。それでもアリスは見下ろしながら睨んでいた。


「生きる価値がないですって? ああそうよ! そうに決まってるじゃない! アンタは過去ばっかり見てて、過去を生きてるから価値なんて見つからないわよ!」

「……過去を見るなってか? 全部思い出にしろってか? ……嫌なこった」


 カイムにとって、シールと過ごした日々を取り戻すことが生きる目的であり、契約した動機であり、今まで黒い血を操れていた精神の最も太い柱だ。

 しかし、アリスは首を横に振る。


「見るなとは言わない。むしろ忘れたら許さない。思い出なんかにしないで、ずっと見ててもいい。でも、アンタ、過去を生きてるのよ……シールが生き返っても、生き返らなくても、過ぎ去った時間は戻らないの。戻れないの。だから……だから!」



「今を、生きて」



 今……今を生きる……。


「難しいこと言うなよ。シールがいねぇ『今』なんて……」

「諦めんじゃない! アンタはそんな弱い男じゃない! アタシが――アタシが好きになったカイムって男は! こんなことで諦めない!」

「お前……」


 ここにきて、薄々勘付いていたアリスの想いが言葉になって伝わった。


「わかってるわよ、アンタがシールしか見てないことくらい。つぶれた家でつっ立ってたアンタの目にも、里に招いてから窓の外を眺めてたアンタの目にも、ヘルバムで再会したアンタの目にも、シールしか映ってないって……でも、アタシはそういうアンタに惚れたの。馬鹿でお金持ってなくてだらしなくて格好が浮浪者でも、ずっと一人の――一人の、死んだ人を愛し続けるアンタが好きなのよぉ……」


 また、泣いた。泣き崩れて、胸の中でポカポカと叩いている。

 しかし、なんだ? この暖かさは。絶望で真っ黒に染まった心に差す、一筋の白い灯りは……


「あっ……」


 そうだ、あの頃と同じだ。シールが隣にいた日々にずっとあった、光り輝く温もり。まだすべてを照らしてくれたシールほどではない。ないが、少しずつ、『今』、この瞬間も大きくなり続ける、失ってからずっと続いていたこの暗闇に、一瞬の光芒を指す『アリス』という存在。


「ようやく、目が覚めたみたいだね」


 ふわりと、鉄格子の影からニオが不敵に笑って現れた。


「……謀ったな、ニオ。俺の心もアリスの心も、全部知ってたってわけか」


「あれだけ崩れた心と意思を元に戻すには、元にあった物と同等の物が必要だった。でもまぁ、ボクは人間を見る目に長けたリャナンシーだから。ある程度の確証さえつかめれば、ここまで導くのは簡単だよ」


 アリスはよくわかっていない様子だ。涙でぐしゃぐしゃになった顔でカイムと目を合わせたら、頬を染めて目線を逸らした。

 カイムもまた、いつものように見ていられない自分に気づいた。


「……血の石碑に行く目的が、減るかもな」

「え……行って、くれるの?」

「女にここまで言わせておいて、諦めたままだったら――シールにも、お前――アリスにも、申し訳がたたねぇからな」

「は、はは……なに、言い直してんのよ、馬鹿」

「ああ馬鹿だ。馬鹿も馬鹿、大馬鹿だ。治したくても馬鹿は死ななきゃ治らねぇらしいが、どうにもアリスが死なせてくれねぇみたいだからな」

「な、名前で呼ぶの、やめなさいよ……恥ずかしいから」

「そこはケースバイケースってやつだな。さて、またしばらく付き合ってくれるか?」

「……言ったでしょ、どこまでも付き合うって」


 今もまた、輝きが増した。

 なぁシール、これって浮気ってことかな。それとも気の迷いか?

 そこんところハッキリさせるためにも、この手で蘇らせねぇといけないか。


「それで、力は戻ったかい?」

「バッチリだ。クラッドと、それから騎士も冒険者もぶっ飛ばして、俺は前に進む」

「一度折れた心と意思がもう一度作られると、より強固になる。今の君ならそれも可能かもしれない。でも、意外なところに確実な方法が転がっていたよ」


 ニオはフッと笑った。


「目には目を、歯には歯を。天使はいないけど、今のクラッドの拠り所は、そこじゃない」

 作戦を聞いて、本当に意外なところに転がっているものだと肩をすくめてしまった。

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