あなたを守るための婚約
銀色の刃が、目の前に迫る。
……怖い。
ぎゅっと目を閉じた、その瞬間。
「動くな!」
鋭い声とともに、金属のぶつかる音が響いた。恐る恐る目を開けると、護衛の騎士が男の短剣を受け止めていた。
「王女殿下をお守りしろ!」
別の騎士がエレオノーラ様のもとへ駆け寄る。その隙に男は騎士の剣を振り払い、生け垣の奥へ逃げ込んだ。
「リリス!」
エレオノーラ様が私のもとへ駆け寄ってこられた。
「大丈夫!? 怪我はない!?」
「はい。私は大丈夫でございます。それより、エレオノーラ様は……」
「わたくしのことはいいの!あなたが、あんな無茶をするから……!」
エレオノーラ様のお声が震えている。私は、この方を怖がらせてしまったのね。
「申し訳ございません……」
「謝らないで!」
エレオノーラ様は私の手をぎゅっと握られた。
「守ってくれてありがとう。でも、あなたに何かあったら、わたくし……」
その先のお言葉は、涙に変わってしまった。私はそっと、その手を握り返す。
「……ご無事で、本当によかったです」
それだけは、心からそう思った。
◇ ◇ ◇
事件のあと、私たちはすぐに宮殿へ戻された。
騎士たちは私たちの安全確保を優先したため、男を取り逃がしてしまったらしい。幸い、二人とも怪我はなかった。
けれど、私の胸のざわめきは消えない。
……あの人。やっぱり、どこかで見たことがある。
「エレオノーラ!」
突然、扉が開いた。
「お兄様!」
アレクシス殿下が険しいお顔で入ってこられ、すぐにエレオノーラ様のもとへ向かわれた。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫よ。リリスが守ってくれたの」
「そうか……。無事でよかった」
殿下が安堵されたように息を吐かれる。
その後ろには、ルシアン様のお姿もあった。
「……ルシアン様」
思わずお名前を呼ぶと、ルシアン様はまっすぐこちらへ歩いてこられた。
「アマリリス嬢。お怪我は?」
「は、はい。どこにも……」
「本当に?痛むところはありませんか」
「だ、大丈夫でございます!」
ルシアン様はじっと私を見つめられ、ようやく小さく息を吐かれた。
「……よかった」
その一言があまりにも優しくて、胸がどきんと跳ねた。
……そんなお顔をされたら、勘違いしてしまいそうです。
「アマリリス」
アレクシス殿下が私に向き直られた。
「妹を守ってくれて、ありがとう」
「とんでもございません。当然のことをしたまでで……」
「当然のことではないよ。君は、自分の命を危険にさらしたんだ」
今になって、ようやく実感が湧いてきた。
もし、あの騎士様が間に合わなかったら……。
そう思った途端、指先が震え始める。
「アマリリス嬢」
ルシアン様が、そっと声をかけてくださった。
「もう、安全です。どうか無理をなさらないでください」
私は震える手を隠すように、そっと握りしめた。
◇ ◇ ◇
「……犯人に、見覚えがある?」
アレクシス殿下のお言葉に、私は頷いた。
「はい。宮殿の廊下で何度かお見かけしたことがございます。書類をお持ちになっていて……文官の方ではないかと」
その場の空気が変わった。
「顔は覚えているかい?」
「はい。もう一度お会いすれば、分かると思います」
アレクシス殿下とルシアン様が視線を交わされる。
「アマリリス嬢。犯人は、あなたと目が合いましたか?」
「……はい。私が顔を覚えていると、気づかれたような気がいたします」
ルシアン様の表情が険しくなった。
「アマリリス。君にはしばらく護衛をつけさせてもらうよ」
アレクシス殿下が静かにおっしゃった。
「犯人が口封じを考える可能性がある。それに、宮殿の内部に協力者がいるかもしれない。君を今までどおり働かせるのは危険だ」
……口封じ。
背筋が冷たくなった。
「申し訳ございません。私のせいで、ご迷惑を……」
「アマリリス嬢」
ルシアン様が私の言葉を遮られた。
「あなたが謝ることではありません。あなたは王女殿下を守ったのです」
まっすぐな灰緑色の瞳が、私を見つめている。
「あなたを守る方法は、私たちが考えます」
そのお声は穏やかなのに、不思議と逆らえない強さがあった。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、私はルシアン様に別室へ案内された。扉の外には護衛の騎士が控えている。
……どうしましょう。ルシアン様と、二人きり。
こんな状況でなければ夢のようなお時間なのだけれど、緊張で心臓が落ち着かない。
「アマリリス嬢。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「は、はい!」
ルシアン様は向かいの椅子に腰を下ろされ、真剣な表情で私を見つめられた。
「殿下とも相談しました。あなたには当面、宮殿を離れていただく必要があります」
「……はい」
エレオノーラ様に再び危険が及ぶことだけは、避けなければならない。
「そこで、ひとつ提案があります」
ルシアン様は、私から目をそらさずにおっしゃった。
「私の屋敷で、過ごしていただけませんか」
……え? ルシアン様の、お屋敷?
