初めての口づけ
――リリス視点。
夜会も半ばを過ぎた頃、ルシアン様に誘われ、私は大広間から続く庭園へ出た。
夜風が頬を撫で、遠くから音楽が聞こえてくる。庭園には小さな灯りがともされ、白い花々が月明かりに浮かんでいた。
「寒くはありませんか?」
「はい。大丈夫です」
そう答えると、ルシアン様は私の肩へそっと上着をかけてくださった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
私たちは、しばらく並んで歩いた。会場の賑やかさが遠ざかり、静かな夜の空気に包まれる。
「……リリス」
ルシアン様が足を止めた。
「はい?」
振り向くと、彼はまっすぐに私を見つめていた。
「今夜、あなたがほかの男性に囲まれているのを見て……少し、余裕をなくしてしまいました」
私は思わず瞬きをした。
「……ルシアン様でも、そのようなことがあるのですね」
「ええ。あなたのことになると、どうにも」
彼は苦笑した。
「情けないと思われるかもしれませんが、誰にもあなたを渡したくないと考えてしまったんです」
……誰にも、渡したくない。
その言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
「……情けなくなんて、ありません」
私は、そっと彼の手を握った。
「私も……ルシアン様がほかのご令嬢と親しくお話しされていたら、きっと同じ気持ちになると思います」
ルシアン様が、驚いたように私を見た。
「……本当ですか?」
「はい。……少し、妬いてしまうかもしれません」
恥ずかしくなって俯くと、彼が小さく笑った。
「……それは、嬉しいですね」
「もう。笑わないでください……」
「すみません。ですが、嬉しくて」
彼は私の手を握り直した。
「リリス。あなたを愛しています」
何度聞いても、その言葉には慣れない。胸が熱くなり、目の奥までじんわりとしてくる。
「……私も、愛しています。ルシアン様」
ルシアン様は、しばらく私を見つめていた。
それから、そっと私の頬に手を添える。
「……リリス」
「……はい?」
「……口づけても、よろしいですか?」
一瞬、時間が止まったような気がした。
……口づけ。
これまで、手にも、頬にも、額にも、優しく触れてくださった。
けれど、今、ルシアン様が尋ねていらっしゃるのは……。
胸が、どきどきと音を立てる。
「……はい」
小さく答えると、彼の瞳が柔らかく細められた。
「……ありがとうございます」
ルシアン様が、ゆっくりと顔を近づける。私はそっと目を閉じた。
次の瞬間。
唇に、温かなものが触れた。
ほんの短い、優しい口づけ。
それなのに、胸の奥がいっぱいになって、何も考えられなくなってしまった。
けれど、離れてしまった瞬間、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまった。
……私、もっと触れていたかったのでしょうか。
そう気づいた途端、頬が熱くなる。
ゆっくりと離れたあとも、私は目を開けられずにいた。
「……リリス?」
名前を呼ばれ、ようやく顔を上げる。
ルシアン様が、少し心配そうに私を見つめていた。
「……嫌では、ありませんでしたか?」
私は慌てて首を振った。
「い、いいえ! その……」
何と言えばいいのか分からない。嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいで。
「……幸せ、です」
やっとの思いでそう答えると、ルシアン様の表情がふっと崩れた。
「……よかった」
彼は、私をそっと抱き寄せた。
「……実は、私もかなり緊張していました」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「ルシアン様が、ですか?」
「ええ。あなたに嫌がられたらどうしようかと、そればかり考えていました」
……そんな。
あんなに優しく、落ち着いていらっしゃったのに。
「……私も、緊張していました」
「そうでしたか」
彼は安心したように微笑んだ。
「……では、同じですね」
その言葉が嬉しくて、私も笑ってしまった。
ルシアン様は、私の髪をそっと撫でる。
「……リリス」
「はい?」
「これから先も、こうして一つずつ、あなたとの思い出を増やしていきたいです」
私は、彼の胸元にそっと頬を寄せた。
「……はい。私もです」
夜風が、二人の間を優しく通り抜けていく。
少し前まで、私はこの幸せがいつか終わるものだと思っていた。
仮の婚約者だから。事件が終われば、お別れするのだから。そう自分に言い聞かせていた。
けれど、今は違う。
この人の隣にいる未来を、願ってもいい。
私はそっと、ルシアン様の手を握った。すると彼は、その手を優しく握り返してくださった。
「……リリス」
「はい?」
「……もう一度、口づけても?」
……っ!
思わず顔を上げると、ルシアン様は少しだけいたずらっぽく微笑んでいた。
「……だ、だめとは、申しませんけれど……」
言い終える前に、頬が熱くなる。
ルシアン様は一瞬目を見開き、それから、たまらなく嬉しそうに微笑まれた。
「……困りましたね」
「……え?」
「そんな可愛らしいことを言われたら、帰したくなくなってしまいます」
……っ!
「……ですから、今夜はここまでにしておきます」
彼は私の手を持ち上げ、指先にそっと口づけた。
「続きは、また今度にしましょう」
……もう!
ルシアン様は、ずるいです。
けれど、その言葉が嬉しくて、私は彼の手を握る指に、ほんの少しだけ力を込めた。
今夜のことは、きっと一生忘れない。
初めての口づけも。
私だけに見せてくださった、少し余裕のない表情も。
そして何より。
こんなにも愛しい人と、同じ未来を望める幸せを。




