第四十四話 腐敗と発酵は同じもの
大いに盛り上がった昨晩の謝肉祭から、早くも一夜が明けた。
魔王城の自室でベッドに寝転びながら、八起はぼんやりと昨夜を
思い出していた。
「いやぁ、それにしても美味かったなぁ……」
思い返せば、あの巨体で襲いかかってきたドラゴンの肉だ。
戦っている最中は生きた心地もしなかったが、いざ焼いて
食ってみれば、これが絶品。見た目から、地球でいうワニみたいな
味を想像していたのだが、実際に噛み締めるとダチョウの肉に
近い、引き締まった旨味があった。
あれだけの上質な赤身肉なら、いくらでも腹に入ってしまうという
ものだ。
「……ただなぁ、あそこまで肉が美味いと、どうしても
欲しくなっちゃうよなぁ」
そう、五臓六腑に染み渡るような、キンキンに冷えたビール。
あの黄金の炭酸水さえあれば、昨夜の祭りはもっと最高なものに
なっていただろう。だが、この異世界にそんな気の利いた
文明の利器があるはずもない。
「無いものはしょうがない、か。一歩ずつ作っていくしかねぇな……ん?」
独りごちた瞬間、鼻腔を奇妙な匂いが掠めた。
ツンと鼻を突くような、かすかな腐敗臭。
「げっ、嘘だろ……。まさか俺の足の臭いか……?」
さすがに五十のオヤジともなれば、加齢臭だの何だのと気にする
年齢だ。慌てて自分の足を引っ張って嗅いでみたが、そこから
漂っているわけではないらしい。
匂いの発生源は、部屋の片隅。元宝物庫であるこの自室に、
前魔王が趣味で集めまくった怪しいガラクタが山積みにされている
奥の方だった。
「おかしいな。生ゴミなんて放置した覚えはねぇんだが……」
八起はベッドから起き上がり、作業着の袖をまくってガラクタの
山へと近づいた。よく見ると、奥の壁際に立てかけてあった
古い武具や調度品が、何本か不自然にバタバタと倒れ込んでいる。
「あー……。さては『ギガント改』を発進させた時の、あの
凄まじい衝撃か。あの激しい揺れのせいで、まとめて倒れちまった
んだな」
合点がいった。だが、問題はその倒れた中に紛れていた、一本の
古い剣だ。いや、正確には「鞘に入った折れた剣」である。
倒れた拍子に衝撃が加わったのだろう、
鞘から中途半端に折れた刀身が、鞘から数センチだけ覗いていた。
刀身が剥き出しになった途端、部屋に充満する腐敗臭が明らかに
強くなった。
「うわっ、やっぱり原因はこれか!」
慌ててその剣を拾い上げ、折れた刀身を鞘の奥へと押し戻した。
すると、どうだろう。あれほど不快だった
強烈な臭いが、嘘のように消え失せた。
「ふぅ……。とんでもねぇ呪い武器だな、こいつは」
鞘に視線を落とすと、頭の中にこの剣が持つ秘められた能力が、
知識としてじわりと浮かび上がってくる。その能力は明確だ。
『切りつけた対象に、腐敗を与える』
もしもこの剣が折れていなければ、かすり傷一つでどんな物も
腐らせる、まさに厄災級の代物だったのだろう。幸いにも今は
ポッキリと折れているため、漏れ出す魔力もその効力も、
ごくごく微々たるものに退化している。だからこそ、倒れて少し
鞘が抜けた程度では、部屋が少し臭うくらいで済んだのだ。
「……待てよ? 切りつけた物を、腐らせる……だと?」
八起は鞘を握りしめたまま、その場にガタッと立ち上がった。
脳裏に、前世の地球で培った雑学が火花を散らす。
腐敗。それは物質が微生物によって分解され、悪臭を放つ現象だ。
だが、人間にとって有益な形で物質が分解される現象を、
地球ではこう呼ぶ。――『発酵』、と。
「おいおいおい、もしかして……。これを使えば、アレが
作れるんじゃないか!?」
材料なら、すでに手元に揃っている。あの優しいインフラで
油を搾り取った後の大豆。そして、この世界でも普通に手に入る塩。
大豆と、塩と、この剣がもたらす『腐敗』。あとは、あれさえあれば……!
