第七十八話 勇者とは
「皆さん、そろそろ聖法国ですよ」
馬車の前方から、御者の落ち着いた声が響いた。
その穏やかな響きに促されるようにして、コウタロウは
ゆっくりと手を伸ばし、馬車の窓を覆っていた厚手のカーテンを
開けた。
車窓の外には緑豊かな大草原が広がっている。
陽光を浴びてきらきらと輝く草並みは、どこまでも地平線の彼方へと
続いており、吹き込んでくる風には瑞々しい大地の匂いが
混ざっていた。
この世界で最も恵まれた土地であり、聖王が治める宗教国家。
それが聖法国だ。かつて魔王を討つという
大義名分のもとで呼び出され、過酷な旅を続けてきた
コウタロウたちにとって、この豊かな景観は本来であれば安息を
もたらす故郷のような場所であるはずだった。
魔王城から長い距離を移動し、一行はついに目的地へと到着した。
国境を越えて王都へと入る馬車の周囲には、やがて城壁が
見え始め、その中心には聖域を彷彿させる壮麗なる城郭が
そびえ立っていた。
勇者が帰還したという報せは、すぐに王城の最奥へと伝わっていく。
魔王を討伐し、世界の脅威を払いのけた救世主の凱旋。
その一報は瞬く間に城内を駆け巡り、謁見の間には
煌びやかな人々が幾重にも列をなしていた。
重厚な扉が開かれ、一行は促されるままに、格調高い謁見の間へと
足を踏み入れる。磨き上げられた大理石の床に四人の足音が
静かに響く。天井のステンドグラスからは眩い光が差し込み、
その空間の権威を象徴していた。
だが、その広間の最奥、一段高い場所に設置された玉座の様子は、
彼らが想像していたような温かい歓迎の空気とは少し違っていた。
玉座に鎮座する、覇気をまとった壮年の男が、
傲岸な視線をこちらへと向ける。
「勇者よ、見事討伐を成し遂げたのだな!」
聖王が歓迎の声を響かせ、周囲の貴族たちも一斉に称賛の拍手を送った。
波のように押し寄せる拍手と、口々に発せられる称賛の言葉。
それらは全て、人類の宿敵である魔王が消え去ったという
前提の上でのものだった。
だが、コウタロウたちの顔には、大業を成し遂げた達成感など
微塵もない。むしろ、その表情に浮かんでいるのは、
この国が掲げる正義への強い不信感だった。
コウタロウは一歩前に出ると、玉座を見上げて、
はっきりと口を開いた。
「聖王様に申し上げます……。魔王は、討伐を必要とする人では
ありませんでした」
その言葉に、謁見の間が一瞬で静まり返った。先ほどまで広間を
満たしていた拍手の音がピタリと止み、貴族たちの顔から笑みが
消え失せる。静寂の重みが増していく中、玉座の上の聖王は、
その端正な顔をあからさまな不快感で歪めた。
聖王は眉を不快そうにひそめ、低い声を絞り出す。
「何を言っておる。このわしが、聖王が討伐と言えば、それは
討伐対象でしかない。たとえ、誰であろうとな」
その絶対的な権力を誇示するような、真実を一切無視した
冷酷な言葉。民の命や世界の本当の姿などどうでもよく、
ただ自分たちの都合の良い『敵』を仕立て上げたいだけなのだという
冷徹な本質が、その言葉にはっきりと現れていた。
その言葉に、コウタロウの胸の内で何かが弾けた。命がけで旅をし、
泥にまみれて戦ってきた自分たちの歩みは何だったのか。
国への至誠心よりも先に、一人の人間としての激しい憤りが彼の理性を
突き動かした。
「誰であろうと……。あの人は、この世界を良くしようと頑張る、
ただのおじさんなんです!」
彼の脳裏には、あの旨すぎるテリヤキバーガーの味と、作業着を
着た八起の姿があった。汗にまみれながら、自ら現場に立って
不具合を直し、関わるすべての人々の生活をまっとうに回そうと
必死になっていたあの無骨な背中。それこそが、神の光よりも遥かに
尊く、信頼できる現実の正義だったのだ。
「もう良い。異世界の温室育ちだとは思っていたが、ここまでとはな」
聖王は冷酷な目でコウタロウを見下ろし、容赦のない言葉を突きつけた。
「追放だ。出ていけ。どこへでも好きなところに行き、野垂れ死ぬが良い」
拍手は完全に消え去り、冷ややかな視線だけがコウタロウに突き刺さる。
かつて国を救う英雄として祭り上げられていた少年への、
あまりにも一方的で無慈悲な宣告。
(おかしい、どうしてわかってくれないんだ。追放って……)
コウタロウは、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われていた。
頭の中が真っ白になり、視界が激しく歪む。
(問題が解決すれば、地球に返してくれるはずじゃないのか……)
元の世界に残してきた家族の顔や、平凡だったはずの日常の記憶が
脳裏を駆け巡る。帰還の約束さえもが最初からまやかしだったのだと
突きつけられ、彼はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
混乱するコウタロウは、隣にいたセシリアの強い力で抱えられ、
そのまま謁見の間から城外へと連れ出された。
近衛兵たちに冷たく背中を押され、宮殿の重い扉が閉まる。
一行はひとまず、城下町の中央にある大きな広場へと戻ってきた。
周囲を見渡せば、白亜の美しい建物が立ち並び、
表面上は豊かな国のはずだが、行き交う人々の表情はどこか暗く、
活気が薄れている。
魔王国の宿場町で見た、民たちが額に汗して現金を稼ぎ、
美味いものを食って目を輝かせていたあの熱量とは、
根本的に何かが違っていた。
生気を欠いた空気だけが、この美しい街を覆っている。
「みんな、とりあえず一度家に帰ってくれ。僕のことは大丈夫だから」
コウタロウがそう促すと、三人は暗い表情のまま、重い足取りで
それぞれの家へと帰っていった。
彼女たちは国内でも由緒ある家柄の出身であり、コウタロウとは違い、
追放などありえない。
それぞれの家族や地位、守るべき絆がある彼女たちを、
これ以上自分の理不尽な運命に巻き込むわけにはいかなかった。
広場に一人残されたコウタロウは、地面を見つめたまま、
その場にしゃがみ込んだ。
冷たい風が広場を吹き抜け、彼の孤独をさらに際立たせる。
故郷へ帰る道すら、完全に閉ざされたことになる。
胸の奥に渦巻く理不尽さと、孤独感に身を苛まれながら、
彼は必死に頭を巡らせた。
すべてを失い、世界のどこにも居場所がなくなったような絶望。
しかし、彼の心の中に残されたあの『テリヤキバーガー』の
温かさと、現場で奮闘する八起の言葉が、彼の魂の底にある
火をまだ消させはしなかった。
このままここで朽ち果てるわけにはいかない。ふと、自分たちを
ここまで運んできた馬車のことを思い出す。国境を越えて自分たちを
送り届けてくれた、あの実直な御者の顔が脳裏に浮かんだ。
まだ、あの御者と馬車は魔王国へと引き返してはいないはずだ。
あそこに戻れば、あの泥臭くも圧倒的に誠実な世界がある。
八起のいる、あの魔王国なら――。
「……魔王国に行こう」
コウタロウはぽつりと決意を口にすると、地面を蹴って立ち上がった。
絶望に沈んでいた彼の瞳に、明確な進むべき光が宿る。
まだ近くにいるはずの御者と馬車を探すため、
彼は人混みの向こうへと走り出した。




