10話 ひーくんって呼ばないで
『明日の放課後、ちょっと話せない?』
加奈子はすぐさま仁志君にメッセージを送信した。スマホの画面を消して、ベッドの頭付近に投げ捨てる。返事が来るまで漫画を読み始めたが、内容が頭に入ってこない。
スマホを開きなおして、メッセージに既読がついたか確認する。まだついてない。
また漫画を読む。
確認。まだついてない。
今度は気分を変えて小説を読んでみた。もっと内容が頭に入らない。
またスマホを開いた。既読はまだつかない。
メッセージを送ってから三十分が経過した。夜九時を回っていて、風呂とかでスマホを見ていなかったということは考え辛い。
加奈子は想像を膨らませた。
どうして仁志君は返事をしてくれないのだろう。
考えられる可能性はいくつかある。
まず一つ。本当にスマホを見ていない。
仁志君は陸上部だから、夜のランニングをしているとか。もしくは友達と遊んでいるとか。それこそ、紫音ちゃんと――。
二つ目。これは考えたくないが、加奈子に返信することを面倒に思っている。
仁志君にとって加奈子は自分を振った女子だ。気がないのなら諦めるのが正しい判断だと言えるだろう。
でも、それは困るのだ。加奈子はまだ仁志君のことが好きなのだから。
そして三つ目。どう返信するか、前向きな意味で悩んでいる。
仁志くんが加奈子のことを好きなら、これはチャンスだと考えるだろう。そのチャンスを逃す手はない。下手に返信して関係が修復不可能になることだけは避けたいはずだ。だから、時間をかけて考えているのだ。
もちろん、三つ目が加奈子にとって最も嬉しい可能性だ。
しかし、実際、仁志君が今何をしていて、何を考えているかわかる方法はない。
「待って」
いや、ある。
SNSだ。
仁志君が何か発信していなくても、仁志君の友達なら発信しているかもしれない。彼らが仁志君と一緒にいるかだけでもわかれば、可能性を絞ることができる。
加奈子はさっそくSNSを開いて学校の同級生たちのアカウントを見て回った。
次々とアカウントを巡回する。その集中力はバスケをしている時も遥かに高い。
三十分ほどSNSを漁って分かったことは、仁志君と一緒にいる人はいないということだ。
少なくとも紫音ちゃんは「お風呂上がりのジンジャーエールは最高!」と言っているので家にいるだろう。
ただし、SNSに投稿していない人についてはやはりわからないので、その人たちが一緒にいるという可能性はある。
肝心の仁志君は残念ながら今日はSNSに投稿をしていなかった。
だめか。
加奈子は心の中で呟いた。
もう一度、既読がついたか確認する。やっぱり、ついていない。
なんで。なんなの。もう一時間はたってる。メッセージくらい読んでくれてもいいじゃん。まさか。
ブロックされてる?
加奈子はすぐにメッセージを送った。
『ねえ、どうなの?』
もし、このメッセージも読んでくれなかったら、加奈子はブロックされているのだろう。二件もメッセージを送って気づかないなんてこと普通はない。だから、もしブロックされていたら、もう仁志君のことは諦めよう。
そう思ったのは加奈子自身もなんとなくわかっているからだろう。心の奥の奥では。
おそらく、仁志君と付き合ったってもう上手く行かないのだ。
諦めるのがきっと正しいんだろうけど、そうは簡単にできない。納得できっこない。
加奈子の願いに反して、スマホが通知音を鳴らす。
『いいよ。部活始まる前に西校舎の三階外階段でいい?』
さっき加奈子が送ったメッセージの下にそのメッセージは来ていた。
なんだ。よかった。ブロックされているわけじゃないんだ。加奈子は胸を撫でおろした。
翌日。
六時間目の授業が終わって、加奈子はすぐに西校舎に向かった。
西校舎は音楽室や理科室など、特別教室が集まっている校舎で、クラスの教室がない。六時間目の授業が終わった直後なら、吹奏楽部や美術部などもまだいないため人が少ないのだ。さらに外階段ともなれば、まず人目につかない。
仁志君はそういう場所を選んでくれたのだ。加奈子が何か話しにくい話をしたがっていると察して。
仁志君のそういう人に気を使えるところが加奈子は好きだった。
階段を上がり切って、加奈子は三階の廊下の突き当りの扉の取っ手を捻った。
扉はいとも簡単に開く。
外の空気が加奈子の身体に触れる。
外階段は日陰になっていて、熱気はすさまじいが、どこかひんやりとした空気だった。
時間を感じさせる音を出しながら、扉が閉まる。
その音を横目に、階段の上の方を見ると屋上へと続いている。屋上に行ってみたいと思ったことはあるが、階段の途中に鉄製の格子扉が置かれていて、施錠されている。
漫画やアニメでは屋上で昼寝したり、黄昏たりしていることがあるが、これでは不可能だ。
ガチャリ、と扉が開く。加奈子は振り返った。
「あ」
加奈子はその人の名前を呼ぼうとしたが、どう呼んで良いかわからなかった。
呼び方について、文句を言ったのは加奈子だ。その加奈子が馴れ馴れしく「ひーくん」と呼ぶのはばかられた。でも、よそよそしく「三雲くん」などと呼ぶのも違和感がある。
「うん」
