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マリッジ・コントラクト  作者: 星つむぎ
第一章:未定義な関係

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第十五話「美味しいの共有」

 車の中は静かだった。

 エンジン音と、時折ウインカーの音だけが小さく響く。

 私は助手席で窓の外を眺めながら、さっきの自分の発言を思い返していた。


 ──一緒の部屋にはしないんですか?


 思い出した瞬間、また顔が熱くなる。

 熱くなった頬をどうにか隠そうとうつむくと、自分の左手薬指にあるものが車内に差し込む光を拾って……小さく光った。

 繊細なピンクの石が並ぶシルバーのリングだ。

 隣では、九条さんが前を向いたままハンドルを握っていた。彼の左手にも同じように、でもほんの少しデザインが違うリングが収まっている。

 表情はいつも通り穏やかだけど、なんとなく空気が硬い気がする。

 ……いや、気のせいかもしれない。


 車内の沈黙が、妙に心地良い。

 心拍数が一瞬だけ上がったのに、九条さんの安定した運転のおかげか、すっかり落ち着いてきた。


「車、酔っていませんか?」


 前を向いたまま、九条さんが静かに問いかけてくる。


「大丈夫です。九条さん、運転上手ですね」


 そう答えると、九条さんは少しだけ目を細めた。


「仕事柄、長距離移動も多いので」


 九条さんの車は、妙に居心地が良かった。

 変な芳香剤の匂いもしないし、車内も綺麗に整っている。

 以前、知人の車の強い香りに酔ってしまったことがある身としては、それだけでもありがたい。


 ──気がつけば、目的地のレストランを通り過ぎ、車は滑るように駐車場へ入っていく。




 ***




「いらっしゃいませ。二名様ですね」


 店内に入ると、まず目に入ったのが真正面のカウンター席。

 普通のレストランだと思っていたが、どうもレストラン・バーのようだった。

 店員さんの案内で、二人掛けの席へ案内される。

 九条さんに軽くエスコートされながら、席に着いた。


 メニューを見ていると、店内の奥から初老くらいの御夫婦が出てくる。

 お二人ともとても上品な装いで、でも嫌味がない。

 良いお年の召し方をされてきたと、ひと目でわかる。

 私たちの席まで来られると、九条さんへ一礼された。


「いらっしゃいませ、九条先生。いつもお世話になっております」

「こちらこそ、いつもありがとうございます。オーナー」

「今日は素敵な奥様とご来店くださり、ありがとうございます」


 六十代くらいの男性が、人好きのするいい笑顔で九条さんとやり取りを開始する。

『奥様』の言葉に、私の肩がはねてしまった。

 ……契約上なので、正確ではないのだが。


「九条先生にはいつもお世話になっておりますので、デザートと飲み物はサービスをさせていただきますね」

「いや、さすがにそれは申し訳ないので、今回は遠慮させていただきます。いつか、特別な日が来た時にはぜひ」

「なるほど。かしこまりました。では、本日のランチをお楽しみください」

「ありがとうございます」


 九条さんが会釈すると、オーナーと入れ替わりにオーナーの奥様が前に出てこられる。

 その手のトレーには、おそらくサービス品と思われる小皿が載っていた。


「こちら、試作品なのですが、九条先生と奥様にぜひ、試食していただきたくて。よろしいでしょうか?」


 小皿の上には、一口サイズに切り分けられた色鮮やかなキッシュが載っていた。

 赤や黄色のパプリカに、薄く焼き色のついたズッキーニ。

 見た目だけでも、なんとなく気分が明るくなる。


「夏野菜のキッシュになります。ランチ用に試作しているんですよ」

「せっかくなので、いただきましょう」

「はい」


 さっそく、一口食べてみる。

 タルト生地のサクサク感と、野菜そのものの甘味のバランスが絶妙で、思わず声が漏れそうになった。

 おそらく、焼き立て。

 粗熱が取れてすぐくらいの生地の食感。

 タルト生地がとても香ばしい。

 口に入れた瞬間にほろっと崩れた生地。

 温かい卵のまろやかさが、口当たりを優しくしている。


「……美味しい」


 九条さんも静かに一口を食べる。

 心持ち、満足そうな顔になる。

 無言のまま、九条さんはもう一口。

 オーナー夫妻の緊張気味だった表情が、ほころんだ。

 なんとなく、『美味しいが共有できる関係』が、良いなと感じた。

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