もう、遠慮はしません
――ルシアン視点。
「……私も、愛しています。ルシアン様」
その言葉を聞いてから、私はしばらく動けなかった。目の前には、頬を赤く染めたリリスがいる。私の手を握り、少し恥ずかしそうに微笑んでいる。
……夢ではない。そう分かっているのに、何度も確かめたくなった。
「……リリス」
「はい?」
「もう一度、言っていただけませんか」
彼女が、ぱちりと瞬きをした。
「……何を、でしょうか?」
「先ほどの言葉を」
「……先ほど?」
「私を、愛していると」
言ってから、自分でも驚いた。
何を言わせようとしているんだ、私は。
リリスの頬が、みるみる赤くなっていく。
「そ、それは……!」
「……申し訳ありません。今のは忘れてください」
慌てて言い直すと、彼女は小さく笑った。
「ふふっ」
……笑った。私を見て、笑ってくれた。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。
「……愛しています」
不意に、彼女が囁いた。
「ルシアン様のことが、大好きです」
…………。
まずい。
これは、非常にまずい。
「……ルシアン様?」
「……少々、お待ちください」
「え?」
私は、空いている手で口元を覆った。顔が熱い。
王宮でどれほど難しい報告を受けても、ここまで動揺したことはない。
ずっと聞きたかった言葉だ。それを、こんなにも無防備に告げられるなんて。
「……リリス」
「はい」
「私は今、とても幸せです」
彼女は一瞬驚いたあと、花が咲くように微笑んだ。
「……私もです」
ああ、もう本当に。
どうしたらいいんだ。
◇ ◇ ◇
名残惜しく思いながらも、私は彼女の手をそっと離した。
それから、別邸の庭に置かれた小さなテーブルへ、二人で移動する。リリスが椅子に腰かけるのを待ってから、私も向かいに座った。
本当は、隣に座りたかった。
……いや、待て。
今までだって婚約者だったのだから、隣に座ること自体はおかしくないはずだ。
しかし、先ほど想いを伝え合ったばかりだ。急に距離を詰めれば、驚かせてしまうかもしれない。
「……ルシアン様?」
「はい」
「何か、考え事ですか?」
「……少し」
「お仕事のことですか?」
「いいえ」
私は正直に答えた。
「あなたの隣に座ってもよいものかと」
「…………え?」
リリスが固まった。
……しまった。なぜ口に出した。
「いえ、その……以前は何も考えずに隣に座っていたのですが、今は少々、事情が違うと申しますか」
「……事情?」
「あなたが、私を愛してくださっていると分かったので」
リリスは、耳まで真っ赤になった。
「ル、ルシアン様……!」
「……どうやら、あなたの前では冷静でいられないようです」
そう告げると、彼女はさらに頬を染めた。
「……あの」
「はい」
「私も……お隣の方が、嬉しいです」
…………。
私は静かに立ち上がり、彼女の隣の椅子へ移動した。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。お礼を言うことではありませんよ?」
「私にとっては、大変重要なことです」
リリスが、また笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
遠くから眺めるだけで幸せだった人が、今はこんなにも近くにいる。そして、私の隣にいたいと言ってくれる。
……これ以上、何を望むというのだろう。
そう思った直後、私は彼女の手に触れたくなった。
……いや。
望むことは、まだいくらでもあるらしい。
◇ ◇ ◇
「リリス」
「はい?」
「ひとつ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「……手を、繋いでもよろしいですか」
リリスは目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「ルシアン様ったら」
「……はい」
「今までだって、繋いでくださったではありませんか」
「それは、そうなのですが」
私は、少し視線を落とした。
「以前のあなたは、私との婚約を仮のものだと思っていたのでしょう?」
「……はい」
「ですから、あの頃の私の行動を、あなたがどう受け止めていたのか分からなくて」
彼女の表情が、ふっと柔らかくなった。
「……嬉しかったです」
「……え?」
「手を繋いでいただくたびに、嬉しくて。でも、期待してはいけないと思っていました」
胸が締めつけられた。
あのとき、彼女はそんな気持ちでいたのか。
「……もう、我慢しないでください」
気づけば、そう告げていた。
「嬉しいときは、嬉しいと。寂しいときは、寂しいと。私に伝えてほしいのです」
リリスが、静かに頷く。
「……はい」
「私も、そうします」
私は、彼女の瞳を見つめた。
「あなたに会いたいときは、会いたいと伝えます」
リリスの頬が、ほんのり赤くなる。
「……私も、です」
私は、彼女に手を差し出した。
「……リリス。手を繋ぎたいです」
彼女は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
「……はい。私も、繋ぎたいです」
小さな手が、私の手に重なる。指を絡めると、彼女が少しだけ身を寄せてきた。
……ああ。
こんなにも、幸せなのか。
「……ルシアン様」
「はい」
「少しだけ、恥ずかしいですね」
「……私もです」
そう答えると、彼女は驚いたようにこちらを見た。
「ルシアン様も?」
「ええ。あなたが思っている以上に」
「……ふふっ」
「笑わないでください」
「ご、ごめんなさい。でも……嬉しくて」
……それなら、仕方がない。
私は、繋いだ手をそっと握り直した。
◇ ◇ ◇
しばらくして、私はこれからの話を切り出した。