仁志君もどう呼ぶべきか困っているのだろう。彼はそのまま扉を閉めた。ぎこちない音を鳴らしながら。
加奈子が鞄を置いて階段に座ると、三段上に仁志君は腰を下ろした。
「それで、話しって」
加奈子が口を開かずにいると、仁志君の方から用件を切り出した。
階段に座ってから五秒も経っていない。
久しぶりに話をするというのに、なんか、ちょっと軽くない? と加奈子は少しモヤった。
両手で制服の袖を握った。加奈子は何を言うか事前に考えてきている。何を質問すれば、聞きたいことを聞けるのか。
だから、あとはその文言を言葉にするだけでいい。
簡単なことだ。誰だって、毎日考えてることを言葉にして他人と対話しているのだ。加奈子だってそうだ。
それと同じだ。何も難しいことは無い。考えていることを言葉にするだけ。
加奈子は口を開いた。どくん、と心臓が脈打つ音が鼓膜に響く。身体の熱が上がり始めた。暑さのせいじゃないだろう。
「実は聞きたいことがあって」
「うん。何?」
仁志君はどんな表情をしているだろう。
加奈子は気になって仕方がなかった。
これだって、簡単にわかることだ。ただ、体の向きを変えて、仁志君の顔を見ればいい。それだけでいい。
加奈子は握っていた袖を解放した。
「紫音ちゃんと付き合ってるの?」
言った瞬間、加奈子の体の熱がさらに上昇した。汗が手のひらや脇の下や太ももの裏から滲み始めた。普段バスケをしているときとは違う、べっとりとした感触だった。
聞いてしまった。聞いたからには答えを貰わなければならない。
だが、答えは来ない。一向に。来ない。
もしかして聞き方が悪かったのだろうか。それに、声も震えていた気がする。いや、いつもよりかなり声量も小さかったと思う。仁志君には聞こえていないのかもしれない。
もう一度聞いた方がいいだろうか。
「付き合ってるよ」
ごちゃごちゃと巡る思考を、仁志君はたちまち吹き飛ばした。
「……え?」
「だから、付き合ってる。何か悪い?」
付き合っている。
確かに、仁志君はそう言った。聞き間違いなんかじゃない。聞き間違いであってほしかったけど、そうじゃない。
「悪く、ない」
「だったら」
加奈子はそこで初めて気が付いた。仁志君の声音に。
聞いたことのない声音だった。いつも優しくて、あったかかった仁志君の声音が、今は違う。
どうしてすぐに気付かなかったのか。
その理由が加奈子にはわからなかった。
答えは簡単だ。仁志君がどう思っているかとか、どんな表情をしているとか、想像してばっかりで目の前の仁志君のことを見ていなかったのだ。
直接本人に聞けばいいと考えていながら、結局のところ、怖がって、対話することを恐れていた。
「もう関係ないだろ」
鋭い言葉が槍のようにぐさりと胸に突き刺さる。深く、深く。その槍には毒が付いていて、加奈子をびりびりと痺れさせた。痺れは手足に届き、加奈子の脳にまで浸食を始めた。
「関係、あるよ」
「なんで?」
仁志君はあくまで冷静だった。少なくとも加奈子にはそう見えた。
加熱して、加速する加奈子の脳内がさらに進行する。思考が溢れだして、何を言えばいいのか考えることもできなくなっていった。
「なんでって――」
これは言うべきではない。
言っても仕方がないことだ。何も解決しない。誰も得をしない。仁志君も、加奈子も。はっきりとそう思っていたわけではないが、なんとなく、加奈子も予感はしている。
加奈子は勢いよく振り返る。
「ひーくんのことが好きだから!」
悪い予感はしていた。それでも、想いを言葉にすることを加奈子は止められなかった。
心臓の拍動が凄まじい勢いだった。このまま血液を送り続ければ、加奈子の心臓は風船のように割れてしまうのではないだろうか。
どうしようもなくなって、加奈子は立ち上がった。
目線の高さは同じだが、視線は交じり合わない。
仁志君は加奈子の右側に視線を逸らしていた。見慣れたはずの仁志君の顔は、初めて見る表情をしていた。
その目の奥で、何を考えているのだろう。
その開きかけた口は、何を言おうとしているのだろう。
組んだ両手の親指をくるくる回しているのは、どういう理由なんだろう。
仁志君は私のことなんかもう好きじゃないんだろうか。
その全ての答えを仁志君は口にした。
「ひーくんって呼ばないで」
ああ。そうなんだ。
加奈子はその一言で確信した。
ああ。もう駄目なんだ。何もかも手遅れだった。仁志君は私のことを好きじゃないし、もう私のことを「なーちゃん」とは呼んでくれないし、もうこれから話をすることもないのだろう。
「ごめん」
加奈子はそう言い残して、階段を上った。扉を引っ張って、校舎の中に入る。
吹奏楽部の生徒がちらほらと楽器をケースから出し始めていた。その中には加奈子の知り合いもいた。「あれ? 高山さん?」と声をかけられたが、加奈子は無視して廊下を早歩きで抜けた。
靴を履き替えて、学校を出た。
ややすると、スマホが震えた。メッセージが届いたのだ。加奈子は縋りつくようにスマホを取り出して、メッセージを確認した。そこに救いなどあるはずもないのに。
メッセージは、バスケ部のキャプテンからだった。




