もう一度、あなたに会いたくて
――ルシアン視点。
リリスが屋敷を出た翌朝。
私は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
食堂へ向かうと、いつも彼女が座っていた席に目が向いた。向かいの椅子は空いたままで、食器も一人分しか用意されていない。
たったそれだけのことが、胸に重くのしかかった。
「……ルシアン様、お茶をお持ちいたしましょうか」
執事の声に、私は顔を上げた。
「ああ。……蜂蜜を少し、頼む」
口にしてから、思わず苦笑する。
蜂蜜を入れた紅茶を好むのは、リリスだ。彼女が喜ぶ顔を見たくて、いつの間にか私までその味に慣れてしまっていた。
……リリス。
今頃、何をしているのだろう。食事は取れているだろうか。昨夜は、きちんと眠れただろうか。
彼女のことばかり考えている自分に気づき、私は静かに息を吐いた。
……駄目だ。
このまま、何もせずに待っていることなどできない。
◇ ◇ ◇
その日の午前中、私はベルフォード伯爵家を訪ねた。
突然の訪問にもかかわらず、伯爵夫妻は応接室へ通してくださった。
「ルシアン殿。娘のことだろう」
伯爵の言葉に、私は深く頭を下げた。
「はい。まずは、リリスが無事に過ごしていることをお知らせいただき、ありがとうございます」
「娘は安全な場所で休んでいる。信頼できる護衛も付けているから、心配はいらない」
「……安心いたしました」
その言葉に、胸の奥の緊張がわずかに緩んだ。けれど、私がここへ来たのは、無事を確かめるためだけではない。
「伯爵。私は、リリスと直接お話がしたいのです」
伯爵の表情が、少し険しくなる。
「娘は今、一人で考える時間を望んでいる」
「承知しております。無理に連れ戻すつもりはありません」
私は、まっすぐに伯爵を見つめた。
「ですが、彼女は私との婚約を、一時的なものだと思っているようなのです」
「……何?」
伯爵だけでなく、隣に座っていた夫人も驚いたように顔を上げた。
「私は、一度もそのように考えたことはありません。最初から、彼女と結婚するつもりで申し込みました」
「では……娘は、それを知らずに?」
「……はい。私の言葉が足りなかったのです」
私は拳を握りしめた。
「彼女が婚約者としての役目を果たそうとしていることは、分かっていました。ですが、それがいつか終わるものだと思っているとは、気づきませんでした」
夫人が、悲しそうに目を伏せられた。
「……あの子らしいわ」
小さな声だった。
「リリスは昔から、自分の望みを口にするのが苦手なのです。誰かのためなら一生懸命になれるのに、自分の幸せとなると、すぐに遠慮してしまう」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、彼女の優しさを知っていた。知っていたはずなのに、その優しさの裏にある寂しさには、気づけなかった。
「……私は、リリスを愛しています」
伯爵夫妻が、こちらを見た。
「三年前から、ずっと。ようやく婚約者になれたというのに、彼女が何を思って私のそばにいてくれたのか、気づくことさえできませんでした」
口にすると、胸の奥に押し込めていた想いが、次々とあふれてきた。
「彼女と生涯を共にしたいと、心から願っていました。ですが、彼女が私をどう思っているのか確かめる勇気がなく、婚約者としてそばにいてくれることに甘えていたのです」
私は、もう一度深く頭を下げた。
「リリスを傷つけたことは、私の責任です。ですが、どうか一度だけ、彼女と話す機会をいただけないでしょうか」
しばらくの沈黙が落ちた。やがて、伯爵がゆっくりと口を開いた。
「……君の気持ちは分かった」
私は顔を上げた。
「だが、娘が望まないのであれば、会わせることはできない」
「……はい」
「それでもよければ、君の言葉を娘に伝えよう」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ってからも、私は落ち着かなかった。
執務机に向かっても、書類の文字が頭に入ってこない。事件の捜査報告に目を通し、必要な指示を出しても、気づけば時計を見ていた。
……まだ、返事は来ない。
伯爵家を訪ねてから、まだ数時間しか経っていない。分かっているのに、時間がひどく長く感じられた。
私は机の引き出しを開き、小さな箱を取り出した。中には、彼女が置いていったブローチがある。
『……ありがとうございます。大切にします』
あのときの笑顔が、今も忘れられない。
「……リリス」
私は箱を手にしたまま、静かに目を閉じた。
あなたに会いたい。ただ、それだけだった。
◇ ◇ ◇
翌日。
ベルフォード伯爵家から、一通の手紙が届いた。私はすぐに封を切った。
『ルシアン殿
君が婚約を一時的なものとは考えていなかったことは、娘に伝えた。
娘は、たいそう驚いていたそうだ。
しばらく考えたあと、自分の耳で直接確かめたいと言ったという。
明日の午後、娘は君と会うことを了承した。
滞在先への案内は、こちらで手配する。
ベルフォード』
……会える。
リリスに、会える。
手紙を持つ指先が、かすかに震えた。何度も読み返して、ようやく現実なのだと理解した。
「……ありがとうございます」
誰もいない部屋で、思わず呟いた。
けれど、喜びと同じくらい、不安もあった。
彼女は、私の話を聞いてくれるだろうか。私の言葉を、信じてくれるだろうか。
そして……まだ、私のことを想ってくれているのだろうか。
エレオノーラ殿下は、リリスが三年間、私を慕っていたと教えてくださった。だが、今も同じ気持ちでいてくれるとは限らない。私は、彼女を傷つけてしまったのだから。
……それでも。
今度こそ、逃げずに伝えよう。彼女がどんな答えを出したとしても。
そう決意した、その直後だった。
……待て。
明日、彼女に会ったら、最初に何と言えばいい?