「リリス。これからのことですが」
「……はい」
「私は、あなたに屋敷へ戻ってきてほしいと思っています」
その言葉に、彼女が息を呑んだ。
「ですが、今日すぐにとは申しません。あなたが安心して戻れるよう、きちんと話し合いたいのです」
「……ルシアン様」
「事件についても、まだ調査が続いています。あなたの安全が確認できるまでは、今の警護を続けていただきたいと思っています」
リリスは、真剣な顔で頷いた。
「……はい。お父様たちも、そうおっしゃっていました」
「進展があれば、あなたにもお伝えします。ご家族とも相談しながら、これからのことを決めていきましょう」
「……はい」
私は、彼女の手を包み直した。
「それと、ひとつだけ、約束させてください」
「……何でしょう?」
「今度は、何も知らないまま、あなたを不安にさせたりしません」
リリスの瞳が、ゆっくりと潤んでいく。
「……ありがとうございます」
「それに」
私は、少しだけ笑った。
「あなたがいない屋敷は、どうにも落ち着きません」
「……え?」
「食事をしていても、向かいの席を見てしまいますし。紅茶を飲むときも、あなたのことを思い出します」
「……ルシアン様」
「庭を歩けば、あなたが好きそうな花を探してしまう」
言いながら、自分でも呆れた。
……私は、こんなにも彼女のことばかり考えていたのか。
リリスは、頬を赤らめながら俯いた。
「……そんなふうに、思ってくださっていたなんて」
私は、その横顔を見つめた。
「ずっと、そうでしたよ」
彼女が、はっと顔を上げる。
「ですから、もう遠慮はしません」
「……え?」
「あなたが好きだと、何度でも伝えます。会いたいときには会いたいと、触れたいときには触れたいと」
口にしてから、少し照れくさくなった。けれど、今さら取り消すつもりはない。
「……もちろん、あなたが許してくださるなら、ですが」
リリスの頬が、さらに赤くなる。
「……ルシアン様っ」
「困らせてしまいましたか?」
「……もう、十分困っています」
「……それは、申し訳ありません」
私が真剣に謝ると、彼女は声を上げて笑った。
「ふふっ……違うんです。嫌なわけではなくて……」
そして、少しだけ私の方へ身を寄せた。
「……幸せすぎて、困っているんです」
…………。
私は、思わず空を仰いだ。
「……ルシアン様?」
「……リリス」
「はい?」
「今の言葉は、少々反則です」
「……えっ?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
……どうやら、自覚がないらしい。
困った。本当に、困った。
この先、私はいったい何度、この人に心を奪われるのだろう。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車が用意されたと知らせが届いた頃には、日が傾き始めていた。
別邸の玄関まで見送りに来てくれたリリスは、少し寂しそうな顔をしていた。
「……もう、お帰りなのですね」
「……ええ」
本音を言えば、帰りたくない。今すぐ彼女を連れて帰りたい。
だが、それは私のわがままだ。
「お父上にも、きちんとご挨拶をしなければなりませんし。あなたのお気持ちを確かめずに、勝手に話を進めるわけにもいきません」
「……はい」
「また、会いに来てもよろしいですか?」
彼女は、嬉しそうに頷いた。
「もちろんです」
そして、少しためらったあと、私を見上げた。
「……あの、ルシアン様」
「はい」
「次にお会いできるのは、いつでしょうか?」
思わず、彼女を見つめた。
リリスが、私に会いたいと思ってくれている。
……それだけで、胸がいっぱいになった。
「明日は午後の予定を調整できます。……明日では、早すぎますか?」
彼女が目を丸くした。
「……明日?」
「ええ」
少し考えてから、付け加える。
「……本当は、今夜も会いたいくらいなのですが」
「ル、ルシアン様……!」
彼女が真っ赤になる。
……ああ、可愛い。
思わず笑みがこぼれた。
「……冗談です」
「……本当に?」
私は、少しだけ考えた。
「……半分ほどは」
「もう……!」
リリスが、恥ずかしそうに笑う。
その笑顔を、ずっと見ていたかった。
私は彼女の手を取り、そっと引き寄せた。
「……リリス。もう一度、抱きしめてもよろしいですか?」
彼女は驚いたように目を見開き、それから頬を染めて頷いた。
「……はい」
その返事を聞いて、私は彼女をそっと腕の中に迎えた。
柔らかな髪が頬に触れる。彼女の温もりが、胸の奥まで満ちていく。
「……また明日、リリス」
「……はい。お待ちしています」
そう言いながらも、私はすぐに腕をほどくことができなかった。
……困った。
明日また会えるというのに、もう離したくない。
「……ルシアン様?」
「……もう少しだけ、このままでいても?」
彼女は私の胸元に顔を寄せ、小さく笑った。
「……私も、そう思っていました」
ああ、まったく。
この人は、どこまで私を幸せにするつもりなのだろう。
しばらくして、名残惜しく腕をほどいた。
「……では、今度こそ。また明日」
「はい。お気をつけて」
馬車に乗り込む直前、振り返る。
彼女はまだ、そこに立っていた。私を見つめて、微笑んでいる。
ずっと、遠くから見つめていた人。
その人が今、私を待っていてくれる。
私は、胸の奥に広がる幸福を噛みしめながら、馬車に乗り込んだ。
……さて。
明日は、何を話そうか。どんな花を贈れば、喜んでくれるだろう。
そんなことを考えている自分に、思わず苦笑した。
どうやら私は、恋をすると、少々欲張りになるらしい。
けれど、長い間、想いを隠してきたのだ。
これからは、惜しまず伝えていこう。
彼女が、私の愛を疑うことなど、二度とないように。
――もう、遠慮はしない。




