第七十三話 王様と照り焼きバーガー
卓上を支配する張り詰めた沈黙の中、冷えた炭酸水の入った
ガラスコップの表面を、無数の結露が静かに滑り落ちていく。
先ほどまで貴族としての品格を忘れ、一心不乱に
テリヤキバーガーを貪り尽くしていた使節団の役人たちは、
今は完全に一国を背負う冷徹な官僚の顔に戻っていた。
彼らの視線は、長机の中央に厳かに置かれた、金色の紐で
縛られた羊皮紙――隣国の王の親書へと注がれている。
魔王国の頭脳であるゼフェルが提示した条件は、
隣国国内に『製造・整備ギルド』を設立し、
インフラの実務を現地民に握らせるという、
他国への完全な「利便性の開放」だった。
独占による経済侵略を懸念していた使節団にとって、
それは予想を遥かに超える、あまりにも合理的で、
かつ懐の深い提案だった。
隣国を代表する重鎮であるレオンハルト辺境伯は、
彫刻のように深く目を閉じ、ゼフェルの言葉の裏にある
意図を咀嚼するようにじっと動かない。
沈黙が長引けば長引けるほど、応接室内の空気は密度を増し、
重苦しくなっていく。
だが、そんな高尚な政治的駆け引きや水面下の探り合いに、
しびれを切らした男がここに一人いた。
俺は椅子の背もたれからゆっくりと上体を前に傾けた。
政治的な礼節も、外交上の配慮も一切ない、ただの現場上がりの
職人としての無骨な声が、静寂を切り裂くように響き渡る。
「辺境伯。で、王様はどうしたいんだ?」
あまりにも不作法で、しかし核心を突いた直球の問いに、
使節団の役人たちが一斉にびくりと肩を震わせた。辺境伯は
鋭い視線を向けたまま、何も言わずに次の言葉を待っている。
背後に控えていたルナリアが「おじさん……っ」と小さく息を
呑む気配がした。いくら現魔王とはいえ、
他国の使節団を相手に、ここまで傲岸不遜な態度を取る者は
この世界にはいない。
だが、現場を回す人間の本音はこれしかなかった。
俺は構わず言葉を続けた。
「悪いがあんたらの都合で、こっちは止まってられないんだ。
言い方を変えれば、俺は国のお偉いさんの事なんて、
これっぽっちも考えてねえ」
使節団の役人たちの間に、明確な動揺が走った。
無礼だと憤慨するよりも先に、八起の体から放たれる、
数々の難問をくぐり抜けてきた者にしか纏えない圧倒的な
威圧感に気圧されているのだ。
「空腹状態じゃ、生きていくための気力なんて湧かねえ。
その日暮らしが精一杯だ。死ななきゃ儲けもんだなんて
諦めてるような、そんな国に価値なんてねえんだよ」
一つ一つの言葉は、洗練された外交辞令などではなく、
埃にまみれて汗を流してきた現場人間の「本音」という名の
重い弾丸だった。それが、使節団の面々の胸へと深く
突き刺さっていく。
彼ら自身、自国で仕事にあぶれ、飢えに苦しむ底辺の領民や
冒険者たちの姿を、嫌というほど目の当たりにしてきたからだ。
「この国はこれからもっと潤う。巨ジャガだけじゃ
ねえ、美味いもんを腹いっぱい食って、新しい仕事で稼いでな。
そうなった時、あんたらの国はどうなる?」
俺は、コツ、と人差し指の先で長机を軽く叩き、辺境伯の
目を真っ直ぐに見据えた。
「こっちのインフラを警戒して突っぱねるのは勝手だ。だが、
その間に魔王国はどんどん先に進むぞ。気がついた時には、
民の豊かさに絶望的な差がつく。飢えたあんたらの国の民が、
こっちをどう見るか……それくらい分かるだろ」
辺境伯の喉が、ごくりと大きく動いた。彼がナプキンを強く
握りしめた拳は、関節の骨が浮き出て白くなっている。
魔王国による軍事的な侵略や、経済的な隷属。そんな未来の
心配よりも、圧倒的なインフラと豊かさを前にして、
自国が何も変われぬまま、飢えと格差によって内側から勝手に
崩壊していく恐怖――それこそが、今この瞬間に突きつけられた、
最もリアルで、最も避けがたい最悪の結末だった。
室内に、再び重苦しい沈黙が流れる。
役人たちは一斉に顔を見合わせ、その額からは冷や汗がにじみ
出ていた。八起の言う通り、この提案を断れば、隣国は
時代に取り残され、勝手に自滅の道を歩むことになる。拒否権
など、最初から使節団には存在しなかったのだ。
やがて、沈黙を守っていた辺境伯が、ゆっくりと机の上の
親書へ手を伸ばした。羊皮紙を開き静かに差し出す。
その顔から強張りが消え、代わりにすべての迷いを吹っ切った
ような、一人の男としての晴れやかな笑みが浮かぶ。
「……八起殿、我が王の言葉を代弁しよう。王は、この美味い
テリヤキバーガーを我が国の民にも食わせたい、と仰せだ。
貴殿の言う通り、飢えは国を滅ぼす」
辺境伯の顔に、すべての迷いを吹っ切ったような、
男らしい笑みが浮かんだ。
先ほどまで飲んでいた特製コーラのガラスコップを見つめ、
フッと口元を緩める。
「我がレオンハルト領を最初の拠点とし、物流網と通信の
共同運用を即座に開始する。王の親書には、その全面的な承認と、
関税の優遇措置が記されている」
その言葉を聞いた瞬間、隣で控えていたゼフェルが、完璧な礼を
取りながら俺に向かって小さく頷いてみせた。
隣国の最高権力者の胃袋を掴み、その実利と恐怖を同時に
突きつけることで引き出した、破格の好条件。
他国の政治や歴史に疎い何でも屋のおじさんが、現場の理屈だけで
国家間のパワーバランスをひっくり返し、二国間の経済協定を
これ以上ない形で完全妥結へと導いた瞬間だった。
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