婚約者のお役目には、理由がある?
――リリス視点。
ルシアン様のお屋敷で暮らし始めて、数日が過ぎた。
朝は一緒に食事をして、時間が合えば庭園を散歩する。お忙しいはずのルシアン様は、私のために少しでも時間を作ろうとしてくださった。
そんな毎日が、少しずつ当たり前になり始めていた。
……困ったわ。このままでは、いつかお別れする日が来たとき、きっと寂しくなってしまう。
そんなことを考えていた朝、ルシアン様は珍しく難しいお顔をしていらっしゃった。
「リリス。申し訳ありませんが、今日は王宮へ行かなければなりません」
「お仕事ですか?」
「ええ。例の事件について、少し進展がありまして」
私は思わず背筋を伸ばした。王女殿下が襲われた、あの日の事件。犯人がまだ捕まっていないことを思い出し、胸が少しだけ重くなる。
「……犯人が、見つかったのでしょうか?」
「まだ確定したわけではありません。ただ、王宮への出入りに関して、調べるべきことが出てきました」
ルシアン様は私を不安にさせないようにするかのように、穏やかな声で続けられた。
「屋敷の警備は十分に整えています。どうか、安心して過ごしてください」
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
そう答えると、ルシアン様は少し驚いたように私を見つめられた。
「……リリス」
「はい?」
「今の言葉、もう一度お願いしてもよろしいですか?」
「えっ?」
何かおかしなことを言ったかしら?
「……お気をつけて、行ってらっしゃいませ?」
「……ありがとうございます」
ルシアン様は、なぜかとても嬉しそうに微笑まれた。
「行ってきます。できるだけ早く帰りますね」
……お仕事なのだから、そんなに急がなくてもよろしいのに。でも、あんなに嬉しそうなお顔を見せられると、私まで頬が緩んでしまう。
◇ ◇ ◇
ルシアン様をお見送りしてから、私は居間で刺繍をしていた。
侍女として王宮に勤めていた頃は、こうしてゆっくり針を持つ時間などほとんどなかった。今は何不自由なく過ごさせていただいているけれど、何もしないでいるのも落ち着かない。
そんなとき、侍女が来客を知らせに来た。
「アマリリス様。ルシアン様の従兄弟にあたる、セドリック様がお見えになっております」
「従兄弟の方が?」
どうやら、ルシアン様に用事があって訪ねてこられたらしい。お留守だと伝えたところ、私にも挨拶をしたいとおっしゃっているそうだ。私は少し迷ったものの、応接室でお会いすることにした。
「初めまして。セドリック・ヴァレンティスです。ルシアンの従兄弟にあたります」
現れたのは、明るい茶色の髪をした、気さくな雰囲気の青年だった。ルシアン様より少し年上だろうか。柔らかな笑顔が印象的な方だ。
「アマリリス・ベルフォードと申します。お会いできて光栄です」
「こちらこそ。いやあ、噂の婚約者に会えて嬉しいよ」
……噂の?
私が首を傾げると、セドリック様は楽しそうに笑われた。
「ルシアンが婚約したって聞いたときは、耳を疑ったよ。あいつ、昔から女性にはあまり関心を示さなかったからね」
「……そうなのですか?」
「社交界じゃ女嫌いなんて噂まであっただろう?まあ、本人は気にしていなかったみたいだけど」
私は思わず膝の上で手を握りしめた。
女嫌い。
もちろん、その噂は知っている。だからこそ、ルシアン様が私に婚約を申し込んでくださったときも、恋愛とは無関係なのだと思ったのだから。
「でも、侯爵家の令息ともなれば、いつまでも婚約者がいないわけにはいかないからね。周囲もずいぶん気を揉んでいたんじゃないかな」
「婚約者が、いないわけには……?」
「そう。家の立場もあるし、社交界の目もある。まあ、婚約したことで、あいつも周囲からあれこれ言われずに済むだろうね。そういう意味では、いい機会だったのかもしれないな」
セドリック様は何気ない様子で紅茶を口にされた。その言葉が、私の胸にすとんと落ちた。
……そういうことだったのね。
ルシアン様は、王女殿下を守ろうとして危険な立場になった私を保護する必要があった。そして、ご自身にも婚約者が必要だった。だから、私に婚約を申し込んでくださったんだわ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……でも、それなら納得できる。さすがルシアン様だわ。私を守りながら、ご自身の立場まで整えてしまうなんて。
