三年間、ずっとあなたを
――アマリリス視点。
ルシアン様が、私に会いに来る。
お父様からそう聞いたとき、すぐには返事ができなかった。
『ルシアン殿は、婚約を一時的なものだとは考えていなかったそうだ』
その言葉が、何度も頭の中を巡っていた。
……どういうこと?
あの婚約は、エレオノーラ様を襲った事件から私を守るためのものだったはずだ。だから、危険が去れば終わるものだと思っていた。
いつかルシアン様が、本当に愛する方を見つけたときには、笑顔で身を引こうと決めていた。それなのに、あの方は最初から結婚するつもりだったという。
……本当に?
期待するのが怖かった。
ルシアン様は優しい方だ。私が屋敷を出たことに責任を感じて、そうおっしゃっているだけかもしれない。
もし期待して、また違っていたら。今度こそ、立ち直れないかもしれない。
それでも、会いたかった。
もう一度、あの灰緑色の瞳に見つめられたい。あの優しい声で、名前を呼んでほしい。
だから私は、お父様に返事をした。
『……自分の耳で、確かめたいです』
◇ ◇ ◇
約束の日。
私は朝から、何度も鏡の前に立っていた。
派手すぎないだろうか。それとも、少し地味すぎる?
……何を考えているの、私。別に、着飾る必要なんてない。
そう思いながらも、結局、淡い藤色のワンピースを選んでしまった。以前、ルシアン様が似合うと褒めてくださった色だったから。
「……本当に、未練がましいわね」
鏡の中の自分に、小さく呟く。
胸元に手を添えると、そこには何もなかった。
ルシアン様からいただいた、紫色のブローチ。あれは、屋敷に置いてきた。
大切にしたかった。けれど、持ってきてしまえば、きっと手放せなくなると思ったから。
……あの方は、見つけてくださっただろうか。
私は小さく首を振った。
今日は、ちゃんとお話しするの。逃げずに、確かめるのよ。
◇ ◇ ◇
午後。
私は別邸の庭に出た。
柔らかな風が、花壇の花々を揺らしている。ここへ来てから、何度この庭を歩いただろう。静かで穏やかな場所なのに、心が落ち着いた日は一度もなかった。
ふと、背後から足音が聞こえた。胸が、大きく跳ねる。
「……リリス」
聞き間違えるはずのない声。
私は、ゆっくりと振り向いた。
「……ルシアン、様?」
そこに、ずっと会いたかった人が立っていた。
銀灰色の髪が、午後の日差しを受けて淡く輝いている。いつもと同じ、整った姿。けれど、その表情は、私の知っているルシアン様とは少し違っていた。
どこか苦しそうで、それなのに私を見つめる瞳は、驚くほど優しかった。
「……お久しぶりです」
ようやく、それだけ口にした。
ルシアン様は、少しだけ眉を下げた。
「……ええ」
そして、ゆっくりと私に近づいてくる。
「リリス。会いたかったです」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
……会いたかった。私も、ずっと。
けれど、声にできなかった。
「……お元気でしたか?」
なんとか尋ねると、ルシアン様は困ったように微笑んだ。
「正直に申し上げると、あまり」
「……え?」
「あなたがいなくなってから、夜がずいぶん長く感じられるんです」
私は目を見開いた。
「そ、そんな……お身体に障ります」
思わず心配すると、ルシアン様は小さく笑った。
「……やはり、あなたは優しいですね」
その笑顔が、あまりにも懐かしくて、涙がこぼれそうになった。
◇ ◇ ◇
「リリス」
ルシアン様が、真剣な表情になった。
「まずは、謝らせてください」
「……謝る?」
「ええ。あなたに、婚約を一時的なものだと思わせてしまったことです」
私は、息を止めた。
「……本当に、違うのですか?」
震える声で尋ねる。
「私との婚約は……事件が落ち着くまでの、仮のものではなかったのですか?」
ルシアン様は、まっすぐに私を見つめた。
「違います」
迷いのない声だった。
「私は一度も、仮の婚約を申し込んだ覚えはありません」
……そんな。
「で、でも……私を守るためだと……」
「あなたを守りたかったのは、本当です。ですが、それだけではありません」
ルシアン様は、一度言葉を切った。
「私は、あなたと結婚したかったんです」
胸が、大きく鳴った。
「……え?」
「最初から、そのつもりでした」
私は、何も言えなかった。だって、そんなこと、考えたこともなかった。
「……どうして?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「どうして、私なのですか……?」
ルシアン様の瞳が、わずかに揺れた。
そして。
「……あなたを、愛しているからです」
世界から、音が消えた気がした。
目の前の人が、何をおっしゃったのか。分かるのに、分からなかった。
「……え?」
聞こえたはずなのに、理解できない。
ルシアン様が、私を?
