幸せな婚約者の、最後のお役目
――リリス視点。
事件の実行犯が捕らえられてから、数日が経った。
王宮では引き続き調査が行われているものの、エレオノーラ様を直接襲った男が拘束されたことで、少しずつ落ち着きを取り戻しているらしい。
ルシアン様は相変わらずお忙しそうだけれど、以前よりも穏やかな表情を見せてくださるようになった。そして私は、まだこの屋敷にいる。
……いつまで、ここにいていいのだろう。
その答えを尋ねる勇気が出ないまま、今日も朝を迎えてしまった。
「リリス、よろしければこちらへ」
朝食の席で、ルシアン様が隣の椅子を示された。
「……はい」
いつもは向かい合って座っているのに、今日はどうされたのだろう。不思議に思いながら腰を下ろすと、ルシアン様はテーブルの上に小さな箱を置かれた。
「実は、あなたにお渡ししたいものがありまして」
「私に、ですか?」
箱の中には、淡い紫色の石があしらわれた、小さなブローチが入っていた。
「……綺麗」
思わず声が漏れる。
「あなたの瞳の色に似ていると思ったんです」
「私の……?」
ルシアン様は微笑まれた。
「昨日、仕事の帰りに見かけまして。どうしても、あなたに贈りたくなってしまいました」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「でも、こんな素敵なものをいただいてしまっても……」
「私が贈りたいと思ったんです。受け取っていただけませんか?」
優しい声に、断れるはずがなかった。
「……ありがとうございます。大切にします」
そう答えると、ルシアン様は嬉しそうに目を細めた。
「よかった。きっと、お似合いですよ」
私はブローチをそっと手に取った。淡い紫色の石が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。
……こんなに優しくしないでください。
これ以上、あなたを好きになってしまったら。お別れするとき、きっと笑えなくなってしまうから。
◇ ◇ ◇
その日の午後、私は屋敷の応接室で、セドリック様とお会いしていた。
ルシアン様は王宮へ出向かれており、セドリック様は書類を届けにいらしたのだという。
「やあ、アマリリス嬢。元気そうで何よりだ」
「セドリック様。先日はありがとうございました」
お茶をお勧めすると、セドリック様は気さくに笑って席に着かれた。
「そういえば、最近のルシアンはずいぶん機嫌がいいらしいね」
「そうなのですか?」
「ああ。仕事は相変わらず完璧だけど、以前より表情が柔らかくなったって評判だよ」
思わず頬が緩む。ルシアン様がお元気なら、それだけで嬉しい。
セドリック様は紅茶を一口飲むと、何気ない調子で話を続けられた。
「事件も落ち着いてきたし、そろそろ結婚に向けて、いろいろ動き出す頃だろうね」
……結婚。
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「……結婚、ですか?」
「うん。侯爵家の嫡男ともなれば、家同士の調整もあるだろうし、正式に話を進めるとなれば、いろいろ大変だろうな」
私は膝の上で、そっと指を握りしめた。
……そうよね。
ルシアン様ほどの方なら、結婚はご本人だけの問題ではない。家のことも、将来のことも、考えなければならないのだ。
事件が落ち着けば、私の役目も終わる。そうなれば、ルシアン様は本当に結婚するべき方との話を進められるのだろう。
「……ルシアン様には、幸せになっていただきたいです」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
セドリック様は嬉しそうに笑った。
「もちろんさ。あいつも、きっと同じことを思っているよ」
……同じこと。
ルシアン様も、幸せな結婚を望んでいらっしゃる。
私は笑顔を作った。
「……そうですね」
セドリック様は満足そうに頷かれた。その笑顔に、悪意など少しもなかった。
だからこそ、何も聞けなかった。
◇ ◇ ◇
セドリック様がお帰りになったあと、私は自室へ戻った。
朝、ルシアン様からいただいたブローチが、机の上で静かに輝いている。私は椅子に腰を下ろし、それをそっと手に取った。
……綺麗。本当に、綺麗。
ルシアン様が私の瞳を思い出して選んでくださったもの。それだけで、どれほど嬉しかったことか。
でも。
『そろそろ結婚に向けて、いろいろ動き出す頃だろうね』
セドリック様の言葉が、頭から離れない。
ルシアン様は、いつか本当に結婚するべき方を迎えられる。その方と結婚して、温かな家庭を築かれるのだろう。
きっと、私に向けてくださったような優しい笑顔を、その方にも向けられる。
……いいえ。
本当に愛する方には、もっと素敵な笑顔を見せられるのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。私はブローチを胸元に押し当てた。
「……嫌だ」
小さな声が、こぼれた。
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
嫌だ。ルシアン様が、ほかの誰かと結婚するなんて。
ずっと、私だけを見ていてほしい。私だけに、あの優しい笑顔を向けてほしい。
……ずっと、そばにいたい。
そんな願いが、次から次へと溢れてくる。けれど、私はゆっくりと首を振った。
駄目よ、リリス。
最初から、分かっていたでしょう?
