甘すぎる朝
――アマリリス視点。
目を覚ました瞬間、見慣れた天蓋が目に入った。柔らかな朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。
……ああ。そうだった。
私は昨日、ルシアン様のお屋敷に帰ってきたのだ。
そっと上体を起こすと、寝台の傍らに置いた小箱が目に入った。中には、あの紫色のブローチが収められている。
昨日、ルシアン様がもう一度贈ってくださったもの。
『……愛する女性への贈り物として、受け取っていただけますか?』
思い出すだけで、胸が温かくなる。
そして、そのあと。
『……ずっと、こうして迎えたかったんです』
頬に触れた、柔らかな唇の感触。
「…………っ!」
私は思わず、両手で頬を覆った。
……昨日、キスをされた。
ルシアン様に。
頬に。
「……どうしましょう……」
誰もいない部屋で呟いてみても、答えは返ってこない。ただ、鏡を見るまでもなく、自分の顔が赤くなっていることだけはわかった。
◇ ◇ ◇
身支度を整え、朝食の席へ向かう。
昨日、ルシアン様と約束したのだ。
『……では、明日の朝食から、ご一緒してください』
その言葉を思い出して、自然と足取りが軽くなる。
食堂の扉の前で一度深呼吸をすると、使用人が静かに扉を開けてくれた。
「おはようございます、リリス」
窓辺に立っていたルシアン様が、こちらを振り返る。朝の光を受けた銀灰色の髪が、柔らかく輝いていた。
「……おはようございます、ルシアン様」
「よく眠れましたか?」
「はい。とても」
「それはよかった」
ルシアン様は私のそばまで歩み寄ると、そっと手を差し出された。
「……お席まで、ご案内しても?」
「……はい」
その手に指を重ねる。ただ、それだけのことなのに、心臓が小さく跳ねた。
椅子の前まで来ると、ルシアン様は私が腰を下ろすのを待ってから、ご自身の席へ向かわれた。
……と思ったのだけれど。
なぜか、いつもの向かい側ではなく、私の隣の椅子を引かれた。
「……ルシアン様?」
「はい?」
「……そちらに、お座りになるのですか?」
「ええ」
何でもないことのように答えられる。
「……あなたの隣がいいので」
「…………!」
……朝から。
朝から、そんなことを。
ルシアン様は私の顔を見て、少しだけ口元を緩められた。
「……お嫌ですか?」
「い、嫌ではありません!」
「それなら、よかった」
穏やかに微笑まれる。
……絶対に、わかっていらっしゃる。
私がどれほどドキドキしているか。
けれど、隣に座ってくださることが嬉しいのも、本当だった。
私はそっとルシアン様を見上げる。
「……私も、ルシアン様のお隣が好きです」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
……ああ、もう!
どうして、こんなことを口にしてしまったのだろう。
けれど、ルシアン様はすぐには答えられなかった。
「……ルシアン様?」
呼びかけると、ようやくこちらを向かれる。
「……それは、困りましたね」
「……え?」
「朝食の前から、こんなに幸せになってしまっては」
そうおっしゃるルシアン様の耳が、ほんの少し赤い。
……あ。
私の言葉でも、ルシアン様を照れさせることができるんだ。
そう気づいた瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。
◇ ◇ ◇
朝食が運ばれてくると、ルシアン様は何気ない様子で私に声をかけてくださった。
「リリス。紅茶は、いつものものでよろしいですか?」
「……はい」
「蜂蜜も?」
「……覚えていてくださったんですね」
「もちろんです」
ルシアン様は、少し不思議そうに首を傾げられた。
「あなたのお好きなものですから」
……ああ、もう。
こういうところが、ずるいのだ。
三年間、ずっと憧れていた方が、私の好きなものを覚えていてくださる。
以前なら、それだけで何日も幸せな気持ちになれた。
今は、その方が私の隣に座っている。
しかも。
「……リリス」
「はい?」
「昨日のブローチは、今日はおつけにならないのですか?」
「あ……」
私は思わず、自分の胸元を見下ろした。
「今日は、少し飾りのあるドレスでしたので……」
「なるほど」
ルシアン様は、すぐに頷かれた。
「では、また似合う装いの日に」
「……はい」
少し考えてから、私は付け加えた。
「……でも、今日はお部屋で何度も眺めてしまいました」
ルシアン様の手が、ぴたりと止まった。
「……何度も?」
「はい。嬉しくて……」
そこまで言って、はっとする。
……私、また余計なことを!
