婚約者を大切にするのは当然だろう?
――ルシアン視点。
三年間、想い続けてきた女性が、俺の婚約者になった。
……婚約者。
何度心の中で繰り返しても、信じられない。
「……ありがとうございます、リリス」
そう呼びかけたとき、彼女の頬がみるみる赤く染まった。あの可愛らしい反応を思い出すだけで、口元が緩みそうになる。
……いや、落ち着け。
彼女は事件に巻き込まれたばかりだ。まずは安全を確保しなければならない。
分かっている。分かっているが――。
嬉しいものは、嬉しい。
「……ルシアン」
執務室で書類を確認していると、向かいに座るアレクシスが呆れたように声をかけてきた。
「お前、さっきから同じ書類を見ていないか?」
「見ている」
「読んでいるのか?」
「…………」
「読んでないんだな」
俺は黙って書類をめくった。
「それで?アマリリスに婚約を申し込んだんだって?」
「ああ」
「ようやく三年越しの想いを伝えたわけだ」
「……婚約を申し込んだだけだが」
「同じようなものだろう。で、返事は?」
「受け入れてくれた」
アレクシスが嬉しそうに笑った。
「よかったじゃないか!これで晴れて両想いだな」
「……両想いかどうかは、まだ分からない」
「……は?」
アレクシスの笑顔が止まった。
「いや、婚約を受け入れたんだろう?」
「ああ」
「それなら、お前のことが好きなんじゃないのか?」
「そうとは限らない。彼女は危険な状況にある。俺の提案を受け入れたのも、安全のためかもしれない」
アレクシスは、しばらく俺の顔を見つめていた。
「……お前、案外慎重なんだな」
「彼女の気持ちを勝手に決めつけるわけにはいかないだろう」
婚約を受け入れてくれたことは嬉しい。少なくとも、嫌われてはいないのだと思いたい。
だが、彼女が俺をどう思っているのかは、まだ分からない。
「これから、好きになってもらえればいい」
そう告げると、アレクシスが妙な顔をした。
「……まあ、お前がそれでいいなら、いいけどさ」
何が言いたいんだ。
俺は机の上に用意した紙を手に取った。
「それで、屋敷の準備なんだが」
「……準備?」
「彼女の部屋を整えたい。日当たりのいい南側の客室がいいだろう。庭も見えるし、落ち着いて過ごせるはずだ」
「うん」
「家具は新しくした方がいいな。寝具も肌触りのいいものを用意する。それから、菓子は何が好みだったか……」
「……ルシアン?」
「エレオノーラ殿下に聞けば分かるか。花も好きだろうか」
「おい、ちょっと待て」
顔を上げると、アレクシスが額を押さえていた。
「お前、婚約したばかりだよな?」
「ああ」
「なのに、もうそこまで考えているのか?」
「当然だろう」
何を不思議がっているんだ。
「リリスが快適に過ごせるようにするのは、婚約者として当然のことだ」
アレクシスが黙り込んだ。
「……お前、今までそんな男だったか?」
「昔からこうだが?」
「いや、絶対違う」
失礼な。
「そもそも、彼女は命を狙われる可能性があるんだ。安心して眠れる場所を用意するのは当たり前だろう」
「それはそうだ。でも、お前が考えているのは警備だけじゃないよな?」
「……何が言いたい?」
「いや、いい。幸せそうで何よりだよ」
アレクシスは何かを諦めたように笑った。
「……お前、婚約しただけでこれなら、結婚したらどうなるんだ?」
結婚。
その言葉に、自然と頬が緩んだ。
「……今から楽しみだな」
「…………」
アレクシスはとうとう机に突っ伏した。
……何なんだ、さっきから。
◇ ◇ ◇
――リリス視点。
「……本当に、行ってしまうのね」
エレオノーラ様が、寂しそうに微笑まれた。
事件の翌日。私は王女付き侍女のお仕事を離れることになった。
犯人はまだ捕まっていない。私が宮殿に留まることで、エレオノーラ様に危険が及ぶ可能性もあるという。
だから、今はルシアン様のお屋敷で保護していただくことになっている。
「申し訳ございません。こんな形でお暇をいただくことになるなんて……」
「謝らないで、リリス。あなたが無事でいてくれることが、わたくしには一番大切なの」
エレオノーラ様は私の手を握られた。
「それに……ルシアンと婚約したのでしょう?」
そのお顔が、ぱっと明るくなる。
「お、お聞きになったのですか!?」
「もちろん!お兄様から聞いたわ。もう、びっくりしたんだから!」
エレオノーラ様は嬉しそうに笑われた。
「よかったわね、リリス。ようやく想いが通じたのね!」
……想いが、通じた。
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
そう。私はルシアン様が好き。
けれど、今回の婚約は、私を守るためのもの。
ルシアン様は女性が苦手だと噂されている。それなのに婚約を申し込んでくださったのは、私が危険な目に遭っているからだ。
きっと、事件が解決したら、この婚約も終わるのだろう。
……それでも。
ほんの少しの間だけでも、ルシアン様の婚約者でいられる。それだけで、十分幸せだわ。
「……はい。ルシアン様は、本当にお優しい方です」
私が微笑むと、エレオノーラ様は嬉しそうに頷かれた。
「ふふっ。幸せになってね、リリス」
「……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「エレオノーラ様。三年間、本当にありがとうございました」
「……もう。そんなお別れみたいなこと、言わないでちょうだい」
エレオノーラ様は、私をぎゅっと抱きしめられた。
「いつでも会えるわ。絶対に、遊びに来てね」
「……はい!」
その温かさに、思わず涙がこぼれそうになった。
◇ ◇ ◇
宮殿の正面玄関には、ルシアン様が迎えに来てくださっていた。
「リリス」
そのお声に、胸が跳ねる。
……まだ、慣れないわ。
ルシアン様が私を愛称で呼んでくださるなんて。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「いいえ。お別れの挨拶は済みましたか?」
「はい。エレオノーラ様にも、ご挨拶できました」
「そうですか。では、参りましょう」
ルシアン様は自然な動作で、私に手を差し伸べられた。
……え?
