守りたい日常
――ルシアン視点。
馬車に乗り込んでから、私は小さく息を吐いた。
……危なかった。
リリスが玄関で微笑んでいる姿を見た瞬間、思わず抱きしめたくなってしまった。
昨日まで、会いたくても簡単には会えなかった人。その人が、今朝は私と同じ屋敷で目を覚まし、朝食を共にしてくれた。
そして、帰りを待っていると言ってくれた。
……これ以上、何を望めというのだろう。
私は、思わず口元を緩めた。
「……帰ったら、もう一度抱きしめたいな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そのとき、馬車が王宮の門をくぐった。
私は表情を引き締め、手元の書類を開いた。
……さて。
幸せな時間を守るためにも、片づけなければならない仕事がある。
◇ ◇ ◇
「……ルシアン」
執務室に入るなり、アレクシスが声をかけてきた。
「何だ」
「お前、今日は随分と機嫌がいいな」
「そうか?」
「ああ。朝から三人分くらい仕事を片づけそうな顔をしている」
私は、持っていた書類を机に置いた。
「……早く帰りたいからな」
「…………」
アレクシスが、目を瞬かせた。
「……帰りたい?」
「ああ。リリスが待っている」
「…………」
今度は、完全に黙り込んだ。
……何だ、その顔は。
「……おい、ルシアン」
「何だ」
「……アマリリス嬢は、別邸にいるんじゃなかったのか?」
「ああ。昨日、屋敷に戻ってきた」
「……昨日!?」
アレクシスが、思わず声を上げた。
「お前、昨日は午後から会いに行ったんだよな?」
「そうだ」
「……それで、もう帰ってきたのか?」
「彼女が望んでくれた」
アレクシスは、しばらく私を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……そうか。それは、よかったな」
「……ああ」
私は、静かに頷いた。
「……本当に」
すると、アレクシスが腕を組んだ。
「しかし、お前が早く帰りたいと言う日が来るとはな」
「……そんなに珍しいか?」
「珍しいどころじゃない。昔のお前なら、仕事が片づくまで平気で残っていただろう」
「今も、必要な仕事は片づける」
「わかってる。だから、三人分働きそうだと言ったんだ」
アレクシスは、呆れたように笑った。
「……お前、本当に変わったな」
「……そうかもしれないな」
私は、否定しなかった。
以前の私には、仕事を終えて帰ることを、これほど楽しみに思う理由がなかったのだから。
「……それより、例の報告は?」
その一言で、アレクシスの表情が変わった。
「ああ。ちょうどお前に見せようと思っていた」
差し出された書類を受け取る。
そこには、襲撃事件の前後に変更された、王宮の立ち入り許可に関する記録がまとめられていた。
「……この記録か」
「ああ。襲撃の前日に、立ち入り許可の内容が変更されている」
私は、書類に目を通した。
変更の対象となっていたのは、普段は関係者以外の立ち入りが制限される通路だった。
「……変更を承認した者の名前がないな」
「そうなんだ。通常なら、必ず担当者と承認者の記録が残る」
「……ハインツが変更に関わった可能性は?」
「もちろんある。だが、変更された時間帯の記録にも不自然な欠落がある」
私は、眉をひそめた。
「……誰かが記録を消したか、最初から残さないようにしたか」
「まだ断定はできない。ただ、気になるのはそこだけじゃない」
アレクシスが、別の書類を差し出した。
それは、襲撃当日の警備配置を示すものだった。
私は、二つの書類を見比べた。
「……なるほど」
「気づいたか?」
「ああ」
変更された通路は、襲撃犯が移動したと考えられている経路の近くにあった。
もし、この変更が意図的なものだったとしたら。
「……誰かが、襲撃犯の動きやすい状況を作った可能性がある」
「俺もそう考えている」
アレクシスの声が、低くなる。
「ただし、今ある記録だけでは、ハインツ以外の誰かが関与したとは言い切れない」
「……ああ。まずは、変更の経緯を調べる必要があるな」
私は、書類を閉じた。
「当日の担当者と、記録を扱えた者を確認しよう。ハインツの供述とも照合したい」
「わかった。こちらでも手配する」
アレクシスが頷く。
事件の実行犯は捕まった。
ハインツも逮捕された。
だが、誰が何のために襲撃を企てたのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
私は窓の外へ目を向けた。
朝、玄関で微笑んでいたリリスの顔が浮かぶ。
『お帰りを、お待ちしています』
……必ず、帰る。
あの笑顔が待つ場所へ。
そして、もう二度と。
彼女が安心して帰れる場所を、失わせはしない。




