第六話「ゆらぎ」
私の問いかけに、姿勢を正した九条さんは少し逡巡してから口を開いた。
「……理由はひとつではないんですが、大きな理由のひとつとして」
彼はそこで一旦、一呼吸置いた。
「自分でも説明しきれないまま、残っているものがあるんです」
……初めて、彼の感情が見えた気がした。
眉間にシワが寄る。
「説明しきれずに残っているものですか?」
「はい。私自身の問題になるので……あまり人に話すべきではないんですが」
ずいぶんともったいぶる。言いたいことが分からない。
けれど、契約を成立させるなら、この『目的』は無視できない。
お見合い地獄から抜け出すことが出来るなら、この『契約結婚』は私にとって渡りに船だ。
──ご破算になるのは避けたい。
どうするべきか迷っていたら、九条さんがまた軽く身じろぐ気配がした。
「端的に言えば、忘れられない人がいる。……というのが、一番近いかもしれません」
……どう、反応したら良いのかがわからなくなった。
普通に考えると、亡くなっているか、もう会えない人……?
そうして周囲からの圧力に対して、解決するために出した答えが『契約結婚』だった?
九条さんの視線は、いまだグラスに固定されたままだった。
「……その、すみません。お話しづらいことを聞いてしまいましたか?」
弁護士という仕事柄、そういう可能性があることを忘れていた。とても申し訳ない気持ちになる。
私の視線が自然とグラスに落ちていく。
「そういう話ではないんです。ただ、その人は私に人生の軸を教えてくれた人なので『特別』と言いますか……」
終始、落ち着いたトーンの声で話しているせいか、いまいち、読めない感じは拭えない。でも、九条さんが抱えているものが、ほんの少しだけにじみ出てきた気がした。
「すみません。なんだか、重い空気になってしまいましたね」
「いえ。……では、他の条件について、教えていただけますか?」」
話がそれてしまったから、もう一度条件面の話の整理に戻す。
今、提示されている条件は、今日を起点に婚約、『同棲』という名の『ルームシェア』開始、そして半年後の十一月に入籍。
その半年後に結婚式という段取りだけ。
「ええ、そうですね。ただ、そこまで厳密に決めているわけではなく。細かいことは、きちんと話し合いをして決めていこうかなと」
「それは、家の中でのことですか? 夫婦として過ごすとなる以上、また別の角度から周囲の圧力がかかると思うんですけど……」
お互いに経験している以上、外部圧力についての対応や、条件なんかを整理しておいたほうが良い気がして提案する。
「しばらくは、二人の生活を楽しみたいとでも言って誤魔化しましょう。なにか言われたら、一度持ち帰ってお互いにすり合わせをする。それくらいで十分かなと……」
「では、相談して適宜対応していく、という認識でいいですか?」
「そうですね」
思案顔の九条さんの表情が、話の内容が通じたからか、柔らかな表情へ戻っていく。
細かいことは、相談して決めていって調整、適宜対応……と。
頭の中で、まとめ直しながら視線をグラスに落とすと、手に触れるグラスの汗は引いて、ぬるくなっていた。
「それなら、まあ……なんとかなりますね」
「え? ……今、なんと?」
反応した九条さんの声が上ずっていた。
私、何かおかしなこと言ったかな?
「えっと……なんとかできそうだなと思って、そうつぶやいたんですが……」
九条さんがほんの一瞬、言葉を失ったようだった。
視線がわずかに揺れる。
……けれど、すぐに何事もなかったように整えられた。
「……そうですか」
2026.05.24 大幅改稿。




