8話 もう決めたから
そうして臨んだ全国大会地区予選一回戦。
結果は。
加奈子のチームが三十八点なのにたいして、相手のチームは七十点。
ほとんどダブルスコアをつけての大敗だ。
その原因は明らかだった。向こうの中学のパワーフォワードだ。彼女も加奈子たちと同じ中学一年生だった。
「あんな奴がいるなんて、聞いてない……!」
地区予選会場の体育館に併設されてある水飲み場で紫音ちゃんは縁を殴った。そんなことをしても拳を痛めるだけで、蛇口から流れる水はそれまでと変わりなく流れ、ただ跳ねる。
あんな奴、とは相手チームのパワーフォワードを指している。背番号十番の彼女の名は、岡田麻織。
この辺りの同学年のバスケの強者のことなら頭の中に入っている。その誰にも自分が負けていない自信が紫音ちゃんにはあった。一回戦くらい軽く突破できるだろうと思って、今日は試合に臨んでいたのだ。その鼻っ柱を見事に叩き折られた。
「強かったね、あの人。岡田さん、だっけ」
彼女のことを二人が知らないのも無理はなかった。彼女は父親の転勤で今年になって転校してきたのだ。
身長百六十五センチ。肩にもかからない短髪はよく手入れされているのか試合中でも乱れる様子はなかった。
彼女の実力は圧倒的だった。紫音ちゃんを凌駕するスピードで、加奈子以上の敏捷性を持ち、高度なドリブルテクニックでボールに触れることすらままならない。
特筆すべきはそのシュート力だ。シュートコースを塞いだと思ったら、体勢を無理やり変えてゴールにねじ込むのだ。
加奈子も懸命に食らいついていた。それでも、彼女を止められたのは三回に一回くらいだけだった。
「私、バスケ部辞める」
「え?」
「こんなの耐えられない」
試合が終わった直後、味方のベンチから聞こえてきたのだ。
クスクス、という耳をつんざく音が。それは嘲笑だった。
先輩たちは加奈子と紫音ちゃんが手も足も出ない様子を見て、笑っていたのだ。
え? あんなにイキってたのに地区予選一回戦で負け?
言葉では聞こえなかったが、明らかに彼女らはそう言っていた。
彼女らにも岡田麻織の圧倒的な、圧倒的すぎる実力はわかっていただろう。仮に彼女らが試合に出ていても結果は変わらない。むしろもっと悲惨な結果になっていたかもしれない。
しかし、だからと言って、部ではあれほど強気だった後輩の無様な敗北の姿を見せられて、笑わずにはいられなかったのだ。
実際に負けたのは試合に出ていたメンバーだ。負けたのは加奈子と紫音ちゃんだ。
それはこの先どうやっても覆すことのできない事実だ。次に結果を出すまでその事実を消し去ることはできないだろう。
「え、なんでそうなるの?」
「なんでわかんないの!? これから私たちは笑いものだよ。試合に出れないくせに、自分らが出てても負けたくせに、そんな人たちに馬鹿にされながらバスケするなんて、私には耐えられない!」
「それは――」
加奈子は次の言葉を探せていなかった。
紫音ちゃんが憤りのもわかる。先輩たちはきっと紫音ちゃんの言う通り、加奈子と紫音ちゃんを馬鹿にするような態度をとるだろう。
だから辞める。
それは理屈では正しい。何も間違っていない。嫌な人間を避けるのは当然のことだ。だから紫音ちゃんが実際に辞めてしまっても加奈子は彼女を責められない。
じゃあその後は?
前に言ってたようにクラブチームに入る?
でもそれでいいのだろうか。クラブチームに入ったら、今日のリベンジは一生できないかもしれない。部にいれば次の大会でまず間違いなく岡田麻織がいる中学と再戦することができる。
その機会を不意にするのは加奈子の本意ではない、ような気がする。
「ちょっと、もったいなくない?」
辞めなければ、可能性はある。
今年じゃなくても、一年後、二年後、自分たちの代になった時に勝てるようにすればいい。
それまで多少嫌な思いをするかもしれないけど、加奈子は耐えられる。
「加奈子はいいよね。岡田にも負けてなかったんだから」
「そんなこと……」
「そうじゃん! 私は何もできなかった。でも加奈子は違う。最初は負けてたけど、最後の方は五分くらいだった。だからそんな悠長なこと言えるんだよ!」
「紫音ちゃん……」
「……ごめん。言い過ぎた。でも、バスケ部は辞めるから。加奈子は好きにして。辞めるにしろ辞めないにしろ」
「でも――」
「もう決めたから」
その翌日。
紫音ちゃんは練習に来なかった。
自分はどうなってしまうのだろうと加奈子は不安に思っていたが、それは全くの杞憂だった。
「加奈子ちゃんは悪くないよ。これからもよろしくね」
先輩たちは、加奈子に優しかった。
加奈子は紫音ちゃんに言われて彼女についていってただけで、何も悪いことはしていない。彼女らの言い分はそんな感じだった。
つまり、先輩たちが気に食わなかったのは紫音ちゃんだけだったということだ。加奈子は紫音ちゃんに引け目を感じていたが、部活は続けることにした。
夏休みの間、部の雰囲気は一変した。殺伐とした空気が抜けたのだ。今までも練習は真剣にしていたけれど、どこかみんな棘があった。
以前はなかったパスも当然のように加奈子に入った。
加奈子はこれでよかったんだ、と思った。
