9話 自分で何とかするしかないんです
ぐらり、と視界が歪んだ。
頭に流れている血液がさっと引いたような感覚が流れて、一瞬、頭が真っ白になった。
倒れそうになった体を踏ん張ってこらえる。
思考が戻る。堰き止められていた思考が一気に、どんどんと溢れだした。
なんで? どうして?
あの二人に接点なんてないはずだ。加奈子は紫音ちゃんに仁志君のことを話したりしていない。クラスは別だし、まだ学校のイベントでも関わる機会なんてなかったはずだ。少なくとも夏休みに入る前までは一切関りなんてないはずだ。
夏休みに入る前までは。
それが答えだ。夏休みに入った後、いや、そうじゃない。紫音ちゃんが部活を辞めた後。それから夏休みが明けるまでの短い間で二人は知り合ったのだ。
「どうしたの?」
優花ちゃんが首をかしげる。彼女は紫音ちゃんの姿が見えていないのかもしれない。
村田さんと新谷さんは相変わらず困惑した表情をしている。
「な、なんでもない」
紫音ちゃんが仁志君の肩を叩く。仁志君が冗談でも言ったのだろうか。叩かれた仁志君はお返しとばかりに紫音ちゃんのお腹をつついた。
なにその距離感。
会ってから一か月もたってないはずなのに、それはおかしい。いや、二人なら不思議でもないか。仁志君も紫音ちゃんも人怖じしないタイプだし、いったん心を開けばすぐに仲良くなれるだろう。
わかるよ。二人とも良い人だし。
けどさ。
なんであの二人なの? 部活を辞めた紫音ちゃんは仁志君と仲良くなってて、部活を続けた私はそれを眺めてるだけ。これじゃ私がバカみたいだ。
加奈子は体育館に向かう生徒の流れに合わせて、同じように体育館へと歩いた。加奈子は下を見て歩いていたが、時々顔をあげた。
そのたびに、心の奥が少しチクチクと痛んだ。
始業式が終わり、放課後。
加奈子はバスケ部へと向かった。
これまでと何も変わらず、いつも通りに練習をしようと考えたのだ。
「加奈子! 何やってんの!」
如月先輩からお叱りの声が飛ぶ。
誤解しないでもらいたいが、如月先輩が声を荒げることはずいぶん減っていた。紫音ちゃんとのことがあってから、自身で顧みることがあっただろう。
その彼女がこうして声を荒げるのには理由があるのだ。
練習の大詰め、五対五のチーム戦の際、加奈子が味方からのパスを受け損じたのだ。勢いが強いわけでもない普通のパスだ。それを加奈子は指で弾いた。「あ」と気づいた時には敵チームの田宮キャプテンがボールを奪い去っていた。そしてそのまま、ゴールを決められた。
完全に加奈子のミスだ。
ぼーっとしていた。それ以外に点を決められた原因はない。
「すみません。気をつけます!」
加奈子は頭を下げた。
この練習の最中、加奈子はずっと様子がおかしかったのだ。いつもなら止められる相手のドリブルを止められなかったり、出だしが遅れてボールを奪われることもあった。
ただそれは、他人から見れば調子が悪いだけにも見える。誰しもあるはずだ。身体は健康のはずなのに、妙に体が動かしづらいという時が。チームメイトはそう考えて「どんまいどんまい」、「気にしないで」と優しい言葉をかけていたのだ。
しかし、味方のパスを受け止められないのは話が変わってくる。練習に集中していればそんなミスは起こりえない。
「集中できてないよ。気合入れて」
如月先輩がため息を吐いた。
その後も、加奈子はやはり身が入らずミスを連発した。
練習が終わると、全員で円状に並んだ。軽いミーティングのためだ。何か部活動について意見があればこの場で話すことになっているのだ。
真面目なことを話すこともあるが、ほとんどが「駅前の新しいカフェがお洒落でよかった」とか「中間テストがだるすぎて泣きそう」、「インスタでさー。めっちゃ可愛い子いて」などの雑談の場になっている。