「あ、あの……?」
「馬車まで、お手を」
にこりと微笑まれる。
……っ!
こ、これが婚約者のお役目なのね!
私は慌てて、その手に自分の手を重ねた。
「よ、よろしくお願いいたします……!」
すると、ルシアン様が少し驚いたように瞬きをされたあと、嬉しそうに微笑まれた。
「……ええ。こちらこそ」
その笑顔があまりにも優しくて、胸がきゅうっとなる。
……頑張らなくちゃ。
仮の婚約者だからといって、ルシアン様に恥をかかせるわけにはいかないもの。
◇ ◇ ◇
ルシアン様のお屋敷は、想像していた以上に立派だった。
美しい庭園に、白い石造りの建物。玄関では、使用人の方々が揃って迎えてくださった。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
「ああ。ただいま」
ルシアン様は私に向き直られた。
「紹介します。私の婚約者、アマリリスです」
……っ!
婚約者。
改めてそう紹介されると、心臓が跳ねてしまう。
「アマリリス様。ようこそお越しくださいました」
使用人の方々が一斉に頭を下げられる。
「こ、こちらこそ、お世話になります!どうぞよろしくお願いいたします!」
慌ててお辞儀をすると、隣でルシアン様が小さく笑われた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「は、はい……!」
……無理です。
だって、憧れの方のお屋敷なのですもの!
案内されたお部屋は、思わず息をのむほど美しかった。
大きな窓からは庭園が見渡せて、柔らかな色合いの家具が並んでいる。テーブルには、可憐な花まで飾られていた。
「……素敵なお部屋ですね」
思わず呟くと、ルシアン様がほっとしたように微笑まれた。
「気に入っていただけましたか?」
「はい! とても!」
そう答えると、ルシアン様の表情がぱっと明るくなった。
……あら?
なんだか、私以上に嬉しそう……?
「それはよかった。何か足りないものがあれば、遠慮なく言ってください」
「い、いえ! 十分すぎるほどでございます!」
こんなに素敵なお部屋を用意していただけるなんて。
……ルシアン様は、なんてお優しい方なのかしら。
女性が苦手だというのに、私のためにここまでしてくださるなんて。ご負担をかけないようにしなくては!
「それから、リリス」
「は、はい!」
ルシアン様は、私をまっすぐ見つめられた。
「ここを、あなたの家だと思ってください」
……え?
「遠慮する必要はありません。あなたが安心して過ごせることが、私にとって何より大切です」
そのお言葉に、胸がいっぱいになった。
……ああ。
こんなにも優しい方の婚約者を務めさせていただけるなんて。私は、なんて幸せ者なのだろう。
「……ありがとうございます、ルシアン様。精いっぱい、婚約者としてのお役目を果たします!」
そう告げると、ルシアン様は一瞬だけ不思議そうなお顔をされた。
けれど、すぐに優しく微笑まれる。
「……ええ。よろしくお願いします、リリス」
その笑顔に、また胸が高鳴った。
……大丈夫。
これは、あくまで仮の婚約。
だから、勘違いしてはいけないわ。
そう自分に言い聞かせながら、私はそっと胸に手を当てた。
けれど、このときの私は、まだ知らなかったのだ。
ルシアン様が、私のためにお部屋の家具からお花まで、ひとつひとつ選んでくださっていたことを。
そして、これがまだ、ルシアン様の溺愛のほんの始まりにすぎないことを――。




