有能な側近と、隠しきれない恋心
――ルシアン視点。
「……お前、最近ずいぶん機嫌がいいな」
王太子の執務室に入るなり、アレクシスがそんなことを言った。
「そうか?」
「ああ。今朝なんて、いつもより三割増しで機嫌がよかったぞ」
「気のせいだろう」
俺は持参した書類を机に置いた。アレクシスは面白そうに笑いながら、その一枚を手に取る。
「で?今朝はアマリリス嬢に何をしてもらったんだ?」
「……なぜそうなる」
「お前が嬉しそうな理由なんて、今は一つしかないだろう」
アレクシスはにやりと笑った。
「それにしても、リリス嬢は――」
「アマリリス嬢だ」
「……ん?」
「お前はアマリリス嬢と呼べ」
「いや、愛称くらいいいだろう?」
「よくない」
「……お前な。俺は王太子だぞ?」
「知っている」
「その王太子に、婚約者の呼び方まで指図するのか?」
「親友として頼んでいる」
「……頼む態度じゃないだろ、それ」
アレクシスは呆れたように笑った。
「分かったよ。アマリリス嬢、な」
「それでいい」
「……リリス嬢」
「アレクシス」
「ははっ!冗談だ!」
俺はため息をついた。こいつは昔から、人が嫌がると分かると余計に面白がる。
「しかし、分かりやすいな。そんなに幸せか?」
「……ああ」
否定する理由もなかった。今朝、リリスが俺を見送ってくれた。
『お気をつけて行ってらっしゃいませ』
あの言葉が、まだ耳に残っている。
三年間、遠くから見つめることしかできなかった女性が、今は俺の屋敷で暮らしている。朝になれば顔を合わせ、夜には同じ屋根の下で過ごす。
それだけでも十分すぎるほど幸せなのに、彼女は俺を気遣い、笑顔で送り出してくれるのだ。
「……なるほど。その顔か」
「何の話だ」
「今、完全にアマリリス嬢のことを考えていただろう」
「仕事を始めるぞ、アレクシス」
「はいはい。幸せな婚約者殿」
俺はため息をつき、書類を一枚差し出した。
「例の侵入者についてだ。王宮の出入りを記録した台帳に、不自然な点が見つかった」
「……詳しく聞こう」
アレクシスの表情から、すっと笑みが消えた。
「事件当日、庭園の整備に入った業者の人数と、退出時に確認された人数が一致していない」
「人数が違う?」
「ああ。入場記録は六名。だが、退出を確認した衛兵の報告では五名だった」
「一人、王宮に残ったということか」
「その可能性が高い。さらに、入場した六名のうち一人は、普段の作業員ではなかった」
俺は別の書類を広げた。
「当日の朝、急な欠員が出たとして代理の人間が加わっている。業者側は正式な手続きを踏んだつもりだったらしいが、申請に使われた紹介状の署名が偽造されていた」
「つまり、最初から王宮へ入り込むつもりだったわけか」
アレクシスは険しい表情で書類を見下ろした。
「庭園でエレオノーラを襲った男と同一人物だと思うか?」
「まだ断定はできない。だが、事件後、どの門からも六人目が退出した記録はない。記録に残らない経路を使った可能性がある」
あの日、リリスはエレオノーラ殿下を庇って犯人の前に立ちはだかった。
その報告を受けた瞬間のことは、今でも忘れられない。彼女が傷ついていたら。間に合わなかったら。考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
「……ルシアン」
「分かっている。感情で判断を誤るつもりはない」
アレクシスは小さく息を吐いた。
「お前が冷静でいてくれるなら、それでいい」
俺は書類に視線を戻した。
「偽造された紹介状が、どこから手に入ったのかを調べている。それと、当日欠勤した作業員にも確認を取らせた」
「何か分かったのか?」
「本人は、前日の夜に突然体調を崩したと言っている。医師の診察も受けているから、仮病とは考えにくい」
「偶然か?」
「それも調査中だ。ただ、欠員が出たことを犯人側が事前に知っていた可能性はある」
アレクシスはしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「王宮内部に協力者がいる可能性も、捨てきれないな」
「ああ。だからこそ、今は情報を広げすぎない方がいい」
王宮に出入りできた理由が分からない以上、警備の内側に関わる者まで疑う必要がある。
「庭園の警備記録も再確認させよう。侵入者がどこを通り、誰の目を避けたのか。そこから協力者の有無を絞れるはずだ」
「分かった。必要な人員はお前の判断で動かしていい」
アレクシスは迷わず許可を出した。
「それと、エレオノーラの周辺警備は引き続き強化する。アマリリス嬢についても同様だ」
「すでに屋敷の警備を増やしている。外出には護衛をつけ、本人にも単独行動を控えるよう伝えた」
「さすがだな」
俺は書類をまとめた。
「犯人を捕まえるまでは、気を緩められない」