まずは謝るべきだろう。いや、その前に、無事な姿を見られたことを喜ぶべきか。
……花を持っていくのはどうだろう。
彼女は花が好きだ。だが、こんなときに贈り物など持っていけば、機嫌を取ろうとしていると思われないだろうか。
「……駄目だ」
私は額に手を当てた。
王宮の複雑な事件を整理するより、よほど難しい。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、王宮でアレクシスに報告した。
「……明日、会えることになった」
そう告げると、アレクシスは目を見開いた。
「本当か?」
「ああ。本人が了承してくれたそうだ」
アレクシスは、ほっとしたように笑った。
「よかったな、ルシアン」
「……ああ」
「それで、何を話すつもりだ?」
私は少し考えてから答えた。
「まずは、謝る。それから、婚約を一時的なものだと思ったことは一度もないと伝える」
「それだけか?」
「……いや」
私は、ゆっくりと息を吸った。
「彼女を愛していると、伝える」
アレクシスは満足そうに頷いた。
「ようやくだな」
「……本当に、ようやくだ」
そこまで話して、私は少し迷った。だが、今さら取り繕っても仕方がない。
「……アレクシス」
「何だ?」
「彼女に会ったら、最初に何と言えばいいと思う?」
アレクシスが、ぴたりと動きを止めた。
「…………は?」
「だから、最初の言葉だ。謝るべきか、それとも――」
「……お前、本当にルシアンか?」
私は眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「いや、王宮の連中が頭を抱えるような事件でも、平然と解決策を出す男がだな……」
アレクシスは口元を押さえた。
「好きな女に会うときの第一声を、俺に相談するのか?」
「……悪いか」
「いや、悪くはない。悪くはないが……」
とうとう、アレクシスが吹き出した。
「ははっ! お前がそこまで余裕をなくすとはな!」
「……笑いすぎだ」
「すまん、すまん。だが、安心したよ」
「何がだ?」
アレクシスは、笑いを収めながら言った。
「お前も、ちゃんと恋をしてるんだな」
私は返す言葉を失った。
……恋。
そんな言葉で片づけられるほど、軽い想いではない。けれど、今の私がひどく不器用になっていることは、否定できなかった。
「……で、結局どうすればいい?」
そう尋ねると、アレクシスはまた笑った。
「知らん。お前の恋人だろう」
「……彼女が、まだ俺を婚約者だと思ってくれているか分からない」
「お前がまず婚約者だって説明するんだろうが!」
「……そうだったな」
「おい、しっかりしろ!」
思わず、二人で笑ってしまった。
ひとしきり笑ったあと、アレクシスが静かに言った。
「難しく考えるな。会いたかったなら、会いたかったと言えばいい」
私は顔を上げた。
「……それだけでいいのか?」
「ああ。そのあとで、ちゃんと全部話せ」
私は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
アレクシスは満足そうに笑った。
「エレオノーラにも報告しておけよ。あいつ、またお前を叱りに来るぞ」
「……それは避けたいな」
「俺もだ。次は本当に結婚相手にされかねん」
久しぶりに、自然と笑みがこぼれた。
だが、部屋を出て一人になると、再び緊張が胸に戻ってきた。
明日。ようやく、リリスに会える。
もし彼女が、もう私の隣にいたくないと言ったら。
……そのとき、私は笑って彼女を送り出せるだろうか。
答えは出なかった。それでも、彼女の気持ちを聞く覚悟だけは、決めていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
ベルフォード伯爵家が手配してくれた案内役に従い、私は馬車で王都を離れた。
道の両側には、緑豊かな木々が続いている。やがて森の中に、小さな屋敷が見えてきた。
静かで、美しい場所だった。
……リリスは、ここで過ごしていたのか。
馬車が止まると、私はすぐに降りた。屋敷の使用人に案内され、庭へ向かう。
一歩進むたびに、心臓が強く鳴った。
……落ち着け。
何度も自分に言い聞かせる。
伝えたいことは、山ほどある。謝りたいことも、聞きたいことも。けれど、まずは彼女の顔が見たい。
元気でいるのか。笑っているのか。それだけを、確かめたかった。
庭の奥へ進むと、花壇のそばに、一人の女性が立っていた。
淡いローズピンクの髪が、風に揺れている。
……リリス。
その姿を見た瞬間、足が止まった。
三年間、何度も見つめてきた、大好きな人。ようやく婚約者になれたと思ったのに、失いかけた人。
駆け寄って、抱きしめたい。もう二度と離したくない。
けれど、彼女がそれを望まなかったら?
……嫌がられたら、どうしよう。
そんな恐れが、今さらになって足をすくませた。
私は拳を握り、ゆっくりと息を吸った。
「……リリス」
小さく名前を呼ぶ。
彼女が振り向いた。紫色の瞳が、大きく見開かれる。
「……ルシアン、様?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
ああ。
……会いたかった。
こんなにも、会いたかった。




