砕けてクリスタルキャッスル
笛吹は子供達を連れ去ってどこかへと消えた。でもけど彼は嘘吐きではなかった。
彼は約束を守った善人で、約束を守らなかった町人が悪人で、でも子供達は帰ってこなかった。
ワッチは一度も嘘をついたことない。だけど約束を破るから悪人になるかもしれない。
それでもいいよ、先生がどこにもいかないなら。ワッチを置いてどこにもいかないなら。
ビルの中でマーリンと神崎伊予から離れて彩筆晶子はスケッチブックに書き溜めていた絵を広げていく。
水色だけでなく淡い黄色や桃色も混ぜた明るい色彩の水晶の城、そして守護竜を書き連ねた大作。
一枚一枚をパズルのピースのように繋げていく。部屋を覆い尽くすほどの紙の量で、小さな少女は埋もれてしまいそうだった。
もし誰かがその絵を見たら素晴らしいと言ったかもしれない。しかしこれから起こる出来事を目の当たりにしたら悪魔の所業と罵るかもしれない。
天使のような無垢の精神で悪魔のような恐怖の能力、誰もが彩筆晶子を見たら抱くような感想はどれも的外れである。
彩筆晶子はどこまでも純粋な子供で、人間だった。だけど誰も認めてくれなかった。
親も魔法使いも家族のような弟子達も、誰も彩筆晶子を普通の人間として扱わなかった。能力者か悪魔の二択。
たった一人だけを除いて。
写真の時間、中央エリアのビルが突然結晶に覆われて形を変えていく。
塩の結晶が出来上がるのを高速再生で目の当たりにするような、不可思議な現象。
道歩いていた帰りのサラリーマンや買い物途中の主婦、これからホテルに向かおうとしていたカップルまで。
誰もがビルを見上げて目を奪われる。明かりに照らされた美しすぎて震えるほどの結晶の城。
そして城と同じように結晶でできた竜が尖塔に器用に四足で掴まり、星空が広がり始めた空に向かって咆哮を上げる。
硝子がぶつかり合うような澄んだ声は反響して、あらゆる建物の窓硝子を震わせていく。
金持ちが乗るような長い車の中で、夫婦が怯えるが声も出せなくなってしまう。
悪夢のような現実を思い出して、男の方が発狂したような声を上げて暴れ出しそうになる。
うるさい声を噴出する口に絵心般若は小型サイズの聖書を入れる。口径にジャストサイズすぎて、息はできるが出すのに時間がかかってしまう大きさだ。
玄武明良は迅速で有能だけど変人なところは親父譲りかと、窓の外を好奇心で目を輝かせる絵心太夫を見る。
あり得ないことなど沢山体験してきた相川聡史でも、さすがに目の前の光景には絶句する。
「おおおおお!これぞまさにヒーロー大活躍に相応しいステージ!!」
「……なんであんなの見て、はしゃげるんだよ」
やはり相川聡史を連れて来て正解だったと、玄武明良は一人で自分の判断力に感心していた。
もしこの場に相川聡史がいなかったら玄武明良が絵心太夫に対してツッコミをいれなければいけないという、面倒な状況になっていたからだ。
猪山早紀は不安そうな視線で外を見る。あんなファンタジーな光景で玄武明良が容態を悪くしないといいのだけど、というどこか場違いな心配をしている。
夫婦の内女の方は夫の口から聖書を外す手伝いをしつつ、車の窓から外の光景を見る。恐ろしいほど美しい結晶の城。
竜の声が泣いているように甲高く、でもどこか澄んでいる。まるで赤ん坊の泣き声だと、育児を経験した身から思い出す。
彩筆晶子はよく泣く子で、夜でも昼でも関係なく突然泣き出してしまう。でも綺麗な絵を見せるとすぐに笑って眠ってしまう。
そういえば昔から絵が好きな子だった、と今更捨ててしまった我が子の思い出に女は振り回される。
どこで間違ったのだろうか。子が能力を手に入れた時?絵で自分達の偽物を作り上げた時?それとももっと昔の生んだ時?
