穏やかな日々に、忍び寄る影
翌朝。
「……ふふっ」
思わず口元が緩んでしまった。
昨日は、本当に素敵な一日だった。ルシアン様とお茶をご一緒できただけでも夢のようだったのに、困っていたところまで助けていただけるなんて。
『困ったことがあれば、遠慮なく私に言ってください』
……ああ、なんてお優しい方なのかしら。思い出すだけで、また頬が緩んでしまう。
「リリス?」
「は、はいっ!」
突然名前を呼ばれ、私は慌てて顔を上げた。目の前では、エレオノーラ様が楽しそうに微笑んでいらっしゃる。
「あなた、さっきから何度も笑っているわよ?」
「そ、そうでしょうか?」
「ええ。それはもう、幸せそうに」
……しまった。お仕事中なのに、何をしているのかしら。
「申し訳ございません。少し考え事をしておりました」
「ふふっ。ルシアンのこと?」
「ひ、姫様っ!」
エレオノーラ様は楽しそうに笑われた。
「だって、昨日からずっと嬉しそうなんですもの」
「そ、それは……」
否定したい。けれど、否定できない。
……だって、本当に嬉しかったのだから。
「ねえ、リリス。昨日、ルシアンに助けてもらったのでしょう?」
「えっ? どうしてそれを……」
「お兄様から聞いたのよ」
アレクシス殿下が?
……ということは、ルシアン様が殿下にお話しされたのかしら。
「ルシアンって、ああ見えて優しいところがあるのよね」
「はい!とてもお優しい方です!」
思わず力強く頷いてしまった。すると、エレオノーラ様は一瞬きょとんとされたあと、くすくすと笑い始めた。
「ふふっ。あなたにルシアンの話をすると、本当に楽しいわ」
「……もう、姫様」
どうして私ばかり、こんなにからかわれてしまうのだろう。けれど、エレオノーラ様が楽しそうに笑っていらっしゃると、私まで嬉しくなってしまう。
私は気を取り直し、今日のご予定を確認することにした。
「本日は午後から庭園を散策されるご予定でございます」
「あら、そうだったわね。今日はお天気もいいし、楽しみだわ」
「はい。お花も綺麗に咲いている頃かと存じます」
「それなら、リリスも一緒に歩きましょうね」
「もちろんでございます」
エレオノーラ様は満足そうに微笑まれた。
いつもと変わらない、穏やかな朝。
けれど、このときの私はまだ気づいていなかった。その日が、私たちの日常を大きく変えることになるなんて。
◇ ◇ ◇
午後。
エレオノーラ様とともに庭園へ向かう途中、私は宮殿の様子がいつもと違うことに気づいた。廊下のあちらこちらに、普段より多くの近衛騎士が立っている。
……何かあったのかしら。
「リリス、どうかした?」
「いえ……本日は、警備の方が多いように思いまして」
「ああ、そのことね」
エレオノーラ様は少しだけ表情を曇らせた。
「最近、王宮の周辺で不審な動きがあるそうなの」
「……不審な動き、でございますか?」
「ええ。でも、お兄様が対処してくださっているわ。心配しなくても大丈夫よ」
そうおっしゃって微笑まれたけれど、私は昨日のお茶会での会話を思い出していた。
王政に反対する者たち。アレクシス殿下が、少しだけ厳しいお顔をされていたこと。
……まさか、何か関係があるのかしら。
「エレオノーラ様。本日の散策は、お控えになられた方がよろしいのでは……」
「まあ、リリスまでお兄様みたいなことを言うのね」
「ですが……」
「大丈夫よ。庭園は宮殿の敷地内ですもの。それに、近衛騎士もついてきてくれるのでしょう?」
確かに、今日は護衛の騎士がいつもより多く配置されている。それでも、胸の奥に小さな不安が残った。
「……かしこまりました。ですが、どうか私のそばを離れないでくださいませ」
「ふふっ。頼もしいわね、リリス」
エレオノーラ様は楽しそうに笑われた。
私はその笑顔を見つめながら、心の中でそっと誓った。
何があっても、この方をお守りしなければ。
◇ ◇ ◇
庭園には、色とりどりの花が咲き誇っていた。柔らかな風が吹き、甘い花の香りが漂ってくる。
「まあ、綺麗!」
エレオノーラ様が嬉しそうに声を上げられた。
「リリス、見て。あちらの薔薇、あなたの髪の色に似ているわ」
「まあ……本当でございますね」
淡い薔薇色の花びら。自分の髪と同じ色だと言われると、少し不思議な気持ちになる。
「わたくし、あなたの髪の色が大好きよ」
「……ありがとうございます」
エレオノーラ様は、いつもこうして私の容姿を褒めてくださる。
幼い頃から、この髪や瞳のせいで嫌な思いをすることが多かった。だからこそ、そんなふうに言っていただけることが、何より嬉しかった。
「ねえ、リリス」
「はい?」
「いつか、あなた自身も好きになってくれたら嬉しいわ」
思いがけないお言葉に、私は目を瞬かせた。
「……私自身、でございますか?」
「ええ。あなたはもっと、自分に自信を持っていいのよ」
エレオノーラ様は、まっすぐ私を見つめていらっしゃる。
その優しさが胸に染みて、私はそっと微笑んだ。
「……ありがとうございます、姫様」
「ふふっ。どういたしまして」
そんなやり取りをしながら、私たちは庭園の奥へと歩いていった。
庭園の奥には、背の高い生け垣に囲まれた小道がある。普段は庭師や宮殿の使用人たちも通る場所で、私も何度か利用したことがあった。
護衛の騎士たちは少し離れた場所から、私たちの周囲に目を配っている。
そのときだった。
――ガサッ。
生け垣の向こうから、小さな物音がした。
「……?」
私は足を止めた。風で枝が揺れたのかしら。
そう思った、次の瞬間。
「王女殿下!お下がりください!」
突然、鋭い声が響いた。振り返ると、護衛の騎士がこちらへ駆け寄ってくる。
そして――。
生け垣の陰から、見知らぬ男が飛び出してきた。その手には、鈍く光る短剣が握られている。
「……っ!」
男の視線が、まっすぐエレオノーラ様へ向けられた。
「エレオノーラ様!」
考えるより先に、身体が動いていた。私はエレオノーラ様の肩を抱き、力いっぱい後ろへ押しやった。
「リリス!?」
悲鳴のようなお声が聞こえる。
男が迫ってくる。護衛の騎士たちが駆け寄ってくるのが見えた。
けれど、間に合わない。
……お願い。エレオノーラ様だけは。
私は震える足を踏みしめ、王女殿下の前に立ちはだかった。
その瞬間、男の顔がはっきりと見えた。
……え? この人、どこかで……。
そうだ。宮殿の廊下で、何度か見かけたことがある。確か、書類を抱えて歩いていた、文官の方だ。
どうして、その方がここに……?
男と目が合った。一瞬、男の表情が強張る。
まるで、私に顔を知られていることに気づいたかのように。
「リリス!!」
エレオノーラ様の悲鳴が響いた。
次の瞬間、銀色の刃が振り下ろされた。