今日は「夏は地球温暖化を止めて、冬は地球温暖化を進めよう」という話題で数分盛り上がり、最後にキャプテンの言葉で締めくくられた。
「そんなわけで。今日から新学期が始まる。部活はこれまで通り毎日やろうと思ってるから。みんな、よろしく」
はい、という声が重なり合う。元気な返事を聞いたキャプテンが「よし、解散」と号令をかけると各々散っていった。
加奈子はお手洗いに行ってから着替えようと思って、みんなとは別の方向に歩いて行った。
「加奈子、待って」
田宮キャプテンだ。
加奈子が振り返ると、キャプテンがキュキュとバッシュを鳴らして止まった。
「なんか悩んでる?」
「いえ、別に。大丈夫です」
「大丈夫、にはちょっと見えなかったかな。何かあったでしょ」
田宮キャプテンは加奈子を心配してくれているのだ。
それはありがたいことだが、同時に迷惑でもあった。加奈子が悩んでいることは田宮キャプテンに言ったところで解決するようなことではない。
それに、この悩みは加奈子の内面に深くかかわることだ。それほど仲の良くない先輩に相談することは気が引ける。
「これは、私が自分でなんとかするしかないんです。そういう種類のものです」
「……私じゃ力不足ってこと?」
「違います。そういう話ではなくて、なんというか……」
それ以上、うまくかわせる言葉を加奈子は思いつかなかった。諦めて、加奈子は黙った。申し訳なさそうに頭を若干下げて、上目遣いで先輩を見る。察して、察して、と念を送っているのだ。
「はあ。まあいいけど。でも加奈子ちゃんまで辞めないでね。加奈子ちゃんは守りの要なんだから」
「わかりました」
頷くと、キャプテンは加奈子の肩を軽く触れて、体育館を後にした。
キーンコーン、とチャイムが鳴る。最終下校時刻の十分前を知らせるチャイムだ。夕暮れは沈み始め、月が夜空を連れて顔を覗かせ始めている。
誰もいない体育館の空気は蒸し暑く、加奈子の身体にまとわりつく。
ああ。
「めんどくさい」
加奈子は無性にイライラとした。体育館を出ようとしたところで、トイレに行こうとしていたことを思い出す。
急いでトイレを済ませると、加奈子は部室で制服に着替えた。運動部の生徒は体操服のまま帰る生徒も多いが、加奈子は汗の匂いが気になるので制服に着替えるようにしている。
部室を出る。加奈子が最後なので鍵を職員室に返して、学校を出た。
夏休み明けでまだ明るい空を眺めながら、加奈子の頭はぐるぐるとした思考の渦に飲まれていた。
仁志君と紫音ちゃんのことだ。バスケ部のことなんかよりも、加奈子にはもっと大事なことである。
あの二人が付き合ってたりなんかしたら、加奈子は耐えられないだろう。
色々、思うことがある。
仁志君の笑顔を引き出した紫音ちゃんへの嫉妬。
部活を続けるという判断が間違っていたのかもしれない、という不安。
いや、もし辞めたとしても結果は変わっていなかっただろうという、諦観。
そして何よりも、仁志君が自分のことを好きではなくなったのだという、寂寥。
気づけば、空は暗んでいた。加奈子は「まるで私の心みたいだ」と思った。
いや、と鼻で笑う。自分は空のように美しくなんてない。
晩ご飯を食べて、自室のベッドで寝転びながらスマホを弄っていると、ふと加奈子は思った。
仁志君に直接聞けばいいんじゃないだろうか。
お風呂に入って、汗を流しても頭の中のぐるぐるや胸の中の黒い物は流れてくれなかった。お母さんが作る美味しいご飯を食べても、やはり、だめだ。
なぜなら、何をしたってこれは消えないのだ。消す方法はただ一つ。
すべてを明らかにするのだ。そうすることでしかこれは解決することができない。




