あなたのいる場所へ帰りたい
――アマリリス視点。
朝、目が覚めて最初に思い浮かんだのは、昨日のルシアン様の笑顔だった。
『……少しだけ、甘えてもいいですか?』
昨日、勇気を出してそう尋ねた私を、ルシアン様は優しく受け止めてくださった。
『私に甘えてくださったからです』
そんなふうにお礼まで言われてしまって、思い出すだけで頬が熱くなる。
「…………っ」
私は枕に顔を埋めた。
……だめ。
朝から、心臓がもちそうにない。
つい数日前まで、私はもう二度とルシアン様のお隣には戻れないと思っていた。それなのに今は、今日も会えると約束している。
窓辺には、昨日いただいた花束が飾られていた。淡い紫色の花々を眺めていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
……帰りたい。
ふと、そんな思いが浮かんだ。
ベルフォード家の屋敷ではない。今、身を寄せているこの別邸でもない。
ルシアン様と過ごした、あのお屋敷へ。
初めて一緒にお茶を飲んだ部屋。並んで歩いた庭。何気ない会話を交わした食卓。
思い返せば、あの場所にはルシアン様との思い出がたくさんあった。
あの頃の私は、いつか終わる時間だと思っていた。だから、幸せを感じるたびに、同じくらい寂しかった。
でも、今は違う。
もう、終わりを待たなくてもいいのだ。
「……ルシアン様」
小さく名前を呼ぶ。
……今日、お伝えしてみよう。
私は、胸の前でそっと手を握った。
◇ ◇ ◇
午後。
ルシアン様は、約束どおり別邸を訪ねてくださった。
「リリス」
私を見つけると、柔らかく微笑まれる。
「今日も、お会いできて嬉しいです」
「……私もです」
そう答えただけで、ルシアン様の目元が嬉しそうに和らいだ。以前よりも、ずっと近くに感じる。
「昨日のお花、とても綺麗に咲いているんです」
「それはよかった。あなたに似合うと思って選びましたから」
「……ありがとうございます」
「ですが、花を選ぶのに随分悩みました」
「ルシアン様が?」
「ええ。あなたが喜ぶ顔を想像すると、どれも捨てがたくて」
「…………」
……また、そんなことをさらりと。
私が俯くと、ルシアン様は少し楽しそうに笑った。
「……リリス?」
「……最近、ルシアン様がずるいです」
「それは困りましたね」
そうおっしゃる声が、ちっとも困っていない。
……本当に、ずるい。
けれど、今日は私も伝えたいことがある。
「……あの、ルシアン様」
「はい」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
ルシアン様の表情が、すっと真剣になった。
「もちろんです」
私たちは、庭に面した小さな応接室へ移った。
◇ ◇ ◇
向かい合って腰を下ろすと、急に緊張してきた。ルシアン様は、急かすことなく私の言葉を待ってくださっている。
私は膝の上で両手を重ねた。
「……この別邸で過ごした時間は、私にとって必要なものでした」
「……はい」
「一人で考えて、気持ちを整理して……自分が本当はどうしたいのか、ようやくわかったんです」
ルシアン様は、静かに頷かれた。
「……私は」
声が、少し震える。けれど、今度は逃げたくなかった。
「ルシアン様のお屋敷に、帰りたいです」
その瞬間、ルシアン様がぴたりと動きを止めた。
「…………」
「……ルシアン様?」
「……今、何と?」
「……お屋敷に、帰りたいと……」
「……私の屋敷に?」
「……はい」
ルシアン様は、ゆっくりと息を吸われた。そして、なぜか一度目を閉じられた。
「……リリス」
「はい」
「……本当によろしいのですか?」
「もちろんです」
私は、まっすぐにその瞳を見つめた。
「私、もう一度、ルシアン様のお隣で暮らしたいんです」
ルシアン様の灰緑色の瞳が、大きく揺れた。
「……婚約者としてのお役目ではなく」
「はい」
「……私自身が、そうしたいと思ったんです」
しばらく、沈黙が続いた。
……何か、おかしなことを言ってしまっただろうか。
そう思いかけたとき、ルシアン様が片手で口元を覆われた。
「……少々、お待ちください」
「……え?」
「……今、非常に喜んでいます」
「…………!」
思わず、目を瞬かせる。
ルシアン様は、困ったように笑われた。
「……実は、昨日からずっと考えていました」
「……何を、ですか?」
「あなたを、屋敷へ連れて帰りたいと」
「……!」
