三年間、あなたを想っていた
扉が開くなり、エレオノーラ殿下は真っ直ぐ私の前まで歩いてこられた。
「ルシアン!リリスが屋敷を出たというのは本当ですか!」
「……はい」
殿下の表情が険しくなる。
「どういうことですの?リリスは、あなたの婚約者でしょう?」
「もちろんです。私は今でも、そのつもりでおります」
「では、なぜリリスは出ていったのです!」
私は彼女の手紙に書かれていたことを説明した。
婚約者としての役目を終えたと思っていること。私の幸せを願い、自ら身を引こうとしていること。そして、私自身は一度も、婚約を一時的なものだと考えたことがなかったこと。
話を聞き終えた殿下は、信じられないというように私を見つめた。
「……つまり、ルシアンは本気で結婚するおつもりだったのに、リリスはそう思っていなかった、ということですのね?」
「……おそらくは」
「おそらく?」
殿下の声が鋭くなった。
「そこが一番大切なところでしょう!どうして、きちんと確かめなかったのです!」
返す言葉がなかった。
「リリスは、いつも自分より人の幸せを優先する子です。誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分が我慢すればいいと思ってしまう。ルシアンも、あの子と過ごしていて気づかなかったのですか?」
「……気づいていたつもりでした」
「つもり、では困りますわ!」
殿下は悔しそうに唇を噛まれた。
「私、嬉しかったのです。ルシアンがリリスに婚約を申し込んだと聞いたとき、本当に嬉しかった。これで、あの子も幸せになれるのだと思っていました」
その声が、わずかに震えた。
「なのに……あの子はきっと、最後まで笑っていたのでしょう?」
私は息を呑んだ。
昨日の夕食で、彼女は確かに笑っていた。湖へ誘ったときも、嬉しいと言ってくれた。
……あの笑顔の裏で、別れを決めていたのか。
「リリスは、泣きたいときほど笑う子です。自分のせいで誰かを困らせたくないから」
殿下は一度目を伏せ、それから私を真っ直ぐに見つめられた。
「ルシアン。リリスが、どれほどあなたをお慕いしていたか、ご存じですの?」
……何?
「……今、何と?」
殿下は、はっとしたように口を閉じた。けれど、もう遅かった。
「……リリスが、私を?」
しばらくの沈黙のあと、殿下は静かに頷かれた。
「……三年間ですわ」
息が止まった。
三年間。
私が、彼女を想い続けてきたのと同じ時間。
「リリスは、ずっとあなたをお慕いしていました。けれど、自分の気持ちを押しつけたくないと、何も言わずにいたのです」
私は言葉を失った。
……そんな。
彼女も、私を?
あの優しい笑顔も。恥ずかしそうに伏せられた瞳も。すべてが、違う意味を持って胸に迫ってくる。
「そんな子が、ようやくあなたの隣に立てたのです。私は、今度こそ自分の幸せを願ってほしかった」
殿下の瞳が潤んでいた。
「それなのに、また自分から諦めようとしているなんて……」
私は、何も言えなかった。
彼女の優しさに甘えていた。リリスはいつも笑ってくれる。私の言葉を喜んでくれる。だから、きっと大丈夫なのだと。
……何も、大丈夫ではなかったのに。
「……私は、彼女を幸せにしたかったのです」
ようやく口にした言葉に、殿下は厳しい表情を向けられた。
「でしたら、どうして伝えなかったのです?」
「……急がなくてもよいと思っていました」
「急がなくても?」
殿下は、呆れたように息を吐かれた。
「ルシアン。人の心は、言葉にしなければ伝わらないこともあるのです。あなたがどれほど大切に思っていても、リリスがそれを知らなければ、あの子はいつまでも自分が身を引くべきだと思ってしまいますわ」
……その通りだった。
私は、いつか伝えるつもりでいた。彼女と過ごす日々があまりにも幸せで、その時間がこれからも続くと、疑いもしなかった。
「……申し訳ありません」