辿り着かない答えの迷路に入り込みそうになった時、神父が諭すような静かな声音で呟く。
「美しい。まるで創造主の心のようじゃないですか」
「……」
「透明で輝いて、壊れやすそうな結晶の心」
「間違いは……私達だったのでしょうか?」
間違いはどこから?いくら探しても見つからなかった理由に気付き、女は自嘲する。
最初から答えは自分自身の中にあった。手に握っているのを見ない振りしていただけ。
散り散りに破いて、捨てて、代用品を探そうとして失敗して、縋って泣いて喚いていただけの自分。
道理で子供を授からないはずだ、と。彩筆晶子の代わりなんてどこにもいないのだから。
だから神は怒ってしまったのだろう。子供が作れない体はきっと罰なのかもしれない。
病気で痩せ細った体、子宮のない内部、自業自得というにはあまりにもな状態。
「間違いがなにか、なんて聖書も答えてくれませんよ」
「もがっ、ががっ」
「けど大事なことは二千年も前からわかっている。それが聖書ですよ」
隣人を愛せよ、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、神は汝の御許にいる。
絵心般若は何百回ではなく、何十年という時間単位で聖書と向き合ってきた聖職者である。
何度読んでも口に出しても書写しても、新しい発見と神の意思、そして人間が学ぶべき大事なことがそこにはあった。
二千年以上も前にこの聖書は作られていた。浪漫も歴史も凌駕する揺るがない書物。
それを抱いて人々に神の教えを広げていく、信じよされば救われん、と。
「ということで、わかっているな太夫」
「勿論。信じる心は我にあり、されば救われん、我が心こそ最強の力なり!!」
「……え?太夫の親父さん、そんなこと教えてんの?」
「ねぇよ。この馬鹿息子、さっさと玉砕して来い」
相川聡史の疑わしげな目を向けられ、絵心般若は怒り心頭に適当なことをのたまった絵心太夫を車内から蹴り落とす。
蹴られたことにより顔面から道路に着地した絵心太夫だが、何事もなかったように立ち上がって車のトランクから荷物を取りに進む。
長い車だからこそ入れられた荷物は、大の男が数人がかりで運び出すような物であった。それでも絵心太夫の能力があれば問題ない。
重力を自分自身限定で操作できる能力、まるでどこかの主人公のようで絵心太夫は気に入っていた。
それでも目の前にある結晶の城、そして巨大な竜を見ると敵いそうにないと震える。あれに勝ったらかっこいいじゃないか、という武者震いだ。
玄武明良は短期決着と言った。長引いても意味がないからだ。長引かせてはいけない。
乾いた唇を舌で一舐めして、巨大な武器を片手に城となったビルへと勇気を持って進んでいく。
赤いマントも青いスーツも着てない、どこにでもいる子供は今日、ヒーローになる。
結晶の城に出口はない。完全な密室で、誰も出ることはできないし、入ることもできない。
外からの侵入者は結晶の竜が撃退するし、内部は神崎伊予とマーリンを含めた三人だけ。
そう思って結晶に覆われたビルの内部を歩く彩筆晶子はおかしいことに気付く。
自分以外の気配がないのだ。二人は確実にいるはずなのに、足音どころが吐息すら聞こえない。
早くなる鼓動と大きくなる不安を抑え込んで、彩筆晶子はビルの中を探し回る。
ビルの外へは誰も出れない、これは彩筆晶子にも当てはまる。ビルの内に入れない、これは他の弟子達に当てはまる。
何枚もの紙を使って作り上げた城は彩筆晶子の画力と描いた時間、そして想像力で今までにないほど強固になっている。
雨が降っても、包丁で斬ろうにも、決して壊れないように作った。自分自身でも壊せないほど強くした。
もし壊せるとしたら爆撃並みの衝撃が城全体に伝わって建物を押し潰すほどでなければ、壊せない。
彩筆晶子はビル全てを探し終えて、膝から崩れ落ちる。最後の部屋にも誰もいなかった。