「ですが、あなたの気持ちを急かしたくなかった。ですから、あなたが望んでくださるまで待つつもりでした」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
……この方は。
どこまで、私を大切にしてくださるのだろう。
「……ルシアン様」
「はい」
「……私も、昨日から考えていました」
「……そうだったのですか?」
「はい。もう、お別れするたびに寂しい思いをしたくなくて……」
そこまで言って、急に恥ずかしくなった。けれど、ルシアン様は優しく微笑まれた。
「……私もです」
そして、そっと手を差し出される。
「……では、一緒に帰りましょう。リリス」
「……はい!」
私は、その手を取った。
もう、迷わなかった。
◇ ◇ ◇
それからのルシアン様は、驚くほど手際がよかった。
まず、ベルフォード家へ連絡を入れ、私の希望を伝えてくださった。
正式な婚約者として、再びヴァレンティス家の屋敷に滞在すること。もちろん、以前と同じように部屋は別で、婚礼までの間も節度を守って過ごすこと。
ルシアン様は、私の意思を何より大切にしたうえで、両家に了承を求めてくださった。
父からは、私の希望を尊重するという返事が届いた。ヴァレンティス家からも、婚約者として迎えることに異論はないとのことだった。
クラリスの親族にも、別邸を使わせていただいたお礼を伝えた。警護についても、ルシアン様はベルフォード家と相談しながら、移動中と屋敷到着後の配置を整えてくださった。
「……ルシアン様」
「はい?」
「……とても、お早いですね」
「そうでしょうか」
ルシアン様は、何事もなかったかのように書類を確認している。
「必要な手配ですから」
「……でも、まだそれほど時間が経っていません」
すると、ルシアン様は一瞬だけ手を止めた。
「……実は」
「はい?」
「あなたが帰りたいと言ってくださったときのために、ある程度は準備を考えていました」
「……え?」
「もちろん、決めるのはあなたです。今日でなくても、何日先でも構わないと思っていました」
そこで、少しだけ視線を逸らされる。
「……ただ、もし今日だとおっしゃったら、すぐに迎えられるようにと」
「…………」
……もう。
本当に、この方は。
「……ルシアン様」
「はい」
「……そんなに、私と一緒にいたかったのですか?」
言ってから、自分で驚いた。
……私、何を聞いているの!?
けれど、ルシアン様は少しも迷われなかった。
「ええ」
そして、まっすぐに私を見つめられる。
「……ずっと、一緒にいたかったです」
「…………っ!」
今度は、私が顔を覆う番だった。
ルシアン様の、小さな笑い声が聞こえた。
……最近、絶対に楽しんでいらっしゃる。
◇ ◇ ◇
夕方。
荷物をまとめ、私は別邸を後にした。世話をしてくださった方々にお礼を伝え、迎えの馬車に乗り込む。
隣には、ルシアン様がいらっしゃる。
「……お疲れではありませんか?」
「大丈夫です」
「何かあれば、すぐにおっしゃってください」
「……はい」
馬車が静かに走り出した。窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。
私は、隣に座るルシアン様を見上げた。
「……ルシアン様」
「はい?」
「……手を、繋いでもよろしいですか?」
ルシアン様は、柔らかく微笑まれた。
「……もちろんです」
差し出された手に、そっと指を重ねる。すると、その指が優しく絡められた。
「……リリス」
「はい」
「これからは、遠慮しなくていいんですよ」
「……え?」
「手を繋ぎたいときも、甘えたいときも。あなたが望むことを、私に教えてください」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ルシアン様も、ですよ?」
「……私も?」
「はい。私ばかりでは、不公平です」
ルシアン様は、少し驚いたように私を見つめた。それから、嬉しそうに笑われた。
「……では、ひとつ」
「……はい?」
繋いだ手を、そっと引き寄せられる。
「……もう少し、こちらへ」
私は、頬を熱くしながら、少しだけ身を寄せた。すると、ルシアン様の腕が優しく肩に回る。
「……こうしていたかったんです」
「……ルシアン様……」
私は、そっとその肩に寄りかかった。
窓の外では、夕暮れの空が淡い茜色に染まっている。
……幸せ。
こんなふうに、ただ寄り添っているだけで、胸がいっぱいになるほど幸せだった。




