甘い約束
午後。
予定していた仕事を終え、私は再び別邸へ向かった。
ベルフォード伯爵家を通じて訪問の確認を済ませ、警護の配置にも変更がないことを確かめてある。
馬車の中には、小さな花束が置かれていた。淡い紫色の花を中心に、白い小花を添えたものだ。
リリスが喜んでくれるだろうか。
……いや。
花束など、迷惑ではないだろうか。
昨日、あれほど好きだと伝えたばかりなのに、今日は花まで持っていく。少々、浮かれすぎではないか。
私は花束を見つめた。
……今さら、持って帰るわけにもいかない。
そもそも、彼女に喜んでほしくて選んだものだ。それなら、堂々と渡せばいい。
そう結論づけたところで、馬車が別邸に到着した。
……王宮の案件なら、もっと早く判断できるのだが。
◇ ◇ ◇
玄関へ向かうと、扉の前にリリスが立っていた。
淡い色のドレスに身を包み、こちらを見つめている。
私に気づいた瞬間、その表情がぱっと明るくなった。
「ルシアン様!」
……ああ。
会いたかった。
昨日別れたばかりだというのに、もうこんなにも嬉しい。
「……リリス」
私は、彼女の前で足を止めた。
「お待たせしました」
「いいえ。私も、今来たところです」
そう言って微笑む彼女の頬が、少し赤い。
……可愛い。
本当に、可愛い。
「……あの、ルシアン様?」
「……はい」
「何か、ございましたか?」
私は、少しだけ微笑んだ。
「あなたに会えて、嬉しくて」
リリスの頬が、さらに赤くなる。
「……私も、です」
……どうやら、今日も平静ではいられそうにない。
◇ ◇ ◇
「こちらを、あなたに」
私は、持ってきた花束を差し出した。
リリスが、目を丸くする。
「……お花?」
「ええ。あなたに似合うと思いまして」
彼女は、そっと花束を受け取った。
「……綺麗」
その声が、あまりにも嬉しそうで、私はほっと息をついた。
「お気に召しましたか?」
「もちろんです!」
リリスは花束を胸に抱き、幸せそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
……よかった。
本当に、持ってきてよかった。
「……ルシアン様」
「はい?」
「私も、何かお返しがしたいです」
「……お返し?」
「はい。いつも、いただいてばかりですから」
私は首を振った。
「そんなことはありません。あなたからは、もう十分すぎるほどいただいています」
「……え?」
「昨日、愛していると言っていただきました」
リリスが、ぴたりと固まった。
「……そ、それは……!」
「私にとっては、何より嬉しい贈り物でした」
彼女は、真っ赤になって俯いた。
「……ルシアン様は、ずるいです」
「……ずるい?」
「そんなことを、真顔でおっしゃるんですもの……」
私は、少しだけ笑った。
「では、もう少し照れた方がよろしいでしょうか」
「そ、そういうことではありません!」
彼女が慌てる。
その姿が愛おしくて、思わず笑みがこぼれた。
◇ ◇ ◇
花束を部屋に飾ってもらったあと、私たちは庭へ出た。
昨日と同じ小道を、ゆっくりと歩く。
以前なら、彼女に触れるだけでも理由を探していた。
婚約者だから。足元が危ないから。人目があるから。
……そんな言い訳ばかりしていた。
けれど、今は違う。
私は、そっと手を差し出した。
「……リリス。手を繋ぎませんか」
彼女は少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
「……はい」
小さな手が、私の手に重なる。その温もりを確かめながら、私はゆっくり歩き始めた。
「……今日は、エレオノーラ殿下にもお会いしました」
「エレオノーラ様に?」
「ええ。私たちのことを、ご報告しました」
リリスが、少し緊張したようにこちらを見る。
「……何と、おっしゃっていましたか?」
「とても喜んでいらっしゃいました」
彼女の表情が、柔らかくなる。
「……そうですか」
「それから、落ち着いたら会いに来てほしいと」
「……はい。私も、お会いしたいです」
リリスは、懐かしそうに微笑んだ。
「きっと、たくさん心配をかけてしまいましたから」
「殿下は、あなたの幸せを何より願っていらっしゃいます」
「……はい」
私は、彼女の手をそっと握り直した。
「もちろん、私もです」
リリスが、こちらを見上げる。
「……ルシアン様」
「はい」
「私……今、とても幸せです」
その言葉に、胸が温かくなった。
「……私もです」
しばらく、二人で静かに歩いた。
風が吹くたび、彼女の髪が柔らかく揺れる。その横顔を眺めていると、ふいにリリスが足を止めた。
「……あの、ルシアン様」
「はい?」
彼女は、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……ひとつ、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「その……」
リリスの頬が、みるみる赤くなる。
私は、彼女が言葉を探すのを静かに待った。
「……少しだけ、甘えてもいいですか?」
思いがけない言葉に、胸が高鳴った。
「……もちろんです。どうなさりたいのですか?」
リリスは少しためらってから、繋いでいた手をそっと離した。
そして、私の腕に両手を添えると、恥ずかしそうに身を寄せた。
「……こうして、一緒に歩きたかったんです」
