失って初めて知る、あなたの想い
――ルシアン視点。
その日、私はいつもより少し早く王宮を出た。
事件の調査はまだ続いているものの、実行犯の拘束によって、ようやく仕事に区切りがつき始めていた。
来週には、リリスと湖へ行けるかもしれない。
以前から、彼女に見せたいと思っていた場所がある。湖畔には小さな花畑があり、この季節には淡い色の花が一面に咲くのだ。あの景色を見たら、彼女はきっと喜んでくれるだろう。
そんなことを考えながら屋敷に戻ると、玄関で執事が私を出迎えた。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
「ああ。ただいま。リリスは?」
いつものように尋ねると、執事はわずかに表情を曇らせた。
「……アマリリス様は、本日、ご実家のベルフォード伯爵家へお戻りになりました」
足が止まった。
「……実家へ?」
聞き間違いかと思った。
「はい。今朝、馬車と護衛を手配し、伯爵家までお送りしております」
「……なぜ?」
執事は答える前に、一通の封筒を差し出した。
「アマリリス様から、お手紙をお預かりしております。ご出発後にお渡しするようにと」
私は封筒を受け取った。そこには、見慣れた彼女の丁寧な文字で、私の名前が書かれていた。
嫌な予感がした。
封を切り、手紙を開く。
読み進めるうちに、指先から血の気が引いていくのが分かった。
『私の婚約者としてのお役目も、これで終えられたのだと思います』
……役目?
『これ以上、ルシアン様のご厚意に甘えるわけにはまいりません』
……何を、言っている?
『どうか、これからはご自身の幸せを一番にお考えください』
最後まで読み終えたあとも、私はしばらく動けなかった。
「……これは、どういうことだ」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
私の幸せ。
私の幸せは、彼女と共に生きることだ。ほかの誰かを迎える未来など、一度だって考えたことはない。
「アマリリス様は、何かお悩みのご様子でしたか?」
執事に尋ねると、彼は慎重に答えた。
「ここ数日は、少しお元気がないようにお見受けしました。ただ、ご本人は静かに過ごしたいとおっしゃっておりまして……」
……気づいていた。
彼女の笑顔が、どこか寂しそうだったことに。何度も尋ねた。それでも彼女が大丈夫だと言うから、無理に聞き出すべきではないと思っていた。
私は手紙を握りしめた。
「……リリスの部屋を、見ても?」
「もちろんでございます」
階段を上がる足が、いつもより重かった。
彼女の部屋の扉を開く。そこには、つい昨日まで彼女が過ごしていた気配が残っていた。
窓辺の椅子。読みかけの本。花瓶に飾られた花。
けれど、彼女の姿だけがない。
机の上には、小さな箱が置かれていた。
……まさか。
私はゆっくりと箱を開いた。
淡い紫色の石が、夕方の光を受けて輝いている。彼女の瞳に似ていると思って選んだ、あのブローチだった。
『……ありがとうございます。大切にします』
嬉しそうに微笑んだ彼女の顔が、鮮明に蘇る。
私は箱を持つ手に力を込めた。
……どうして。
どうして、大切にすると言ってくれたものまで置いていったんだ。
「……リリス」
名前を呼んでも、返事はない。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。彼女がいない。たったそれだけのことが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
私はすぐに、彼女の安全を確認するよう手配した。
伯爵家まで同行した護衛から、無事に到着したことは確認できた。だが、現在も実家にいるかどうかまでは分からない。
私はベルフォード伯爵家へ使いを送り、彼女の無事と、今後の滞在について確認を求めた。
そのうえで、王宮へ向かった。
……確かめなければならない。
彼女が、なぜあんな手紙を残したのか。そして、なぜ私のもとを離れようとしたのか。
◇ ◇ ◇
「……何だと?」
執務室で事情を聞いたアレクシスは、珍しく言葉を失った。
「アマリリス嬢が、屋敷を出た?」
「ああ。実家へ戻ったことまでは確認できている」
「それで、お前は何をした?」
「安全の確認と、伯爵家への問い合わせを進めている。本人の意思も確かめたい」
アレクシスは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……それで、手紙には何と?」
私は、彼女が残した言葉を伝えた。
話し終えると、アレクシスは眉間に皺を寄せた。
「婚約者としての役目が終わった、だと?」
「……ああ」
「お前、まさか婚約を一時的なものだと説明したのか?」
「そんなことは一度も言っていない」
即座に答えた。
「俺は、本気で彼女に結婚を申し込んだ」
「それなら、なぜ彼女はそんなふうに受け取った?」
……分からない。
いや。思い返せば、いくつも心当たりがあった。
彼女は何度も『婚約者のお役目』という言葉を口にしていた。そのたびに私は、彼女なりに婚約者としての立場を大切にしてくれているのだと思っていた。
……違ったのか。
「……俺は、彼女に何も伝えていなかったのかもしれない」
アレクシスは、呆れたように息を吐いた。
「お前ほど頭の切れる男が、どうしてこういうことになるんだ」
返す言葉もなかった。
そのとき、扉の向こうから声がした。
「お兄様!ルシアンがいらっしゃるのでしょう!」
……エレオノーラ殿下。
嫌な予感がした。