「ああ。エレオノーラもアマリリス嬢も、二度と危険な目には遭わせたくない」
アレクシスの言葉に頷く。
事件を解決することは、王太子の側近として当然の責務だ。だが、それだけではない。
リリスが安心して笑える日常を取り戻すためにも、必ず犯人を捕まえなければならない。
◇ ◇ ◇
一通りの指示を出し終えた頃には、昼を少し過ぎていた。
アレクシスは椅子の背にもたれ、ようやく肩の力を抜いた。
「それにしても、まさかお前がこんなに早く婚約するとはな」
「……またその話か」
「三年間も片思いしていた男が、ようやく想いを実らせたんだ。少しくらい祝わせろ」
俺は返事をせず、書類を整えた。
「で?アマリリス嬢とはうまくやっているのか?」
「ああ。彼女には不自由のないようにしている」
「そういう話じゃない」
アレクシスは呆れたように笑った。
「婚約者として、仲良くしているのかって聞いてるんだよ」
「……毎朝、一緒に食事をしている」
「ほう?」
「時間が取れる日は庭園を散歩する。昨日は、明日も一緒に歩きたいと言ってくれた」
「……へえ」
アレクシスの口元が、面白いほど緩んでいく。
「それで?」
「今朝は、屋敷を出るときに見送ってくれた」
「見送り?」
「……行ってらっしゃい、と」
アレクシスは数秒黙ったあと、片手で顔を覆った。
「……お前、それだけでそんなに嬉しいのか」
「それだけ、とは何だ」
「いや、悪かった。三年間の片思いは重いなと思ってな」
俺は眉を寄せた。
「……彼女が俺の帰りを待っていてくれる。それがどれほど嬉しいことか、お前には分からないだろう」
「分からないねえ。だが、顔を見れば十分伝わる」
アレクシスは楽しそうに笑った。
「それで、結婚式はいつにするつもりだ?」
「……まだ決めていない」
「意外だな。お前なら、すでに日取りまで考えていそうなのに」
考えていないわけではない。むしろ、彼女を妻に迎える未来を想像しない日などなかった。
ただ、婚約したばかりのリリスを急かすつもりはない。彼女は事件に巻き込まれ、慣れ親しんだ王宮を離れ、突然俺の屋敷で暮らすことになったのだ。
「今は、彼女が新しい生活に慣れることが先だ」
「……なるほどな」
アレクシスは少しだけ真面目な顔になった。
「まあ、アマリリス嬢なら心配ないだろう。エレオノーラも、あの子が幸せそうで安心している」
その言葉に、自然と口元が緩んだ。
「……そうか」
「ああ。妹なんて、お前が迎えに来るのを三年間待っていたみたいな顔をしていたぞ」
俺は苦笑した。エレオノーラ殿下には、以前から何かと気を回していただいていた。俺がリリスを想っていることも、とうに見抜かれていたのだろう。
「……殿下には感謝している」
「直接言えばいいだろう」
「そうだな」
アレクシスは満足そうに頷き、ふと思い出したように言った。
「そういえば、お前の従兄弟が婚約の話を聞いて驚いていたぞ」
「セドリックか?」
「ああ。近いうちに顔を出すと言っていたな」
「……余計なことを言わなければいいが」
あいつは悪い人間ではないが、少々口が軽い。もっとも、リリスに失礼なことを言うような男でもない。必要以上に心配することはないだろう。
「それより、午後の会議の資料は確認したのか?」
「……お前、本当に仕事に戻すのが早いな」
「王太子殿下が仕事をなさらないのであれば、側近として催促するしかないだろう」
「はいはい。分かったよ」
アレクシスは笑いながら書類を手に取った。
◇ ◇ ◇
夕方、屋敷へ戻ると、玄関ホールにはリリスの姿があった。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
思わず足が止まった。
朝は見送られ、夕方には迎えられる。これが毎日続くのだとしたら、俺はどれほど幸せな男なのだろう。
「……帰ってきてよかった」
そう呟くと、リリスは不思議そうに首を傾げた。
俺は彼女に手を差し出した。差し出した手を迷わず取ってくれることが、たまらなく嬉しかった。
事件のことを尋ねられ、捜査が進んでいることを伝えると、リリスはまっすぐに俺を見つめた。
「はい。信じています」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
「……ありがとうございます、リリス」
彼女は優しく微笑み返してくれた。俺は、つないだ手をそっと握り直す。
事件が解決したら、彼女をどこかへ連れていこう。王都の外でも、静かな湖のほとりでもいい。護衛や警備を気にせず、ただ二人で穏やかな時間を過ごせる場所へ。
そして、いつか。
彼女が俺の隣にいることを、心から望んでくれる日が来たなら。
そのときは、改めて想いを伝えよう。
……焦る必要はない。
今はこうして、少しずつ距離を縮めていけばいいのだから。