慌てて顔を上げると、ルシアン様が片手で口元を覆っていらした。
「……ルシアン様?」
「……いえ」
少しだけ視線を逸らされる。
「……朝から、随分と幸せな気持ちにさせていただきました」
その言葉に、私も思わず微笑んでしまった。
「……私もです」
ルシアン様が、ゆっくりとこちらを向かれる。
目が合うと、どちらからともなく笑みがこぼれた。
……こんな朝を、これから何度も迎えられるのだろうか。
そう思うだけで、胸がいっぱいになった。
◇ ◇ ◇
食事を終える頃、ルシアン様が静かに口を開かれた。
「……リリス。今日は、王宮へ行かなければなりません」
「……お仕事、ですか?」
「ええ。少し確認したいことがありまして」
その声が、先ほどまでとは少し違っていた。穏やかだけれど、どこか引き締まっている。
私は、そっと姿勢を正した。
「……事件のこと、でしょうか」
ルシアン様は、一瞬だけ目を細められた。
「……ええ」
王宮で起きた襲撃事件。
実行犯と、それに協力していた人物は捕まった。けれど、すべてが解決したわけではない。
「……何か、わかったのですか?」
「新しい報告が入りました。ただ、まだ確認が必要な段階です」
私は、思わず手を握りしめた。
「……そう、なのですね」
「ええ。詳しい内容は、調査が進んでからお話しします」
ルシアン様は、私の表情を確かめるように見つめられた。
「……不安にさせてしまいましたか?」
「……少しだけ」
正直に答える。
以前なら、きっと「大丈夫です」と笑っていた。
でも、もう一人で抱え込まないと約束したから。
「……けれど、知りたいです。私にも関わることですから」
ルシアン様は、真剣な表情で頷かれた。
「もちろんです。あなたの安全に関わることは、きちんとお伝えします」
そして、そっと私の手に触れられた。
「現時点で、屋敷に新たな危険が迫っているという情報はありません。ただ、事件の全容がわかるまでは警護を続けます」
「……はい」
「外出についても、これまでどおり護衛をつけてください。必要な手配は、私がいたします」
私は、静かに頷いた。
……事件は、まだ終わっていない。
けれど、今は一人ではない。
「……ルシアン様」
「はい」
「……私にも、何かできることはありますか?」
ルシアン様は、少し驚いたように私を見つめられた。
「……あなたは、十分頑張ってくださいましたよ」
「でも……」
「リリス」
優しく名前を呼ばれる。
「まずは、安心して過ごしてください。それが、今の私には何より嬉しいことです」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
けれど、私はもうひとつ伝えたかった。
「……ルシアン様も、ですよ?」
「……私も?」
「はい。私に何でも話してほしいとおっしゃるのなら、ルシアン様も一人で抱え込まないでください」
ルシアン様が、少し驚いたように目を見開かれた。
「……私も、お力になりたいんです」
しばらくの沈黙。
そして、ルシアン様がふっと微笑まれた。
「……ありがとうございます、リリス」
その声が、とても優しかった。
「……では、疲れて帰ってきた日は、少し甘えてもよろしいですか?」
「……え?」
「あなたの顔を見ると、疲れが和らぐので」
……ま、また!
けれど、今度は俯かずに答えたかった。
「……はい。もちろんです」
ルシアン様が、嬉しそうに微笑まれる。
「……では、楽しみにしています」
その笑顔を見ていると、私まで嬉しくなってしまう。
……私も、ルシアン様にとって安心できる場所になれたらいいな。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、ルシアン様を玄関までお見送りすることになった。
外では、すでに馬車の準備が整っている。
「……では、行ってまいります」
「……はい。お気をつけて」
ルシアン様は、私を見つめたまま、なぜか動かれなかった。
「……ルシアン様?」
「……ひとつ、お願いしてもよろしいですか?」
「……はい?」
少しだけ身を屈められる。
「……帰ってきたときも、こうして迎えていただけますか?」
……そんなこと。
お願いされなくても。
「……もちろんです」
私は、思わず笑ってしまった。
「お帰りを、お待ちしています」
ルシアン様の灰緑色の瞳が、柔らかく細められた。
「……それは、帰る楽しみが増えましたね」
そうおっしゃって、私の頬にそっと手を添えられる。
……え?
まさか。
昨日と同じように、ルシアン様が少し顔を近づけられた。
「……リリス」
「……は、はい」
「……行ってきます」
そして。
額に、ふわりと温かな感触が落ちた。
「…………っ!」
……お、おでこ……!
ルシアン様は、何事もなかったように微笑まれた。
「……では、また夕方に」
そのまま馬車へ向かわれようとする背中を見て、私は慌てて声をかけた。
「……ルシアン様!」
振り返ったルシアン様が、不思議そうに首を傾げられる。
「はい?」
私は、胸の前でぎゅっと手を握った。
……昨日までなら、きっと恥ずかしくて言えなかった。
でも、今は。
「……夕方も、こうしてお迎えしていいですか?」
ルシアン様が、一瞬だけ目を見開かれた。
そして、とても嬉しそうに微笑まれる。
「……もちろんです」
その笑顔を見て、私も自然と笑っていた。
「……では、お待ちしています」
ルシアン様は、名残惜しそうに私を見つめてから、馬車へと向かわれた。
私は、その背中が見えなくなるまで見送った。
……昨日は、頬。
今日は、おでこ。
……これが、毎日……?
そっと額に手を当てる。
……やっぱり。
心臓がもつ自信は、まだない。
けれど。
明日も、その次の日も。
こんな朝を迎えられたら、どんなに幸せだろう。