「……アマリリス嬢?」
セドリック様の声に、私ははっと顔を上げた。
「す、すみません。少し考え事をしてしまって」
「いや、こちらこそ。余計なことを話してしまったかな?」
セドリック様は困ったように笑われた。
「でも、あいつが君を大切にしているのは本当だと思うよ。あんなに嬉しそうなルシアンは、初めて見たからね」
……まあ。
ルシアン様は、私がきちんと婚約者のお役目を果たしていることを喜んでくださっているのね。
「ありがとうございます、セドリック様。とても勉強になりました」
「……勉強?」
なぜかセドリック様は不思議そうなお顔をされたけれど、私は微笑んでお礼を伝えた。
◇ ◇ ◇
セドリック様がお帰りになったあと、私は久しぶりに友人へ手紙を書くことにした。
宛先は、クラリス・ベルモント。
王宮で働いていた頃から親しくしていた子爵令嬢で、私の容姿にまつわる噂を気にせず、いつも自然に接してくれた大切な友人だ。
王女殿下にお仕えするようになってからは忙しく、以前ほど会えなくなってしまったけれど、手紙のやり取りは続いていた。
『クラリスへ。突然の婚約で驚かせてしまってごめんなさい。今はルシアン様のお屋敷で、とてもよくしていただいています』
そこまで書いて、私はペンを止めた。そういえば、クラリスにも婚約の事情を説明していなかったわね。でも、事件に関わることを詳しく書くわけにはいかない。
少し考えてから、私は続きを書いた。
『落ち着いたら、またゆっくりお茶でもしましょう。あなたに話したいことが、たくさんあります』
手紙を封じると、胸の奥が少しだけ軽くなった。クラリスなら、きっと私の話を笑って聞いてくれるだろう。
◇ ◇ ◇
夕方、ルシアン様がお戻りになった。私は玄関ホールでお迎えし、淑女の礼を取った。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
すると、ルシアン様が足を止められた。
「……リリス?」
「はい?」
「……迎えに来てくださったんですか?」
「もちろんです。婚約者ですから!」
今日はセドリック様のお話を聞いて、婚約者としての自覚がますます強くなったのだ。ルシアン様にご迷惑をおかけしないよう、しっかりお役目を果たさなくては!
そう思って胸を張ると、ルシアン様はなぜか目元を緩められた。
「……そうですか」
そして、少しだけ照れたように微笑まれる。
「……帰ってきてよかった」
……っ! そんなことを言われたら、また勘違いしてしまいそうになる。
「ルシアン様。お疲れではありませんか?お茶をご用意いたしましょうか?」
「ありがとうございます。でも、その前に……」
ルシアン様は私の前で足を止め、そっと手を差し出された。
「少しだけ、あなたと話がしたいです」
私は嬉しくなって、その手を取った。
「はい!もちろんです!」
ルシアン様は満足そうに微笑まれた。
「……本当に、あなたがいてくれると幸せですね」
……っ!!私は慌てて俯いた。だ、だから、そういうことをさらりとおっしゃらないでください!私の心臓が、もちません……!
少し歩いたところで、私はふと朝の話を思い出した。
「あの……事件の方は、何か分かりましたか?」
「ええ。犯人が王宮へ入った際の記録に、不自然な点が見つかりました」
「……記録に?」
「詳しいことは、まだお話しできません。ただ、捜査は進んでいます」
ルシアン様はそうおっしゃると、私を安心させるように微笑まれた。
「必ず解決します。ですから、もう少しだけ待っていてください」
「はい。信じています」
そう答えると、ルシアン様は一瞬、驚いたようなお顔をされた。
「……ありがとうございます、リリス」
その声があまりにも優しくて、私はまた胸が温かくなった。
けれど、今日セドリック様のお話を聞いて、私はようやく理解できた気がする。ルシアン様が私を婚約者にしてくださった理由を。
いつかこの婚約が終わる日まで、私には果たすべきお役目がある。ルシアン様が、本当に愛する方と幸せになれるように。
私は隣を歩くルシアン様を見上げ、そっと微笑んだ。
……大丈夫。いつかお別れする日が来ても、きっと笑顔で送り出せるわ。
そう信じていた。今は、まだ。