私は思わず足を止めた。
「……リリス」
「ずっと、憧れていました。好きな人と、こんなふうに歩くことに」
……好きな人。
その言葉が、胸の奥に甘く響いた。
彼女は、私の腕にそっと頬を寄せた。
「でも、以前は……そんなことをお願いする勇気もなくて」
私は、彼女の手に自分の手を重ねた。
「……これからは、何でもおっしゃってください」
「何でも、ですか?」
「ええ。私にできることなら、何でも」
リリスが、くすりと笑う。
「では……もう少し、このまま歩いてもいいですか?」
……そんなことを、遠慮がちに尋ねるなんて。
「もちろんです。私の方こそ、お願いしたいくらいです」
彼女が顔を上げた。
「……ルシアン様も?」
「ええ。あなたと腕を組んで歩ける日が来るとは、思っていませんでしたから」
リリスは嬉しそうに微笑み、もう一度、私の腕に身を寄せた。
……ああ。
どうして、この人はこんなにも愛おしいのだろう。
しばらく歩いていると、リリスが小さな声で呟いた。
「……ルシアン様」
「はい?」
「昨日から、ずっと考えていたんです」
「何を、ですか?」
彼女は少し迷ったあと、私を見上げた。
「……今度は、私もちゃんと、気持ちを伝えたいなって」
胸が、静かに熱くなる。
「もう、誤解して離れてしまうようなことは、したくありません」
私は、足を止めて彼女に向き直った。
「……私もです」
その手を取り、両手で包む。
「不安なことがあれば、どうか私に話してください。私も、あなたに隠さず伝えます」
「……はい」
リリスは、ほっとしたように微笑んだ。
「それなら、もうひとつだけ……お願いしてもいいですか?」
「もちろんです」
彼女は、ほんの少し背伸びをするように私へ近づいた。
そして、私の胸元にそっと額を寄せた。
「……少しだけ、このままでいてください」
…………。
私は、息を止めた。
抱きしめてほしいとは言わず、ただ私に身を預けてくる。
その小さな勇気が、たまらなく愛おしかった。
「……リリス」
そっと腕を回すと、彼女も私の背中に手を添えた。
昨日のように、別れを惜しんで抱きしめるのとは違う。
今はただ、好きな人に甘えたいと思ってくれた。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとうございます」
思わずそう囁くと、彼女が顔を上げた。
「……どうして、お礼を?」
「私に甘えてくださったからです」
リリスは目を丸くし、それから恥ずかしそうに笑った。
「……そんなことで、お礼を言われるなんて」
「私にとっては、大切なことです」
彼女は少し考えるように視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「……では、これからは、もっと甘えてしまうかもしれません」
「……それは、困りましたね」
リリスの表情が、わずかに曇る。
「……ご迷惑、でしょうか?」
私は慌てて首を振った。
「いいえ。嬉しすぎて、仕事に集中できなくなりそうです」
一瞬の沈黙。
そして、リリスが声を上げて笑った。
「ふふっ……ルシアン様ったら!」
……ああ。
この笑顔を、ずっと見ていたい。
私は、彼女の髪をそっと撫でた。
「……愛しています、リリス」
「……私も、愛しています」
昨日までは、夢のように思えた言葉。
けれど、今はこうして、確かに二人の間にある。
私は、その幸せを静かに噛みしめた。
◇ ◇ ◇
やがて、庭に夕暮れの光が差し始めた。
屋敷へ戻る道すがら、リリスはまだ私の腕に手を添えていた。
……できることなら、今日もこのまま一緒に帰りたい。
朝、目を覚ましたときも、食事のときも、夜に眠る前も。
彼女が隣にいてくれたら、どれほど幸せだろう。
けれど、急がせたくはない。
ようやく取り戻した彼女の笑顔を、私のわがままで曇らせたくなかった。
玄関先で足を止めると、リリスが名残惜しそうに私の腕から手を離した。
「……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。とても幸せな時間でした」
彼女は微笑み、それから少しだけ視線を落とした。
「……あの、ルシアン様」
「はい?」
「また……一緒に、お散歩していただけますか?」
私は、思わず笑みをこぼした。
「もちろんです。何度でも」
リリスの顔が、ぱっと明るくなる。
「……嬉しいです」
私は、その手を取り、そっと指先に口づけた。
「……また、お会いしましょう。リリス」
「……はい。楽しみにしています」
馬車に乗り込む直前、振り返る。
彼女はまだ、そこに立っていた。私を見つめて、微笑んでいる。
以前の私は、彼女に触れる理由を探していた。
そして彼女も、私に甘えることを遠慮していたのだろう。
けれど、今日。
リリスは、自分から私の腕を取ってくれた。
『……こうして、一緒に歩きたかったんです』
あの言葉を思い出すだけで、胸が温かくなる。
……本当は、今すぐにでも連れて帰りたい。
けれど、次に彼女が私の屋敷へ戻るときは、誰かに言われたからでも、婚約者としての役目だからでもなく。
彼女自身が、帰りたいと思ってくれたときがいい。
その日が来たなら、私はきっと、誰よりも幸せな男になるだろう。
私は、馬車の窓から遠ざかる別邸を見つめた。
いつか、あの人と同じ家に帰る日を夢見ながら。




