さようなら、私の大好きな人
――リリス視点。
クラリスから返事が届いたのは、手紙を出してから三日後のことだった。
『もちろんよ、リリス。あなたが相談したいなんて珍しいわね。何か困っていることがあるのなら、遠慮なく話してちょうだい』
懐かしい文字を見つめていると、胸の奥が少しだけ温かくなった。クラリスとは、王宮で侍女をしていた頃からの付き合いだ。いつも明るく、けれど人の気持ちには誰よりも敏感な友人。
きっと、彼女なら。
私は返事を丁寧に折り畳み、そっと胸に抱いた。
◇ ◇ ◇
数日後、私は王都の小さな茶館でクラリスと向かい合っていた。
事件の実行犯が捕らえられてから、外出の制限は少しずつ緩和されている。それでも王宮の調査は続いているため、ルシアン様に外出の予定を伝え、屋敷の護衛を伴って出かけていた。
「リリス、久しぶりね!」
「久しぶり、クラリス。急にお願いしてしまってごめんなさい」
「何を言っているの。あなたからのお誘いなら、いつだって大歓迎よ」
クラリスは紅茶を一口飲むと、私の顔を覗き込んだ。
「それで?相談したいことって、何かしら」
私はカップを両手で包み込んだ。……何から話せばいいのだろう。
ルシアン様との婚約のこと。事件が解決に向かっていること。そして、そろそろ自分の役目が終わるのではないかと思っていること。
ひとつずつ言葉にすると、クラリスは途中で口を挟まず、静かに聞いてくれた。
「……だから、いつまでもお世話になるわけにはいかないと思っているの」
話し終えると、クラリスは少し考えるように目を伏せた。
「リリス。ひとつ聞いてもいい?」
「ええ」
「その婚約が一時的なものだって、ルシアン様がはっきりおっしゃったの?」
私は言葉に詰まった。
「……それは」
「婚約を解消するって、約束されたの?」
私は小さく首を振った。
「でも、私を守るための婚約だったから……」
クラリスは困ったように眉を下げた。
「守るために婚約したからって、それが一時的とは限らないでしょう?」
胸が、どきりと鳴った。
「……でも、ルシアン様は、とてもお優しい方なの。きっと、私に気を遣ってくださっているだけで……」
クラリスはしばらく私を見つめていた。
「……リリス。あなたは、本当はどうしたいの?」
その問いに、胸がぎゅっと締めつけられた。本当は、ずっとそばにいたい。けれど、それを口にすることはできなかった。
「……ご迷惑をおかけしたくないの」
やっとの思いで答えると、クラリスは小さく息を吐いた。
「あなたらしいわね。でも、相手の気持ちを確かめずに決めてしまっていいのかしら」
私は俯いた。……分かっている。きちんと話さなければいけないことくらい。
でも、もしルシアン様から「もう婚約を続ける必要はありません」と言われたら。その場で笑って頷ける自信が、私にはなかった。
「……少しだけ、時間が欲しいの」
クラリスは、私の手にそっと自分の手を重ねた。
「それなら、無理に答えを出さなくてもいいわ。ただ、ひとつ約束して」
「……何かしら?」
「ルシアン様の気持ちを、あなた一人で決めつけないこと。落ち着いたら、ちゃんとお話しするのよ」
私は小さく頷いた。
「……ええ。ありがとう、クラリス」
その温かさに、涙がこぼれそうになった。
◇ ◇ ◇
それから数日後、クラリスからもう一通の手紙が届いた。
彼女の母方の親戚が所有する、王都から少し離れた場所にある別邸。今は使われていないけれど、長年仕えている管理人夫婦が暮らしているという。
『少し静かな場所で考えたいのなら、使ってもいいそうよ。ただし、逃げるための場所ではなく、落ち着いて考えるための場所だからね。あなたが一人で無理をしないこと。それから、落ち着いたら必ず話を聞かせてね』
私は手紙を読み終え、窓の外を見つめた。
……静かな場所。
ルシアン様のおそばにいると、どうしても気持ちが揺らいでしまう。優しくされるたびに、期待してしまう。
もう少しだけ。あと一日だけ。そんなふうに、自分に言い訳を重ねてしまうのだ。
私は手紙をそっと畳んだ。……決めなくては。
◇ ◇ ◇
その日の夕食も、ルシアン様はいつもと変わらず優しかった。
「リリス。今日は少し疲れていませんか?」
「……そうでしょうか?」
「ええ。顔色があまりよくないように見えます」
私は慌てて微笑んだ。
「大丈夫です。少し寝不足なだけですから」
「それなら、今夜は早めに休んでくださいね」
ルシアン様は、心配そうに眉を寄せられた。
「……ありがとうございます」