頭を下げると、エレオノーラ殿下は小さく息を吐かれた。
「私に謝っても仕方ありませんわ、ルシアン」
そして、何かを思いついたように、にっこりと微笑まれた。
……嫌な予感がした。
「そうですわね。リリスには、しばらく私のそばにいてもらおうかしら」
「……はい?」
「あなたの屋敷には戻さず、王宮で暮らしてもらうの。私の侍女に戻ってもらってもいいですわね」
「……殿下」
「だって、ルシアン。あなたのそばにいたら、あの子はまた自分の気持ちを押し殺してしまうかもしれないでしょう?」
殿下は涼しい顔で続けられた。
「それに、リリスほど可愛らしい子なら、ほかにも素敵な縁談があるでしょうし」
「……それは」
「ええ。優しくて、誠実で、きちんと言葉で愛情を伝えてくださる殿方がいいですわね」
……完全に、私への当てつけだ。
「……私は、彼女との未来を諦めるつもりはありません」
「まあ!」
殿下はわざとらしく目を丸くされた。
「ご自分の気持ちを伝えてもいないのに、ずいぶん自信がおありなのね?」
言葉に詰まる。……何も言い返せなかった。
「それなら、いっそお兄様にリリスを娶っていただこうかしら!」
「は!?」
アレクシスが勢いよく立ち上がった。
「待て、エレオノーラ! 俺の結婚相手を勝手に決めるな!」
「お兄様は黙っていてくださいませ!」
「なぜ俺が黙るんだ!?」
……リリスが、アレクシスの妻に?
想像した瞬間、胸の奥に激しい感情が込み上げた。
「……それだけは、絶対にお断りします」
思いのほか低い声が出た。
アレクシスがこちらを振り向く。
「俺は何もしていないぞ!?」
私はエレオノーラ殿下を真っ直ぐに見つめた。
「私は、リリスを愛しています」
初めて、誰かの前ではっきりと口にした。
「三年前から、ずっと。彼女以外を妻に迎えるつもりなど、一度もありませんでした」
殿下の瞳が揺れた。
「……でしたら」
その声は、先ほどまでとは違い、静かだった。
「私ではなく、リリスに言いなさい!」
私は深く頭を下げた。
「……はい」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
そうだ。私が伝えるべき相手は、最初から一人しかいなかった。
◇ ◇ ◇
王宮を出る頃には、すっかり夜になっていた。
ベルフォード伯爵家からは、彼女が無事に到着したこと、そしてその後、静養のため別の場所へ移ったことが伝えられていた。
リリス自身が、少し一人で考える時間を望んでいるという。詳しい滞在先については、本人の気持ちを尊重し、今は明かすことを控えたいとのことだった。
……無事でいる。
それだけで、少しだけ息ができた。
だが、安心して待っていられるはずもなかった。
私は彼女の手紙を、もう一度開いた。
『どうか、これからはご自身の幸せを一番にお考えください』
……リリス。
あなたは、何も分かっていない。
私がどれほど、あなたと過ごす日々を大切にしていたか。あなたの笑顔を見るためなら、どれほど忙しい一日でも乗り越えられたことを。
そして、あなたがいない屋敷が、どれほど静かで、冷たい場所に感じられるかを。
……いや。
分かっていなかったのは、私の方だ。
あなたが何を恐れていたのか。どんな思いで、あの笑顔を浮かべていたのか。
私は、何も知らなかった。
「……リリス」
小さく名前を呼ぶ。
彼女が望むのなら、少し距離を置く時間も必要なのだろう。
けれど、誤解したまま、すべてを終わりにすることだけはできない。
まずは、彼女の居場所を確かめる。そして、会って話せる日が来たら、今度こそ伝えよう。
婚約者としての義務でも、同情でもない。
私が彼女のそばにいたいと願う、ただ一つの理由を。
「……待っていてください、リリス」
私は手紙を丁寧に折り畳み、胸元へしまった。
あなたが私を想ってくれていた三年間。
私もまた、同じ時間を、あなたに捧げていたのだから。




