婚約者のお役目は、胸が苦しくなるほど甘い
――リリス視点。
ルシアン様の屋敷で暮らし始めてから、数日が経った。
私の毎日は、驚くほど穏やかだった。
朝は一緒に食事をして、ルシアン様がお仕事へ向かわれるときにはお見送りをする。夕方、帰宅される頃には玄関へ迎えに出て、時間があれば夕食もご一緒する。
まるで、本当の婚約者のような生活。
……いえ、今は一応、婚約者なのだけれど。
「リリス様、本日も旦那様をお迎えになりますか?」
髪を整えてくれていた侍女が、鏡越しに微笑んだ。
「ええ。もちろんよ」
「では、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」
差し出されたのは、小さな真珠をあしらった上品な髪飾りだった。
「素敵ね。でも、少し華やかすぎないかしら?」
「そんなことはございません。旦那様もきっとお喜びになりますよ」
そう言われると、断れなくなってしまう。
ルシアン様は、私の髪型が少し変わっただけでも気づいてくださるのだ。
昨日も、いつもと違う編み込みにしてみたところ、
『今日の髪型も、とてもお似合いですね』
と、微笑んでくださった。
あのときは嬉しくて、まともにお礼も言えなかった。
……困ったわ。
婚約者として振る舞うことには、少しずつ慣れてきたつもりなのに、ルシアン様に褒められることだけは、いつまでたっても慣れそうにない。
◇ ◇ ◇
午後、私は庭園に面した小さな応接室で、クラリスから届いた手紙を読んでいた。
先日、久しぶりに近況を知らせたところ、さっそく返事をくれたのだ。
『突然の婚約には驚いたけれど、リリスが元気そうで安心したわ。落ち着いたら、ぜひお茶でもしましょう』
懐かしい筆跡に、思わず笑みがこぼれる。
クラリス・ベルモント様は、私が王宮に仕えていた頃からの大切な友人だ。
私の容姿について余計な噂を立てることもなく、いつも自然体で接してくれる。彼女と過ごす時間は、昔から心地よかった。
『婚約者様は、どんな方なの?今度、詳しく聞かせてね』
最後の一文を読んで、私はそっと手紙を閉じた。
どんな方、と聞かれたら。
優しくて、誠実で、誰よりも頼りになる方。
それから……私が、三年間ずっとお慕いしてきた方。
けれど、その気持ちをクラリスに打ち明けたことはない。知っているのは、エレオノーラ様だけだ。
「……詳しく、か」
もし本当のことを話したら、クラリスは驚くだろう。
私がずっと憧れていた方と婚約したことも、その婚約は事件が解決するまでのものだと、私が思っていることも。
何より、こんなに幸せな毎日を過ごしながら、いつか終わる日を考えていることも。
私は手紙を胸元に寄せた。
今はまだ、誰かに話す勇気が出なかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ルシアン様が帰宅される前に、私は夕食の席へ向かっていた。
今日は、少しだけお願いしたいことがある。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、向こうからルシアン様がいらっしゃった。
「リリス」
私の姿を見つけると、ルシアン様は柔らかく微笑まれた。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
「ただいま戻りました。今日は少し早く帰れたので、夕食をご一緒できそうです」
「本当ですか? 嬉しいです!」
思わず声が弾んでしまった。
ルシアン様は、そんな私を見て嬉しそうに目を細めた。
「……その髪飾り」
「え?」
思わず手を伸ばす。
「今日、侍女が選んでくれたんです。少し華やかすぎるかと思ったのですが……」
「いいえ。とても綺麗です」
ルシアン様は穏やかに微笑んだ。
「真珠も素敵ですが、あなたの髪の色によく映えていますね」
……もう。
そんなふうに褒められたら、明日も髪飾りを選びたくなってしまうではないですか。
「……ありがとうございます」
小さく答えると、ルシアン様はどこか嬉しそうに目を細めた。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、私たちは庭園を望む居間で向かい合っていた。
テーブルには温かい紅茶と、小さな焼き菓子が用意されている。
「リリス。先ほど、何かお話ししたそうにしていませんでしたか?」
ルシアン様に尋ねられ、私は少しだけ背筋を伸ばした。
「実は、ルシアン様のお好きなものを、もっと知りたいと思いまして」
「私の好きなもの、ですか?」
「はい。お食事でも、お菓子でも、趣味でも。何でも構いません」
ルシアン様は、しばらく私を見つめていた。
「……なぜ、急に?」
「その……婚約者ですから」
そう答えると、ルシアン様は口元を緩めた。
「なるほど。では、あなたは私のことを知ろうとしてくださっているんですね」
「はい!」
胸を張って答えたものの、少しだけ心が痛んだ。
本当は、婚約者のお役目だからというだけではない。
好きな方のことを、もっと知りたい。
ただ、それだけなのだ。
「そうですね……」
ルシアン様は少し考え込んでから、紅茶のカップを置いた。
「私は、静かな時間が好きです」
「静かな時間、ですか?」
「ええ。本を読んだり、庭を眺めたり。仕事を離れて、ゆっくり過ごす時間ですね」
意外だった。
いつも忙しく働いていらっしゃるから、休日も何かをして過ごされる方なのかと思っていた。
「では、お休みの日には読書を?」
「以前はそうでした。ただ、最近は少し変わりましたね」
「変わったんですか?」
ルシアン様は私を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「今は、あなたと過ごす時間が一番好きです」
……っ!