「よし、善は急げだ!」
こんな危ねぇ代物を持ち歩くわけにはいかねぇ。
俺は折れた剣を工房にある頑丈な箱へ放り込み、
勢いよく部屋を飛び出した。
向かう先は、魔王城の城下町。お馴染みの高級商人、
ガルード・ベルモンドの店だ。突然、作業着姿の
俺が息を切らせて目の前に現れたものだから、ガルードは椅子から
転げ落ちんばかりに驚いた。
「や、八起様!? ど、どうされたのですか、そんな血相を変えて!
お呼びいただければ、いつでも私が城へと登城いたしましたのに!」
「いや、そんな時間すら惜しかったんだ。ガルード、急ぎで
聞きたいことがある!」
ガルードの肩をガシッと掴み、真剣な眼差しで問いかけた。
「お前の商会で……『小麦』は扱ってるか!?」
ガルードは目を瞬かせた。だが、そこは百戦錬磨の高級商人だ。
こちらの切迫した様子から、瞬時に何かを察したらしい。
「小麦、ですか? ええ、もちろんございますとも。
上質なものが、ちょうど倉庫に届いたばかりです」
そこまで言うと、ガルードの唇が、ニィッと深い笑みの形に歪んだ。
「ふふふ……。また、素晴らしい商売の匂いがしますな、八起様」
「話が早くて助かる。少しでいい、分けてくれねぇか?」
「ぜひお持ちください。これからの大儲けに比べれば、小麦など
安い投資です!」
ガルードは快諾し、すぐに使用人へ命じてずっしりと重い小麦の
大袋を一つ、手際よく用意してくれた。
「ありがてぇ、助かる!礼はまた後でな!」
小麦の袋を肩に担ぎ、疾風のごとく再び魔王城へと引き返した。
一度自室に戻って鉄箱から折れた剣を回収し、城の調理場に
駆け込む。必要な道具をテキパキと並べていった。
まずは、魔改造圧搾機で油を搾った後の大豆(おからや丸大豆の
ブレンドだ)。そこにガルードから分けてもらった小麦。
さらに、これらを調和させるための塩水。これらをすべて
放り込むのは、かつてマヨネーズ製造のためにフル稼働させた
あの『錬金小釜』である。
「よし、舞台は整った」
ゴクリと唾を飲み込み、手元に用意した『腐敗の折れた剣』を
抜き放った。本来なら、何ヶ月、何年もかけてじっくりと
熟成させるべき狂気の工程。それを、この錬金小釜の術式と、
折れた剣が放つ微弱な「腐敗の魔力」によって、超高速で
強制的に進めようというのだ。
「頼むぞ、上手くいってくれ……!」
折れた剣の刀身を釜の中へと浸し、ゆっくりと、しかし確実な
手つきで中身をぐるぐるとかき混ぜ始めた。釜の底から、
魔力の粒子がじんわりと湧き上がってくる。
剣から放たれる腐敗の力が、大豆と小麦、そして塩水へと
均等に混ざり合っていく。ツンとした不快な臭いが一瞬だけ
立ち込め、思わず顔を顰めた。だが、次の瞬間。
錬金小釜の不思議な光がパッと弾け、その臭いは、
劇的な変化を遂げたのだ。
「こ、これは……!?」
鼻腔を抜けたのは、どこか懐かしく、香ばしく、そして魂を
激しく揺さぶる、あの特有の芳醇な香り。釜の中を覗き込めば、
ドロリとした美しい暗褐色の液体が、静かに揺れていた。
あらゆる食材の味を底上げし、世界を塗り替える究極の
万能調味料。
「できた……。本当にできちまった……!」
異世界の片隅、魔王城の調理場にて。ついに、我が故郷の味――
『醤油』が爆誕した。