ビルにいるのは彩筆晶子一人だけという事実が、はっきりと理解できてしまったのだ。
マーリンはわかっていたのだ。神崎伊予の予知能力で、彩筆晶子が自分を引き留めようと邪魔してくることを。
だから彩筆晶子が城を作り上げる準備をしている間にビルから逃げ出したのだ。神崎伊予を連れて行ったのはその能力がまだ必要だからだ。
計画の失敗と孤独への絶望に彩筆晶子は気が狂いそうになって、頭を抱えて床の上に転がる。
誰も出れない、誰も助けに来てくれない、もし城が壊れたら建物も同時に壊れてしまう。
孤独なまま死ぬしかなくなった彩筆晶子にとって、助けを呼ぶことはできなくなった。
助けを呼ぼうにも誰の名前も思いつかない。弟子達も先生も、親ですら自分の味方ではないのだから。
涙を零して体を震わせて、閉じることもできなくなった口からは嗚咽が零れる。
ただ不安で仕方がなく、スケッチブックを置いた部屋に戻ろうと力なく歩く。
大量の紙が散らばり、ずっと書き綴ってきたスケッチブックは山のように積み重なっている。
その内比較的新しいスケッチブック二冊が目に入る。汚したお礼に、と名前も知らない少年がプレゼントしてくれたスケッチブック。
路地裏ニャルカさんというアニメの話題で気が合い、一時でも楽しいと思えた。
だけど少年の名前は知らないから呼べないし、絵本に出てくる王子のように助けに来てくれるとは思えなかった。
自分がお姫様だったらそう思えたかもしれない。でも親にすら化け物や悪魔扱いされた自分が姫だと思い上がることなどできない。
少年からプレゼントされたスケッチブックを抱きかかえて、床の上に無気力なまま寝転がる。
マーリンがいたから生きてこれた。マーリンがいないなら生きていけない。
彩筆晶子にとって今の状況はそんな単純な話だった。
猪山早紀は結晶の城を眺めたままでいる玄武明良に話しかける。
「大丈夫?ファンタジー拒否反応とか起きない?」
「能力で作ったものなら、いずれ科学で解明するからな。問題ない」
「と、言いつつ鳥肌立たせてんじゃねーよ」
やせ我慢していることを見抜いていた相川聡史は余計なことを口にしたせいで、玄武明良から手痛い一発を頭に受けることになる。
しかし決して結晶の城となったビルから目を離さない。これから起こることを見逃さないために。
警察のパトカーが集まり、携帯カメラのフラッシュが結晶を照らし、侵入しようとした者に対し竜が唸り声を上げて威嚇する。
夜空の下でライトの光は強くなり、透明であるはずの結晶を何色にも変えていく。時には黄色、白、桃色。
星の光は完全に満月と地上の光に負け、身を潜めている。野次馬達の声と警官の静止が戦争状態だ。
混沌としたこの状況を壊すような何か、そんなのが現れたら鳥肌の意味が違ってくる。玄武明良はわずかに口角を上げて、それを待ち望んだ。
空気が変わったのは一瞬で、空から降ってきた百キロ以上ある銅像が結晶の城にぶつかった。
銅像を抱えているのは一人の少年で、一撃で壊れなかったかと楽しそうに舌打ちする。
ぶつかった衝撃で結晶の城はガラス同士がぶつかったような反響音と共に小さく揺れる。
銅像は有名な宗教にて祀られている物を形にしたもので、絵心般若が大事にしていた物だ。
どうしても必要だからと言われ、仕方ないと貸し出したのだ。そして今少し後悔しているのだった。
まさか結晶の城を壊すための武器にするとは思ってなかったのだ。あの馬鹿息子、と顔を般若の面と同じ恐ろしい形相にする。
父親から溢れ出る殺気を肌で感じ取りながらも、重力を操作して城を足場に蹴って空中に浮かぶように跳ぶ。
上空から見れば呆気に取られていた観衆達は即座にカメラの光を絵心太夫に向け、竜は大きな顎と歯を見せつけてくる。
無気力なまま床に転がっていた彩筆晶子は揺れたビルに驚いて思わず起き上がる。一体何事かと窓がある場所から上を見上げる。
遠くてよく見えなかったが、宗教に関係した銅像が降ってきているのを見て、さすがに思考が停止した。