「で、ですが、私がお邪魔してはご迷惑では……?」
「迷惑ではありません。むしろ、私がそうしたいのです」
……っ!
ど、どうしましょう。ルシアン様が、そんなことを……!
けれど、すぐに我に返る。そうよ。これは護衛のお話なのだから、変な期待をしてはいけないわ。
「ですが、私は未婚の身でございますし……」
未婚の男女が同じ屋敷で暮らすなど、貴族社会では大きな問題になってしまう。
「ええ。ですから、その問題を解決したいと思っています」
ルシアン様はひとつ息を吸われた。
そして。
「アマリリス嬢。私と婚約していただけませんか」
「…………え?」
……今、何とおっしゃったのかしら。
婚約? 私と、ルシアン様が?
「あなたを守りたいのです。ですが、未婚の男女が同じ屋敷で暮らすわけにはいきません」
ルシアン様のお声は、どこまでも真剣だった。
「私の婚約者として、屋敷で過ごしていただけないでしょうか」
……なるほど。そういうこと、なのね。
ルシアン様は、私を守るために婚約者という立場を用意してくださるのだわ。
女性が苦手だと噂されているルシアン様が、私を本当の婚約者に選ばれるはずがない。
……つまり、これは仮の婚約なのね。
なんてお優しい方なのかしら。
「……アマリリス嬢?」
ルシアン様が、少し心配そうに私を見つめられた。
「お嫌でしょうか」
……嫌だなんて、とんでもない!
でも、私などが婚約者になっては、ルシアン様のお立場に差し障りがあるのでは……。
「ですが、私などが婚約者では、ルシアン様のお立場に……」
「私が望んでいることです。どうか、あなたに引き受けていただきたい」
その真剣なお言葉に、胸がいっぱいになる。
この方のお気持ちに、きちんとお応えしなければ。
私は顔を上げ、まっすぐルシアン様を見つめた。
「……分かりました。不束者ではございますが、精いっぱい婚約者としてのお役目を務めさせていただきます!」
ルシアン様は一瞬だけ目を見開かれ、ふっと表情を和らげられた。
「……ありがとうございます、リリス」
……え?
今、リリス、って。
初めて呼ばれた愛称に、心臓が跳ね上がる。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします……!」
頬が熱い。どうしましょう。こんな調子で、婚約者のお役目なんて務まるのかしら。
ルシアン様は、そんな私を見つめながら、どこか嬉しそうに微笑んでいらっしゃった。
……ああ。やっぱり、この方の笑顔は反則です。
けれど、このときの私はまだ知らなかった。
ルシアン様が、この婚約を仮のものだなんて、少しも思っていらっしゃらないことを。
そして、これから始まる婚約生活が、私の想像をはるかに超えるほど甘いものになるなんて――。