私はそっと視線を落とした。こんなにも優しい方。この方の隣にいられた時間は、きっと一生忘れない。
「そういえば、リリス」
顔を上げると、ルシアン様が柔らかく微笑まれた。
「例の湖ですが、来週あたりなら時間が取れそうです」
「……湖」
「ええ。まだ正式には決めていませんが、あなたの都合がよければと思いまして」
胸が、ひどく痛んだ。……来週。その頃には、私はもうここにいないつもりだった。
「……ありがとうございます。お気持ち、とても嬉しいです」
ルシアン様は、少し不思議そうに私を見つめられた。
「リリス?」
「……何でもありません」
私は微笑んだ。今だけは、どうか。この幸せな時間を、壊させないでください。
◇ ◇ ◇
翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。机の上には、昨夜書き終えた一通の手紙が置かれている。
何度も書き直した。どう書けば、ルシアン様に余計な心配をおかけせずに済むのだろう。どうすれば、感謝の気持ちをきちんと伝えられるのだろう。
考えても、考えても、答えは見つからなかった。結局、最後に残ったのは、とても短い言葉だった。
『ルシアン様へ
これまで、私を守ってくださり、本当にありがとうございました。
事件も解決に向かい、私の婚約者としてのお役目も、これで終えられたのだと思います。
これ以上、ルシアン様のご厚意に甘えるわけにはまいりません。
どうか、これからはご自身の幸せを一番にお考えください。
あなたが幸せでいてくださることを、心から願っています。
本当に、ありがとうございました。
アマリリス・ベルフォード』
私は手紙を封筒に収め、机の上に置いた。
……これで、いい。
そう思おうとしても、胸の奥が苦しかった。
部屋を見渡す。初めて案内されたとき、あまりの美しさに驚いた寝室。窓辺の椅子も、柔らかな寝具も、私のために用意してくださったもの。
何もかもが、温かな思い出だった。
私は小さな鞄を開き、持っていくものを確認した。衣服と、必要な身の回りの品。それから、クラリスの手紙。
最後に、机の上の小さな箱へ視線を向けた。ルシアン様からいただいた、淡い紫色のブローチ。
私はそっと箱を開いた。朝の光を受けて、石がきらりと輝く。
『あなたの瞳の色に似ていると思ったんです』
あのときの、優しい声が蘇る。
……持っていきたい。
このブローチだけは、ずっと大切にしたい。
でも、これを持っていたら、いつまでも諦められなくなってしまうかもしれない。
私はしばらく迷ったあと、箱の蓋を閉じた。そして、手紙の隣にそっと置いた。
……さようなら。
◇ ◇ ◇
屋敷を出る前、私は玄関ホールで立ち止まった。
ルシアン様はすでに王宮へ向かわれている。昨夜、今日は朝から重要な会議があるとおっしゃっていた。
私は執事に、いったん実家のベルフォード伯爵家へ戻ることを伝えた。事件の実行犯は捕らえられたとはいえ、調査は続いているため、屋敷の護衛の方々に実家まで送っていただく。
その後は、伯爵家の護衛に付き添ってもらい、クラリスが紹介してくれた別邸へ向かうつもりだった。
ルシアン様への手紙は、私が屋敷を出たあとにお渡ししてほしいとお願いした。
執事は驚いた様子だったけれど、私の意思を確認したうえで、馬車を手配してくださった。
……これなら、少なくとも危険な目に遭うことはないはず。
そう思いながら、私は最後にもう一度、屋敷を振り返った。
ここで過ごした日々。ルシアン様と一緒に食事をしたこと。庭を歩いたこと。私のために、たくさんの優しい言葉をくださったこと。
すべてが、宝物だった。
「……ありがとうございました」
小さく呟く。
馬車がゆっくりと動き出した。窓の向こうで、屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
私は膝の上で、両手を強く握りしめた。
……泣かない。
泣いてはいけない。自分で決めたことなのだから。
けれど、屋敷の姿が見えなくなった瞬間。
「……っ」
堪えていた涙が、頬を伝った。一度こぼれた涙は、もう止まらなかった。
「……ルシアン様……」
声に出してしまった名前が、胸を締めつける。
大好きでした。
ずっと、ずっと。
三年間、あなたのことが大好きでした。
そして、今も。
こんなにも、愛しています。
私は両手で顔を覆った。
馬車は静かに走り続ける。私が置いてきた、あの温かな場所から。大好きな人のいる場所から。
少しずつ、遠ざかっていった。