もう一度ぶつかる前に竜が尻尾を動かして銅像ごと絵心太夫を払いのける。悲鳴が地上から飛び出る。
途中まで凄い速度で隣のビルに向かっていた銅像と絵心太夫だが、誰もいない道路に重力を重くして進路を変えて、着地する時は軽くして怪我一つなく立つ。
呼吸するように能力を自在に扱い、もう一回跳躍して上空に身を躍り出す。落ちる時は重力を重くして速度を上げる。
今度は先程よりも重力を重くしたため、竜の追撃を逃れて城に一撃を与えたが、壊れることはなかった。
頑丈な城だと心躍らせて、絵心太夫は竜の手から逃れて改めて空に向かう。映画を見て興奮するように野次馬は観客となった。
彩筆晶子は二度目の揺れで城を壊そうとしている少年の顔を見て驚く。そして胸に抱いていたスケッチブックに、新しい絵を描いていく。
運命があるとすれば今がその時だと言わんばかりに衝動のまま筆を動かしていく。描きながら彩筆晶子は自分でも気づかないまま笑っていた。
「も、う一丁ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
声を上げて銅像を城に叩きつける。前二回よりも大きな反響音と揺れがしたが、やはり壊れない。
竜は城を守るために背中の翼を使って飛ぶことをしない。そして城を壊さないために手や尻尾で虫を払うように絵心太夫に攻撃してくる。
それを身軽に避けていくが、さすがに息が途切れてきた絵心太夫はあと数回の内に終わりにしなくてはと、空中に跳んで考える。
頭が痛み始めたら能力は使えなくなる。その時に竜に攻撃されたら神の胸元に向かう最悪のエンディングとなってしまうだろう。
それはさすがにヒーローではないな、と不明な思案をしつつ銅像では壊せないことを理解した絵心太夫は他に方法はないかと下に目を向ける。
銅像よりも大きくて頑丈で城一つ壊せるほどの、だけど壊れても良いような何かを探して、見つける。
最初から目の前にあったじゃないかと、歯を見せて笑う。しかも邪魔者も消せて一石二鳥な、何か。
様々なライトが絵心太夫を照らす。スポットライトを浴びる主役のように、満月すら彼を中心に照らすようだ。
銅像の重さで体の位置を少し変えて、落ちる位置を調整する。そして目標の位置に到達した時、今までにないほど重力を強くしていく。
強く、重く、速く、城を守る竜に向かって槍のように銅像を構えて落ちていく。風車を化け物と見立て挑んだ老人の逸話のごとく、勇ましく。
開かれた竜の大口の中に呑み込まれても尚、観衆の悲鳴が耳に届いても尚、自分自身の力を信じて下へと突き進む。
老人は風車を竜と信じていた、だからこそ挑んだ。絵心太夫も同じである、例えどんなに滑稽と笑われても信じている。
ちっぽけで世界の半分以上も知らない自分だって、誰かを救えるヒーローになれるのだと、幼い頃マーリンに助けてもらった時から信じている。
首にかけているゴーグルを片手で正しい位置に装着する。目を保護するためではなく、本気の本気で城を壊すために。
竜の食道を滑り落ちながらも、武器である銅像を手放さずに、自分の体が負荷に悲鳴を上げても、歯を食いしばって重力を強くした。
城の尖塔に掴まっていたはずの竜の体が耐え切れないように下へと沈み始める。結晶の体なので中にいる絵心太夫の体わずかに見える。
呑み込んだ絵心太夫を点として、そこから沈み始めている。それでも竜は負けてなるものかと尖塔にしがみつく。
地上から見上げている者は竜の中で抗う絵心太夫を見て、抱えている銅像を見て、思わず神に祈るように両手を組む。
竜は内部で重みを強くしていく絵心太夫に対し、体の内部一部を変化させ、結晶の棘を作り上げて絵心太夫の脇腹に突き刺す。
避けることもせず絵心太夫は力が抜けそうな痛みに耐え、零れる血も気にせずに城へと目を向ける。
竜の内部に溢れた血を見て、悲鳴が上がり、絵心般若はそれを見て車から身を乗り出しそうになる。