この婚約は、あなたを守るためのもの。ルシアン様の優しさに甘えて、いつまでもここにいてはいけない。
私はブローチを箱に戻し、そっと蓋を閉じた。
……そろそろ、覚悟を決めなくては。
◇ ◇ ◇
夕食の時間、ルシアン様はいつもと変わらない優しい笑顔で私を迎えてくださった。
「リリス。今日は何をして過ごされたんですか?」
「友人から届いた手紙を読み返したり、少し読書をしたりしていました」
セドリック様との会話には、触れられなかった。
「そうですか。退屈はされていませんか?」
「いいえ。毎日、とても楽しく過ごさせていただいています」
それは本当だった。ルシアン様と過ごす時間は、どんなときも幸せだったから。
「それなら、よかった」
ルシアン様は微笑まれた。
「そういえば、先日お話しした湖のことですが」
「……湖、ですか?」
「ええ。事件の調査がもう少し落ち着いたら、一緒に出かけませんか?」
胸が、どきりと鳴った。
「……私と、ですか?」
「もちろんです」
ルシアン様は、少しだけ照れたように微笑まれた。
「あなたに見せたい景色があるんです」
……ああ。
どうして、そんなに優しいことをおっしゃるのですか。
私は唇を噛みしめそうになり、慌てて微笑んだ。
「……ありがとうございます。とても嬉しいです」
嘘ではない。本当に、嬉しい。
でも、その約束を果たす日まで、私はここにいていいのだろうか。
「リリス?」
ルシアン様が心配そうにこちらを見つめた。
「……何か、気になることでも?」
「い、いいえ。何でもありません」
私は首を振った。けれど、ルシアン様はすぐには視線を逸らさなかった。
「リリス。何か心配事があるのなら、私に話してください」
その優しい声に、胸が苦しくなる。
……言えるはずがない。あなたのそばにいたいのだと。本当は、誰にも渡したくないのだと。
「……ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
私は精いっぱい微笑んだ。
ルシアン様はしばらく私を見つめ、それから静かに頷かれた。
「……分かりました。ただ、無理だけはしないでください」
「はい。ありがとうございます」
その気遣いが、嬉しくて、苦しかった。
……大好きです。
ずっと、ずっと。三年間、あなたのことが大好きでした。
けれど、その言葉は口にできない。言ってしまえば、きっともう、笑顔でお別れなんてできなくなるから。
◇ ◇ ◇
その夜、私は机に向かい、便箋を取り出した。
宛先は、クラリス・ベルモント様。
先日届いた手紙への返事を書くつもりだった。けれど、ペンを持ったまま、しばらく手が動かなかった。
『落ち着いたら、ぜひお茶でもしましょう』
クラリスの言葉が、ふと頭に浮かぶ。
……会いたい。
久しぶりに、あの優しい笑顔が見たい。そして、できることなら少しだけ、話を聞いてほしい。
私はゆっくりとペンを動かした。
『クラリス。お手紙をありがとう。私も、あなたに会いたいと思っていたところなの』
そこまで書いて、手を止める。続ける言葉が、なかなか見つからなかった。
やがて私は、もう一度ペンを走らせた。
『近いうちに、少し相談したいことがあるの。お時間をいただけるかしら』
書き終えた便箋を見つめる。
……これで、いい。
まだ、何をどうするか決めたわけではない。でも、誰かに相談することから始めてもいいはずだ。
私は手紙を封筒に収め、そっと息を吐いた。
そのとき、机の上の小さな箱が目に入った。朝、ルシアン様からいただいたブローチだ。
私は箱を開き、淡い紫色の石を指先で撫でた。
……ルシアン様。
本当は、ずっとおそばにいたいです。あなたの隣で、笑っていたい。
でも、それが叶わないのなら。
せめて、最後まで。
あなたにとって、よい婚約者でいたい。
私はそっと箱を閉じた。その小さな音が、静かな部屋に響いた。
まるで、幸せだった日々に蓋をするように。




