第八十四話 脳筋と根性と聖なる騎士
セシリアは魔王城の中庭で、激しく後悔していた。
実戦経験が皆無に等しい聖騎士の肩書を捨て、
泥を啜るつもりでガルム将軍の特訓を志願した。
だが、この人狼族の老雄の本質を見誤っていた。
この男は、正真正銘の脳筋だった。
朝霧がまだ白く周囲を包み込む早朝、セシリアは中庭に立っていた。
冷たい空気を吸い込みながら待っていると、無骨な足音が近づいてくる。
現れたガルムは、日の出前だというのにすでに一汗かいたような様子で、
獰猛な牙を少しだけ覗かせた。
「フン、遅れずに来たな。まずは合格だ。
だが、戦場は待ってはくれん。これからすぐに軍部訓練場に行くぞ。
走れば一時間で着く距離だ。遅れずについてこい」
ガルムはそう吐き捨てるように告げると、セシリアの返事も待たずに
背を向けた。その巨体が滑らかな動きで歩みを始める。
セシリアも慌てて足を動かし、その後に続いた。
通常の戦闘や行動であれば、
この使い慣れた甲冑を着たままでも何ら支障なくこなすことができる。
しかし、いざ戦場を模した現実の移動を前にすると、
それはただの重い鉄の枷でしかなかった。
「ま、待ってください! 無理です、ガルム将軍!
甲冑を全身につけたまま、一時間も走り続けるなんて不可能です!」
聖法国の騎士として、この白銀の甲冑は自らの誇りの結晶だった。
誰もがこの装飾の施された鎧を称賛してくれたが、
魔王国の武人と同等に長距離を移動となれば話は別だ。
歩くだけなら問題なくても、
この装備で一時間の全力疾走などできるはずがない。
ガルムは十数歩ほど進んだところでぴたりと足を止め、
不機嫌そうに振り返った。
その鋭い眼光が、セシリアの全身を覆う甲冑を冷ややかに見下ろす。
「あん? なんだ、そのなりで走ることもできんのか。
人間の聖騎士ってのは、戦場に飾る案山子か人形か!」
「くっ……それは……」
セシリアは悔しさに唇を噛み、返す言葉を失って視線を落とした。
これまでは騎乗での移動が当然であり、
自分の足で鎧の重さを支えて長距離を駆けたことなど一度もない。
やはり自分は、実戦の厳しさを何一つ知らない温室育ちの腑抜けなのだと
思い知らされる。
「ちっ、仕方のないガキだ。時間ばかりが過ぎていくわ。
おい、そのご大層な殻をさっさとよこせ。
わしが持ってやるから、体力の続く限り走れ!」
ガルムは大きな歩幅で戻ってくると、
乱暴な手つきでよこせと合図する。
セシリアは肩当てや胸当ての留め金を外していった。
老雄はその重い鉄の塊をひとまとめにすると、
片手で無造作に抱え上げた。
「ほら、足が止まっているぞ!死に物狂いで
わしの背中を追いかけろ!」
ガルムは再び咆哮のような声を上げて、今度は容赦のない速度で地を蹴った。
上着と引き締まった肌着だけになり、劇的に軽くなった体で、
セシリアは我に返って走り出す。
前方を突き進む大きな獣の背中は、朝霧の向こうへ消え去りそうなほど速い。
乱暴に甲冑を奪い去り、早く走れと怒鳴り散らす魔王国の重鎮。
しかし、もし本当に見捨てるつもりなら、
わざわざ足を止めて他人の鎧を抱える手間などかけるはずがない。
セシリアは必死に四肢を動かしながら、その無骨な横顔を思い出していた。
ガルム将軍には、年の近い娘のガウラがいる。ふと見せるその眼差しは、
人間の不器用な騎士に、
かつて鍛えた我が子の姿とどこか重なる部分があったのかもしれない。
乱暴な言葉遣いや突き放すような態度に少しだけ、
父親の優しさが滲み出ていた。
「負けませんっ、ガルム将軍……!
私、絶対に脱落しませんから!」
冷たい風が頬を叩き、足元の泥が容赦なく跳ね上がる。
セシリアは誇りだった甲冑を預けたまま、
新しい自分を掴み取るために、ただ真っ直ぐに走り続けた。