今にも飛び出していきそうな自分を抑え、胸の上で十字を切って祈り始める。数十年、見上げてきた神に祈る。
玄武明良は神に祈ることはしない。しかし珍しく絵心太夫を信じて、目を離さずに見守る。
夫婦は見知らぬ少女のために血を流しても挑み続ける少年に心打たれる。信じる、という力強さに鮮烈な衝撃を受けたのだ。
軋み始めるビルの中で彩筆晶子は描き上げた絵を実体化して身構える。じきにビルは城ごと崩れることを確信して。
竜は尖塔が重みに耐えかねて崩れたことを信じられないまま、その巨体を城へと落下させていく。
結晶の城は竜の体に押し潰され、崩れていく。爆撃に近い衝撃音が近隣に響く。
土埃が立ち上がって視界を遮る。中には衝撃で発生した風で倒れてしまう者もいた。
風によって舞い上がる土埃の中に白い紙キレが混じる。砕けて散り散りになった結晶の代わりに、紙屑が大量に舞う。
ビルは半壊した状態で残っていたが、今にも崩れそうだった。かすかに残った部分、床の上で彩筆晶子は即席で作り上げたカマクラの中で汗だらけだった。
まさかこんな結末になるとは思っていなかったという顔だ。カマクラも彩筆晶子が無事だと確認し終えたように紙に戻る。
床の上でへたり込んだまま動けない彩筆晶子の目の前に、かつてスケッチブックをプレゼントした絵心太夫が脇腹から血を流しつつ向かってきた。
ゴーグルを首にかけつつ、彩筆晶子が無事なのを確認して一息つく。脇腹は手で押さえて血が出るをの防ごうとしているが、あまり意味を為していない。
「うむ。無事でよかった」
「……え?」
「いやいや、落ちてから思い出したのだが、そういえば中に人がいるのを忘れていてな。位置も確認しないまま崩してしまって焦ったのだ」
苦笑いする絵心太夫の普通な対応に彩筆晶子は目を丸くする。
雪のように紙屑が二人に降り注ぐ。スケッチブックは崩壊の衝撃で辺り一面に散らばっている。
その内の一冊が絵心太夫の足に当たる。拾い上げて中を見れば、そこには幸せそうな三人家族の絵。
娘を中心に笑う夫婦はかつて見たことをそのまま映したような、幸せを謳歌している顔だった。
そして今その顔はやせ細って狂気に塗れているのを絵心太夫は見た。そして夫婦は捨てた娘を取り戻そうとしている。
捨てられた娘は目の前で今にも泣きそうな顔で座り込んでいる。親だけでなくマーリンにも見捨てられたのだ。
絵心太夫はここでヒーローならどうするべきかと考え、そして突飛なことを思いついて血を止めている手とは反対の手を差し出す。
「俺は絵心太夫。君の名前を教えてくれ」
「……彩筆晶子」
「そうか。じゃあ俺と結婚してくれ」
差し出された手を握ろうとしていた彩筆晶子は、突然の意味不明なプロポーズに動きを止めてしまう。
それは半壊したビルに乗り込んできた玄武明良達も同じで、特に相川聡史はツッコミもできないまま転んでいた。
ただ一人息子の奇行に慣れている絵心般若だけがいち早く動き始め、持っている聖書の中でも一番分厚い物で絵心太夫の頭を叩く。
「ば、お、おま、こ、この、ば、ま……っ!!!」
「親父殿、発言ははっきりと……」
「こんの馬鹿息子がぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!」
息子の言葉通りはっきりとした発言でもう一度血を流している息子の事情も忘れて頭を叩く。
二度目は一発目よりも衝撃が強くてさすがの絵心太夫もしゃがんで頭を抱える。同時に脇腹から溢れ出る血の量が多くなる。
彩筆晶子は混乱した頭で目の前を見つめる。すると痩せ細ったかつての両親を見つけ、顔をひきつらせて逃げようとした。
しかし伸ばしかけていた手を絵心太夫が握り、リードのようにして逃がさない。それでも彩筆晶子は必死に掴んできた手に爪を立てる。
「はなっ、離して!!離してぇえええ!!」
「嫌だ。離したらいなくなるのだろう?」