そんなはず……。
「リリス」
彼は、静かに続けた。
「三年前から、ずっとあなたを愛していました」
……三年前?
私は、息を呑んだ。
私が、初めてルシアン様に恋をした頃。
「あなたがエレオノーラ殿下に仕えるようになってから、何度もお会いしましたね」
ルシアン様は、懐かしそうに目を細めた。
「あなたはいつも、誰かのために一生懸命でした。殿下のことを大切にして、周囲の人にも分け隔てなく接していた」
私は、黙って彼の言葉を聞いていた。
「最初は、素敵な方だと思っただけでした。ですが、気づけば、王宮であなたの姿を探すようになっていました」
彼は、少し照れたように笑った。
「あなたと話せた日は、それだけで嬉しかった。何気ない会話を、何度も思い返していました」
……そんな。私も、同じだった。
ルシアン様と交わしたほんの短い言葉を、夜になっても思い返していた。
たった一度、目が合っただけで嬉しくて。優しく微笑んでいただけた日は、その笑顔を何度も思い出していた。
……同じだったの?
あの三年間、私たちはずっと、同じ想いを抱えていたの?
「婚約を申し込んだときも、あなたが受け入れてくださったことが嬉しくて……その理由を、確かめようとしませんでした」
ルシアン様は、苦しそうに眉を寄せた。
「あなたが私の隣にいてくださる。それだけで、幸せだったんです」
私の頬を、涙が伝った。
「……ルシアン様」
「ですが、それでは駄目だった。あなたが何を思っていたのか、もっと早く聞くべきでした」
彼は、そっと頭を下げた。
「申し訳ありません、リリス。あなたを、ずっと不安にさせてしまいました」
私は、慌てて首を振った。
「ち、違います……! 私も、勝手に決めつけて……」
言葉が、続かなかった。涙が、止まらない。
ずっと、叶わないと思っていた恋だった。それなのに、あの方も、同じ気持ちでいてくださったなんて。
「……私も、です」
震える声で、ようやく告げた。
ルシアン様が顔を上げる。
「……リリス?」
私は、涙を拭いながら、彼を見つめた。
「私も……三年前から、ずっとお慕いしていました」
ルシアン様の瞳が、大きく見開かれた。
「初めてお会いしたときから、優しくて、素敵な方だと思って……お話しできるだけで、嬉しかったんです」
声が震える。それでも、もう止めたくなかった。
「婚約を申し込んでいただいたとき、本当は……夢のように嬉しかったんです」
私は、ぎゅっと手を握りしめた。
「でも、仮の婚約だと思っていたから……いつか終わるのだと、ずっと……」
涙で、視界が滲んだ。
「本当は、離れたくなかった……!」
その瞬間、ルシアン様が一歩近づいた。
「……私もです」
その声が、かすかに震えていた。
「あなたがいなくなって初めて、思い知りました。私がどれほど、あなたを愛しているのか」
彼は、まっすぐに私を見つめた。
「……リリス。抱きしめても、いいですか?」
ずっと、こうしてほしかった。
私は、涙を流したまま頷いた。
「……はい」
次の瞬間、温かな腕に包まれた。
強く、けれど、壊れ物を扱うように優しく。
私は、彼の胸に顔を埋めた。
……ああ。
この温もりを、知っている。
何度も夢に見た、あの方の腕の中。けれど、今度は夢じゃない。
「……会いたかったです」
耳元で、ルシアン様が囁いた。
「あなたがいない屋敷は、驚くほど静かで……どうしていいか、分かりませんでした」
私は、彼の上着をそっと掴んだ。
「……私も、会いたかったです」
「……リリス」
「ずっと……ずっと、お会いしたかった……」
ルシアン様の腕に、少しだけ力がこもった。
「……もう一度、私の隣にいていただけませんか?」
私は顔を上げた。
灰緑色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「婚約者としての役目ではなく、私が愛する女性として」
胸の奥が、温かく満たされていく。
「……はい」
私は、涙のまま微笑んだ。
「私も、ルシアン様のお隣にいたいです」
ルシアン様は、泣きそうな顔で笑った。そして、私の手を取り、そっと指先に口づける。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもより少しだけ掠れていた。
「今度こそ、言葉にして伝えます。あなたがどれほど大切なのか、何度でも」
私は、頷いた。
「……私も、ちゃんと伝えます」
もう、勝手に諦めたりしない。もう、好きな気持ちから逃げたりしない。
胸にしまっていた想いが、ようやくあなたに届いた。
「……愛しています、リリス」
私は、涙を拭って微笑んだ。
「……私も、愛しています。ルシアン様」
届かないと思っていた想いは、ずっと同じ場所にあった。
そして今、ようやく二人の心が重なった。




