第百十六話 ルナリア・アイゼン
「だ、大丈夫……。頭に何かいろいろ浮かび上がってきて、
めまいがしただけだから。セシリア、まだ今の使える?」
ルナリアはセシリアに支えられながら、どうにか声を絞り出す。
「他の人たちにですね、行けます。
ガルードさん、ルナリアさんを馬車に」
セシリアはガルードにルナリアを託した。
愛獣のサンに飛び乗ると、群衆の中へ駆け出す。
人々は虚ろな目のまま立ち尽くしていた。
「シャット!」「シャット!」
セシリアが数度『柄』を使用する。
周囲5歩の効果範囲は広くはないが確実に支配解除は広がっていった。
波動を受けて倒れかけていた人々は、次々と我に返る。
すべての人々の精神支配が解除されたのだ。
馬車に移動したルナリアの元へ、ガルードが深刻な面持ちで近づいてきた。
「ルナリア様、レオンハルト様に連絡いたしましょう。
この度の式典への出席は中止すべきです。
これ以上の危険は冒せません」
「いいえ、これは国家間の重要な式典です。
こんな事で中止にしては、今後の外交にヒビが入りかねません。
私は大丈夫なので、このまま目的地へ進みましょう」
ルナリアは蒼白な顔を上げ、毅然と言い放つ。
そこへ群衆の対処を終えたセシリアが戻ってきた。
「ルナリアさん、全員の解除は終わりました。
この人たちは護衛隊に任せて下さい。
一部を残して、私たちはこのままご一緒します」
こうして一行は、最悪の窮地を脱した。
馬車が再び動き出す中、
ルナリアは激しく揺れ動く己の内面と戦っていた。
(あの記憶は……私の……? 精神魔法を受けていた……?
いつから……? 私の世界は、ここじゃない。
まだはっきりしないけど、私も……召喚者だった……?)
脳裏に、この世界のものとは思えない景色が浮かぶ。
見慣れぬ断片的な光景が現れては消えていった。
「ルナリア様、どうかいたしましたか?
やはり、具合がよろしくないのでは?」
ガルードが心配そうに覗き込んでくる。
「少し休めば大丈夫です。
おじ……八起様には、私から直接ご報告いたしますので。
お気遣い、ありがとうございます」
ルナリアはどうにか笑みを浮かべ、それ以上の追及を遮る。
幸いにも、この後は再び信者の妨害に遭うこともなかった。
商隊は無事に目的地へと到着する。
「遠方よりご足労いただき、ありがとうございます。
この度は我が領民の愚行により、ご迷惑をおかけしました。
式典まで日数がありますので、どうか長旅の疲れを癒してください」
出迎えたレオンハルト辺境伯は、
魔王国の使節団に対し深々と頭を下げて謝罪した。
この街ではまだ聖法国の布教は活発ではない。
今回の街道封鎖によって、
初めてその脅威が公の問題になったようだった。
辺境伯領には特別な天然の温泉があった。
一般的には解放されていない場所だ。
国賓待遇であるルナリアは、最優先で案内される。
(温泉なんて久しぶり……。
前に入ったのは、一体いつだったかしら……)
案内されたのは、岩肌に囲まれた簡素な露天風呂だった。
湯気が立ち上る中、周囲の警備には女性兵士だけが配されている。
辺境伯側の細やかな気遣いが感じられた。
ここには魔族も人族も関係ない。
確かな信用と信頼が存在していた。
服を脱ぎ、ゆっくりと湯船に身を沈める。
「はぁ~……これよ、これ。癒されるわぁ……」
温かい湯が、こわばっていた身体と心を解きほぐしていく。
ルナリアは湯をすくい上げながら、
先ほど脳裏をかすめた違和感に意識を向けた。
「……私、この世界に来てどのくらい経ったのかな。
お父さん、お母さん……。あ、あれ……?
お父さん……? お母さん……?」
声に出した瞬間、心臓が冷たくなる。
両親の顔が、まったく思い浮かばない。
名前も、どんな声だったかも思い出せないのだ。
大切な記憶が、綺麗に抜け落ちている。
「……え? っていうか、私、いくつ……!?
何歳なの!?」
重要なことは他にも山ほどあるはずだ。
しかし、自身の年齢が何歳なのかさえ分からなくなっている。
その事実に気付き、ルナリアは湯船の中でひどく慌てるのだった。