「だって、だって、だってぇぇえ!!お願いだから、離して!!」
「もう一度言う。嫌だ。もしここで君の手を離したら、俺はヒーローじゃなくなる」
訳わからないことを言う絵心太夫に対し、彩筆晶子は目を限界まで見開き非難の視線を向ける。
夫婦は狂乱の声を上げる娘に対し、何も言えないまま立ち尽くす。壊れた物は簡単には戻らない。
爪を立てられた手から血が流れても絵心太夫は掴んだ手を離さない。しかし立ち上がる力はないのか、膝をつく。
その顔は青白く、脇腹から流れ出た血は足元を赤く染めつつあった。玄武明良は止血している手を離せと指示し、血が乾く前に布地を裂く。
猪山早紀は持っていた救急箱を渡し、玄武明良の補助に回る。相川聡史はどうしようかと夫婦の方を見たり、絵心般若を見たりと忙しない。
絵心太夫は荒い息の中で彩筆晶子に話しかける。
「俺はあの夫婦に君を渡したくない。今のまま渡しても、きっと幸せになれない。それはヒーローとして見過ごせない」
「っ、なんでワッチのために、そこまで言えるのさ!?一度しか会ったことないくせに!!」
「これで二度目だ。そして俺はもう一度、君とニャルカさんの話をして盛り上がりたい」
力強く手を握りしめ、絵心太夫を絞るように告げる。
「俺を信じてくれ」
そこが限界だった。絵心太夫は血を流し過ぎて、体勢を維持できることも無理となって、前方に倒れる。
玄武明良は倒れる前に肩を受け止めて、衝撃を受けないように静かに横たえる。
意識はあるが、声を出すのも辛い状態。それでも彩筆晶子の手を離さないままでいる。
ここまできたらもう意地の力かもしれない。治療の邪魔だと玄武明良が解こうとしたが、びくともしなかった。
溜息をついて玄武明良は絵心太夫に対して偉そうに言う。
「悔しいが、今のお前は本当のヒーローのようにカッコイイな」
「うわ、明良が褒めた」
「そこの邪魔男、後で覚えとけ」
真顔でコメントした相川聡史に対し、玄武明良は皮肉交じりの言葉を返す。
そしてその言葉通りの状況である自分なので、言い返すことができなかった。
夫婦はその場から動けないまま彩筆晶子を眺める。彩筆晶子はその目が怖くて顔を背ける。
幸せは壊れる。壊れても残って苦しめてくる。三人はずっと苦しんできた。
玄武明良が一冊のスケッチブックを見つける。あるページのところを見て、それを猪山早紀に持っていくように指示する。
頷いて猪山早紀は宝物を抱えるように夫婦の元へ歩いていく。スケッチブックのページには幸せそうな家族。
「あの、自分は恵まれていたと思います……明良くんや家族もちゃんといて……裕福ですから」
猪山財閥の娘として育てられた猪山早紀の経歴に泥一つない。
そして家族関係も良好で、未来の夫も既に決まって満足している。何一つ不満はない。
もしかしたら一番幸せと言われる場所に立っているであろう猪山早紀はちょっとだけ悔しそうに笑う。
「でもこの家族が羨ましいです」
妻がスケッチブックを手に取る。ページをめくって他の絵も見ていく。どれも見覚えがあった。
幼い頃に読んであげた本に載っていた妖精、近所に住んでいた犬、可愛いとはしゃいでいたアニメキャラクター。
どれも生き生きとしていて、今にも動き出しそうなほど躍動感があった。子供が描いたとは思えないほどの丁寧さ。
彩筆晶子には才能があった。そして能力もそれに関係したものだった。
かつて神の子の力は、神からの贈り物と言われた。その力で人々を助けて導いた。
しかし彼は一人ではなかった。理解ある人々に恵まれて、例え裏切られても全ての罪を背負って人々を救った。
スケッチブックの上に涙が落ちていく。紙がたわむが、零れる涙は止まりそうにもない。
「しょう、こ……晶子、ごめんなさい。本当にごめんなさい…」
「ま、ママ?」
「貴方を認められない、弱いママで、ごめんなさい…」
才能も能力も目の当たりにしても尚、彩筆晶子の母は娘に向き合えなかった。