まただ。
また、そんなことを。
「ル、ルシアン様……!」
思わず声が裏返ってしまう。
ルシアン様は不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「い、いいえ!何も!」
おかしくなんてない。
ただ、私の心臓に悪いだけです!
私は慌てて紅茶を口に運んだ。
……熱い。
「リリス、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
ルシアン様は心配そうにこちらを見つめたあと、そっと水の入ったグラスを差し出してくださった。
「慌てなくていいですよ」
「……ありがとうございます」
もう、恥ずかしい。
それなのに、差し出されたグラスを受け取るとき、指先がほんの少し触れただけで、また胸が高鳴ってしまった。
私は一度深呼吸をして、話題を戻すことにした。
「で、では!お好きなお菓子はありますか?」
「焼き菓子なら、蜂蜜を使ったものが好きですね」
「蜂蜜……」
私は心の中で、しっかり覚えた。
今度、厨房の方にお願いしてみよう。
「リリスは、何がお好きですか?」
「私は……」
答えかけて、ふと気づく。
ルシアン様は、すでに私の好きなお菓子をご存じだ。屋敷に来た最初の日から、好物を用意してくださっていた。
「……ルシアン様は、私の好きなものをたくさんご存じですよね」
「エレオノーラ殿下に、少し教えていただきました」
「そうだったんですね」
やっぱり、エレオノーラ様だったのね。
あの方なら、私の好物を一つ残らず教えてくださりそうだ。
「ですが、殿下に教えていただいたことだけではありませんよ」
「え?」
ルシアン様は少しだけ視線を落とした。
「……あなたのことは、以前から見ていましたから」
胸が、どきりと鳴った。
「以前から……?」
「王宮でお会いしたとき、どんなお菓子を選ばれるのか。どんな花をご覧になると笑顔になるのか。そういうことを、少しずつ覚えていたんです」
私は言葉を失った。
三年間。
私が遠くからルシアン様を見つめていた、その間に。
ルシアン様も、私のことを見ていてくださった……?
……もしかして。
ルシアン様も、私のことを……?
胸の奥に、小さな期待が芽生えた。
けれど、すぐに思い出してしまった。
ルシアン様は女性が苦手だという噂。そして、セドリック様がおっしゃっていた、婚約によって周囲からあれこれ言われずに済むというお話。
何より、この婚約は私を守るためのものなのだ。
……勘違いしては、いけないわ。
「……そんなに驚かせてしまいましたか?」
困ったように微笑まれて、私は慌てて首を振った。
「い、いいえ!ただ……嬉しくて」
本当に、嬉しかった。
たとえそれが、王女付き侍女だった私を気にかけてくださっていただけだとしても。
「……そうですか」
ルシアン様の表情が、ふっと和らいだ。
「それなら、よかった」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
嬉しい。
嬉しいのに、苦しい。
この方を好きになって、本当によかった。
そう思うたびに、いつかお別れしなければならない日が、少しずつ怖くなっていく。
◇ ◇ ◇
お茶の時間が終わり、部屋へ戻ろうとしたときだった。
廊下の向こうから、屋敷の執事が足早に近づいてきた。
「ルシアン様。王宮から急ぎの使いが参っております」
「……分かった。すぐに向かう」
ルシアン様の表情が、瞬時に引き締まった。
「申し訳ありません、リリス。少し席を外します」
「いえ。どうか、お仕事を優先なさってください」
私は微笑んで答えた。
ルシアン様は一瞬ためらうように私を見つめ、それから静かに頷いた。
「……ありがとうございます。おやすみなさい、リリス」
「おやすみなさいませ、ルシアン様」
その背中を見送る。
さっきまで、あんなに優しい顔で笑っていらしたのに、今はもう王太子殿下の側近としての顔に戻っている。
……本当に、素敵な方。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
ルシアン様のお好きなものを、一つ知ることができた。
蜂蜜を使った焼き菓子。
明日は厨房の方にお願いして、用意していただこうかしら。
喜んでくださるといいな。
そんなことを考えるだけで、自然と頬が緩んでしまう。
けれど、ふと気づいた。
こうしてルシアン様のお好きなものを知るたびに、私はきっと、もっとこの方を好きになってしまう。
いつかお別れする日が来ると、分かっているのに。
……それでも。
もう少しだけ、この幸せな時間が続いてほしい。
そんな願いを、胸の奥にそっとしまい込んだ。