紫音ちゃんとは別々に道を進むことになってしまった。でも彼女ならどこに行っても大丈夫だろう。
夏休みが明けて、二学期が始まる。
宿題はすべて終わらせている。めんどくさかったけど、やらないと先生に怒られる。
「行ってきまーす」
朝食を食べて、加奈子は家を出た。
六月の頭から袖を通した夏服はすでに体に馴染んでいる。半袖のシャツに、膝丈のスカートは薄い素材でできているが、それでも夏の熱気にはうんざりだ。
歩くだけで額や背中などから汗がとめどなく溢れてくる。首にかけたタオルで汗を拭いとる。少し暑さが和らぐが、またすぐに汗が流れてくる。
このころの加奈子は身だしなみにも気を遣うようになっていた。
服装だけでなく、スキンケアやヘアケア、匂い対策など、周りのみんなが話題に上がるようなケアは怠らないようにしていた。
最近は指の毛や、脛の毛など、体中から生えてくるムダ毛も気になってきているところだ。高校生になったらバイトをして脱毛もしたいと加奈子は思い始めていた。
「おはようー」
教室に入ると、クラスメイトがすでに登校していた。
時間は八時十五分。教室にいたのはクラスの半分くらいだろうか。その中には紫音ちゃんの姿もあった。
加奈子と紫音ちゃんの目が合った。
あ、と加奈子は手を挙げようとしたが、紫音ちゃんはプイッと横を向いてしまった。
無視された。
いや、別のクラスメイトに話しかけられたからそちらに反応しただけだろう。
紫音ちゃんが自分のことを無視するはずがない。
「おはよー加奈子ちゃん」
優花ちゃんがいつのまにか近くに来ていた。
「あ、おはよう。優花ちゃん」
「ねえねえ、この前おススメしたアニメ見てくれた?」
夏休みの間、優花ちゃんとはちょこちょこメッセージのやり取りをしたいた。
宿題のここが分からないとか、遊びの誘いとか、それから、アニメの話をした。今週の秘密道具はすごかったね、とか、前に出てた道具の方が高性能だったとか。
あと、劇場版の映画を一緒に見に行った。その時の興奮は今でも覚えている。
映画の感想を見終わった後に語り合うのはとても楽しかった。
「ごめん。まだ見てない」
おすすめされたアニメというのは、いわゆる深夜アニメだった。
タイトルだけ検索してみたら、イケメンが五人くらい集まっている画像が出てきた。加奈子はそれにあまり興味がそそられず、視聴までには至らなかった。
「そっかー。加奈子ちゃんも気に入ると思うんだけどな。気が向いたら見てみてよ。めっちゃ面白いから!」
「うん」
了承したが、加奈子がそのアニメを見ることは無いだろう。
やがて担任の先生がやってきて、出席を取った。
それが終わると始業式が始まるため、全校生徒は体育館へと移動する。
その時に紫音ちゃんに話しかけようとしたが、彼女はすでに教室にはいなかった。
移動の時は優花ちゃんと、二人のクラスメイトと一緒に移動した。
村田沙耶ちゃんと、新谷真子ちゃんという二人だ。彼女たちは穏やかな性格をしていた。村田さんはアニメが好きで、新谷さんは美術部で絵がうまい。
彼女が描いた夏休みの宿題の絵を見せてもらうと、加奈子は「やば」と思わず呟いてしまった。彼女の絵は美術的なうまさとでも言うのだろうか。漫画やイラスト的なタッチではなく、美術の教科書に載っている絵に近い。
絵のことなどさっぱりな加奈子にでもわかるくらいに彼女の絵には迫力と魅力があった。
彼女らと行動していると、紫音ちゃんとのことを忘れられそうで少し気が楽になった。
「あ」
と呟いたのは加奈子ではなく、優花ちゃんだった。
彼女の視線の先にいたのは、仁志くんだった。彼は誰かと楽しく話をしていた。上半身を揺らして、歯を見せて笑っている。昔、加奈子がよく見てた仁志君の笑顔だ。今はもうこうして遠くから眺めていることしかできない。
でも、本当にそうだろうか。
加奈子がこれから仁志君に声をかけて、あの時は断ったけど、私も本当は好きなの。だから付き合ってほしい。そう言えば仁志君は受け入れてくれるのではないだろうか。
虫のいい話だとは加奈子も思う。自分から断っておいて、拒絶しておいて、やっぱり付き合ってほしいなんて。
わかってる。わかってるけど、許されるなら加奈子は仁志君とまた付き合いたいのだ。
そうなるためには行動するしかない。でも、やっぱりそんな勇気は加奈子にはなかった。
優花ちゃんが「しまった」という表情で加奈子の横顔を覗いた。
彼女は加奈子と同じ小学校だったので、加奈子と仁志くんの関係を知っているのだ。
知ってると言っても、表面上のことだけだろう。二人が昔付き合っていて、別れた。それから卒業式の前日、仁志くんが加奈子に告白して振られたということくらいだろうか。
「ごめん」
優花ちゃんが謝る。
加奈子がどういうふうに思ってるかは、彼女は知らない。それでもやはり、この話題は触れてはいけないものだと優花ちゃんは認識しているのだ。
加奈子と優花ちゃんとは別の小学校だった村田さんと新谷さんは何のことかわからず、首をかしげていた。
「いいよ。私、いまは――」
なんとも思ってない。そう言おうとした時だった。
加奈子はその場に立ちすくんだ。
仁志君の隣にいたのは。
紫音ちゃんだった。