夫の方もスケッチブックから目を逸らしている。彩筆晶子とも目を合わせない。
二人には受け入れられない事だった。例えどんな救いの言葉も、聞く耳がなければ意味がない。
猪山早紀は俯く。直せない何かは確かにある、しかしそれ目にするのは辛い。
幸せな家庭は戻ってこない。笑って過ごした三人の生活が修復することはない。
誰もが沈黙する。どんな言葉も意味を為さない、それを物語るように。
だけど耐え切れずに溢れてくる思いを声にするのが人間である。
「あのさ、神様とか能力とか、才能とか!それ全部抜きにして話せないのかよ!?」
相川聡史は耐えられなかった。ここまできて失敗みたいな結果は、命を賭けた絵心太夫に失礼だ。
今だって誰かを助けようと走っている大馬鹿がいるのを知っている。ハッピーエンドを迎えたくて頑張っている奴がいる。
病院で治療を受けている仲間がいるのは知らない。それでも誰かが傷ついてでも、結果を残そうとしたのは察知している。
相川聡史は彩筆晶子のことなど今初めて見たばかりで、絵なんてまだ見ていない。能力を目にしたが、実際に使っているところは見ていない。
能力も才能も全て知らない相川聡史からすれば、彩筆晶子は家族に拒絶された子供という話だった。
「そこに泣きそうな子供がいる!そしたら抱きしめるのが親!!それだけじゃねぇか!!!」
「っ!?」
「子宮がないとか言ってたけど、アンタには子供も両腕も、歩み寄るための足もあるのに!!なんで動かねぇんだよ、馬鹿野郎!!」
「……でも、でも!」
「でももかかしもねぇ!!言葉なんかもういらない、動けよ!!一度捨てても、それでも、会いたかったんだろう!!!」
相川聡史は建物すら震えそうな程、声が掠れて耳障りに近い叫びを放つ。
「アンタは彩筆晶子のたった一人のママなんだろうがっ!!!それだけだろ、馬鹿野郎!!!」
溢れてくる思いを声にする人間がいる、その声に動かされて走り出す者がいる。
本当は怖くて今にも足を止めたいのに、それよりも怖いことが後ろから追っかけてくる圧迫感。
人生とは崖である、と誰かが言った。進んだ先にしか歩けない、戻ろうにもそこには何もないためだ。
赤子も母親の腹に戻ることはない。産声を上げた瞬間から人生は始まっている。
そんな赤子に対して母親はまず抱きしめる。臍の緒で繋がっていた、自分自身の一部を分け与えた、奇跡の命。
彩筆晶子が怯える顔を見せる前に、その体全体をやせ細った体の中に抱きしめる。手は震えていてみっともない。
その震えを誤魔化すように力強く抱きしめる。足も震えて冷や汗もかいているが、指先に伝わってくる体温がそこに子供がいると教える。
「マ、マ?」
「お前……怖くないのか?」
おそるおそる近づいて来た夫は妻に問いかける。怪物は目の前にいる。
それを今にも心臓を抉りだしそうな場所へ抱きしめて、怖くないのかと。
「こ、わい……けど、けど……」
「ママ?」
「この子にママと呼ばせているのに、母親らしいことができない自分の方がもっと怖かったのよ」
人間の姿をした怪物がいたとして、それを排除した人間は果たして本当に人間と呼んでいいのか。
怪物から見れば人間こそ怪物のように見えるのではないだろうか。それでは同じ姿しているのにお互いを怪物と罵り合うのか。
抱きしめることは不可能なのか。体の構造上、不可能ではない。残る問題は心である。
心が一番の壁であることをどれだけの人間が知っているのだろうか。時には勇気すらも跳ね返してしまう壁ということを。
今、たった一人の女は娘のために母親として壁を砕いた。襲い掛かる恐怖や後悔はもちろんある。
しかし壁の向こうにある命に触れた瞬間、砕いて良かったという安堵感もあった。
「……ママ、ごめんね。ワッチ……ワッチが絵を実現したせいで、幸せ壊れて……ごめんねぇ……」
胸の中から聞こえてくる謝罪と胸を湿らせる温かい涙。子供らしい泣き声が建物に小さく響く。
