第十五話「美味しいの共有」
車の中は静かだった。
エンジン音と、時折ウインカーの音だけが小さく響く。
私は助手席で窓の外を眺めながら、さっきの自分の発言を思い返していた。
──一緒の部屋にはしないんですか?
思い出した瞬間、また顔が熱くなる。
熱くなった頬をどうにか隠そうとうつむくと、自分の左手薬指にあるものが車内に差し込む光を拾って……小さく光った。
繊細なピンクの石が並ぶシルバーのリングだ。
隣では、九条さんが前を向いたままハンドルを握っていた。彼の左手にも同じように、でもほんの少しデザインが違うリングが収まっている。
表情はいつも通り穏やかだけど、なんとなく空気が硬い気がする。
……いや、気のせいかもしれない。
車内の沈黙が、妙に心地良い。
心拍数が一瞬だけ上がったのに、九条さんの安定した運転のおかげか、すっかり落ち着いてきた。
「車、酔っていませんか?」
前を向いたまま、九条さんが静かに問いかけてくる。
「大丈夫です。九条さん、運転上手ですね」
そう答えると、九条さんは少しだけ目を細めた。
「仕事柄、長距離移動も多いので」
九条さんの車は、妙に居心地が良かった。
変な芳香剤の匂いもしないし、車内も綺麗に整っている。
以前、知人の車の強い香りに酔ってしまったことがある身としては、それだけでもありがたい。
──気がつけば、目的地のレストランを通り過ぎ、車は滑るように駐車場へ入っていく。
***
「いらっしゃいませ。二名様ですね」
店内に入ると、まず目に入ったのが真正面のカウンター席。
普通のレストランだと思っていたが、どうもレストラン・バーのようだった。
店員さんの案内で、二人掛けの席へ案内される。
九条さんに軽くエスコートされながら、席に着いた。
メニューを見ていると、店内の奥から初老くらいの御夫婦が出てくる。
お二人ともとても上品な装いで、でも嫌味がない。
良いお年の召し方をされてきたと、ひと目でわかる。
私たちの席まで来られると、九条さんへ一礼された。
「いらっしゃいませ、九条先生。いつもお世話になっております」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。オーナー」
「今日は素敵な奥様とご来店くださり、ありがとうございます」
六十代くらいの男性が、人好きのするいい笑顔で九条さんとやり取りを開始する。
『奥様』の言葉に、私の肩がはねてしまった。
……契約上なので、正確ではないのだが。
「九条先生にはいつもお世話になっておりますので、デザートと飲み物はサービスをさせていただきますね」
「いや、さすがにそれは申し訳ないので、今回は遠慮させていただきます。いつか、特別な日が来た時にはぜひ」
「なるほど。かしこまりました。では、本日のランチをお楽しみください」
「ありがとうございます」
九条さんが会釈すると、オーナーと入れ替わりにオーナーの奥様が前に出てこられる。
その手のトレーには、おそらくサービス品と思われる小皿が載っていた。
「こちら、試作品なのですが、九条先生と奥様にぜひ、試食していただきたくて。よろしいでしょうか?」
小皿の上には、一口サイズに切り分けられた色鮮やかなキッシュが載っていた。
赤や黄色のパプリカに、薄く焼き色のついたズッキーニ。
見た目だけでも、なんとなく気分が明るくなる。
「夏野菜のキッシュになります。ランチ用に試作しているんですよ」
「せっかくなので、いただきましょう」
「はい」
さっそく、一口食べてみる。
タルト生地のサクサク感と、野菜そのものの甘味のバランスが絶妙で、思わず声が漏れそうになった。
おそらく、焼き立て。
粗熱が取れてすぐくらいの生地の食感。
タルト生地がとても香ばしい。
口に入れた瞬間にほろっと崩れた生地。
温かい卵のまろやかさが、口当たりを優しくしている。
「……美味しい」
九条さんも静かに一口を食べる。
心持ち、満足そうな顔になる。
無言のまま、九条さんはもう一口。
オーナー夫妻の緊張気味だった表情が、ほころんだ。
なんとなく、『美味しいが共有できる関係』が、良いなと感じた。




