第十一話「人間臭さ」
すべてがスマートに進んでいき、気がつけば私は一切くちを挟むことがないまま、蒼彩堂を出ていた。
私、あの店に何をしに行ったんだっけ?
左手の薬指に当然のように収まってしまった、ペアリングの冷たさが現実を伝えてくるけれど、実感は何も湧いてこない。
車まで九条さんと普通に手を繋いでいるけれど、気分的には『連行される犯罪者』。
自然と助手席へエスコートされ、九条さんが静かにドアを締める。運転席にまわった彼は、準備を整えて車を発進させた。
「婚約指輪が完成したら、連絡をくれるそうです。楽しみですね」
「はあ……」
ため息みたいな返事しかできなかった。
「……大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。……あまり実感のないまま、ここまで来てしまっているので。気持ちが追いついていなくて」
そう言うと、九条さんは少し戸惑った様子を見せる。ほんの少しの反応だから、見間違いの可能性もあるけれど……。
「すみません。僕も少し、浮かれてしまっていたかも知れない。……強引でしたね」
「あ、こちらこそ、すみません。緊張する環境だったので、ずっと気を張っていて……ちょっと余裕がなかったと言うか」
車内を静寂が支配する。エンジンの音だけが、妙に心地よく響いていた。
シートの座り心地もそうだけれど、この車、すごく静かで居心地の良い空間になっている。
「……そう言えばこの車、かなり静かなんですね。ロードノイズって言うんですか? そういうのがあまり気にならないというか」
そうつぶやくと、九条さんの口角がゆるく上がった。
「子どもの頃から車が好きだったんです。弁護士になれなかったら、ロードレースの世界に行きたかったくらいには」
九条さんの、少し意外な一面。
初めて会ったときから、今この瞬間まで、どこか『人間味』が薄い人だと思っていた。
なのにここに来て急に、彼の『人間臭さ』が顔を出す……。
「そうなんですね」
「ええ。でもある人の行動を見て、弁護士を目指すことに全力を注いだんですよ」
例の『忘れられない人』なのだろうか?
そうまでして叶えたかった、『弁護士になる』という夢──。
「私もなんとなく分かります」
「ああ確か、司法書士を目指していらっしゃるんですよね? 釣書にも書いていましたし、柳田先生からもうかがっています」
「はい。昔……と言っても、そこまで前の話ではないんですが。柳田先生に助けていただいたことがあって、その時に……」
あれから十年も経過していないのに、遠い記憶のような感じがする。それだけ抱えていた傷が、癒えてきているということ?
考えていると隣で静かに、スマホのバイブ音が聞こえた。
「すみません。電話が鳴っているので、少し路肩に寄せますね」
「はい」
仕事の電話だろうか。
弁護士という仕事は、休みの日でもクライアントから相談の連絡が入ることがある。
込み入った話なのか、九条さんの表情が少し……硬くなった。
私は助手席で座っているだけなので、手持ち無沙汰になっている。
電話の内容は詳細が聞こえることはなかったけれど、電話口の相手へ書類の準備を指示して、九条さんは通話を終えた。
「すみません。このあと、ランチに行こうと思っていたんですが、クライアントから依頼が入ってしまって……」
「そうなんですね。それなら、お仕事を優先してください。九条さんじゃないと相談できないから、連絡されてきたんだと思いますし」
優先されるべきは私じゃなくて、困っている依頼人だ。
「最寄り駅までお送りします。急なことで、予定が狂ってしまってすみません」
「そこまでは申し訳ないので、ここで降りますよ」
ここからなら、最寄り駅まで歩いていける。さほど遠い距離でもないし、散歩がてら帰れると断った。
でも……。
「ダメです。駅まで送ります」
断固拒否された。
押し問答になるのは……面倒だ。仕方ない。
「分かりました」
私は素直に、助手席へ収まる。
──あ、お昼。どうしようか?