たったそれだけのことで恐れていたはずの存在が、淡く溶けて消えていく感覚。
どこで間違ったか、もしかしたら全部間違っていたのかもしれないし、全部正しかったのかもしれない。
夫は妻の肩を最初に抱き、次に片手で娘の背中も抱く。その手はやはり震えている。
それでも走り出した妻を見た時、何かが崩れて消えていく感覚が胸を襲った。
三人で抱き合う姿になって、娘が泣き止むのを待つ両親のような図に、相川聡史は鼻を啜った。
「聡史くん、泣いてる?」
「な、泣いてない!」
本当は目を真っ赤にしていくつも涙の筋を作っているのだが、無理矢理誤魔化す。
絵心般若は手元にある聖書と、怯えていた母親を動かす言葉を出した相川聡史を交互に見る。
大事なことは二千年も前からわかっている。それでも聖書に載っている文字を見て、どれだけの人間を動かせるだろうか。
神を見上げてばかりいて、見渡すべき人々の心が見えていなかったかと苦笑する。
「ああ、神よ。彼らにどうか祝福を。我等は皆神の子なり」
「……おい、父親。なんだかんだで息子の命の危機だけど、祈っている余裕あるのか?」
神に祈りを捧げる祝詞を述べる絵心般若に対して、玄武明良は冷めた目を向ける。
止血や手当てしたものの、かなりの量の血が出てしまったため、輸血の必要性が出てきたのだ。
救急隊員は下の方で瓦礫、特に半分砕けた銅像の除去に戸惑っているようで、あと数分は来れそうにない。
その様子を見下ろして、絵心般若は冷静に告げる。
「銅像を壊した罰でも当たったんじゃないか」
「おい、神父」
「冗談だよ。ただ我が息子ながら……とある害虫並みにしぶとそうな気がしてな」
「ああ、なるほど」
意識がある絵心太夫は聞こえてくる親の薄情な声に落ち込みつつ、手を繋いだままの彩筆晶子の様子に満足する。
瞼も開けてられなくて見れていないのだが、聞こえてくる声や繋いでいる手に力があるのを感じて、少しだけ前進したのだろうと微笑む。
ただこの後はやはりギクシャクとした関係が続くだろうし、すぐに家庭に戻しても幸せになるとは思えない。
やはり娶るしかないかと見当違いな方向に思考を働かせて、突然意識が切れる。限界だった。
こうして絵心太夫は病院に搬送。絵心般若と猪山早紀と相川聡史は夫婦と彩筆晶子を連れて離脱。
玄武明良は事情説明のため一人残り、散々たる状況に溜息つきつつ、終わったと確信した。
ただし残る不安が二つ。まずは皆川万結の写真は百%実現することが証明されてしまったということ。
もう一つはその皆川万結の写真がない、隠されたもう一つの事件。弟子達を集めた、魔法使いと神崎伊予の行方。
未来では魔法使いは消失、神崎伊予は狂ってしまったとある。ならば本当のターニングポイントは隠された事件の中にある。
そこには命を預けたくない大馬鹿と、いつか自分を追い越すであろう天才の卵、瞬間移動の少年、そしてアンロボットが二体。
この五人で解決できない事態にならなければいいと思いながら、どこかひっかかる違和感に眉根を寄せる。
クラリス事件と遊園地事件、そして未来世界も巻き込んだ事件を思い出す。そして思い当たることが一つ。
「なんで、こんなに上手くいっている?」
どの事件にも実は大小ながら犠牲を求められた。解決した物もあるが、それでも一時的に失う。
クラリス、地底人の兄、アダムスを救うためアニマルデータ二十以上、やはり犠牲はあった。
しかし今のところ魔法使いの弟子達において犠牲は出てない。不気味なほど上手くいっている。
それが逆に違和感として、心の中をざわつかせる。玄武明良はその場から動けない状況に舌打ちする。
こうして結晶の城は砕かれた。同時に最後の名前も付けられず、写真にも写らなかった事件が動き始める。
本当は取り返しのつかないことが水面下で動いているのを知らないまま、子供達は目の前に置かれた事件に向き合う。
誰かがわざと用意した目くらましとも気付かずに。




