5話 加奈子ならそう言ってくれると思ってた
「だから、私は相手の目を見ることを意識してるんだ。そうすれば次にどうすれば抜けるかわかるじゃん」
翌朝、加奈子は紫音ちゃんのバスケ理論を聞いていた。
昨日と今日で分かったのだが、紫音ちゃんはかなりバスケが好きなようだ。その熱量は加奈子よりも一段階高い。
「でも周りのことも見ないと、抜いた先にいる別の敵にボールを取られるかもだからさ」
理論を語る紫音ちゃんの話に「うんうん」と相槌を打ちながら加奈子は別のことを考えていた。
紫音ちゃんって、好きな人とかいなさそうだな。バスケにしか興味がなさそうだし。
バスケ部に紫音ちゃんの小学校の元バスケ部の子が一人も入ってないことも気になる。
加奈子の小学校では加奈子を含めて三人しかバスケ部にいなかったので、続けるのが加奈子だけでも不思議ではないが、紫音ちゃんの小学校でもそうだったのだろうか。
「お、園田―」
教室に入るなり、坊主の男子が熱弁する紫音ちゃんに声をかけた。
「なに西山」
西山と呼ばれた男子はふっと顔を綻ばせた。加奈子と同じ小学校だった男子だ。
「お前、あれは言い過ぎだってー。俺じゃなきゃ泣いてるとこだぞ!」
「あーうるさいうるさい。あんたがバカすぎるのが悪いんでしょ」
「またバカって言いやがった! 先生に言っちゃうぞおい!」
「好きにすれば」
「こわっ。怒んなよ冗談だろー」
西山は楽しそうに笑う。
紫音ちゃんは辛辣な物言いだが、態度に棘はない。適当にあしらっているだけのように見える。
「あ、先生来た。んじゃなー」
西山はそう言って席に戻った。慌てて授業の準備をしているあたり、意外と真面目なようだ。
「何の話?」
いつの間に二人は知り合っていたのだろうか。
「ん? ああ。昨日グループで自己紹介みたいなのしたんだけど、あいつがアホなこと言ってたってだけ」
紫音ちゃんはあまり話す気がないのか、授業の準備を始めた。
バスケに関係ないのでどうでもいいと思っているのだろうか。そうだったら良いなと加奈子は思った。
授業が始まったが、加奈子は先生の言葉に集中することができなかった。
思考をめぐるのは、紫音ちゃんと西山との会話だ。
グループ、自己紹介、そして話したことのないはずの二人の雰囲気。
察するに、ラインのグループの話だろう。スマホを持っていない加奈子には知ることのできない世界だ。
置いて行かれる。
スマホなど必要ないと思っていた加奈子だったが、違う。必要なのだ。今はまだ、スマホを持っていない子が何人もいる。でも、その子たちもやがてスマホを持ち始める。
さっきみたいに会話に入れないことが何度もこれから起きるだろう。
「お母さん、ちょっといい?」
部活が終わった後、加奈子は母におずおずと頼んだ。
母はソファから首だけを加奈子の方に向けた。その顔にはやや疲れが見える。母は加奈子が小学校を卒業してから近くのスーパーでパートを始めていた。
パートが終わったばかりなのかもしれない。
「何?」
「スマホ、欲しいんだけど……」
母の表情が変わった。真面目な顔つきだ。
身体を起こし、ソファに座りなおした母が加奈子を手招きする。隣に座れということらし。口で言えばいいだろうと加奈子は思ったが、大人しくソファに座った。
「スマホね。お父さんとも話したことあるんだけど、まだ早いんじゃない?」
母の第一声を聞いて、加奈子はため息を吐きたい気持ちになった。
「でも、加奈子のスマホが欲しい気持ちもわかる」
「え?」
「だからスマホは条件付きなら買ってあげる」
いいの!? と喜びを口から出しそうになったが、加奈子はそれを飲み込んだ。
条件付き、というのが気になるのだ。
「条件って?」
「五月に中間テストあるでしょ? そこで五教科全部で八十点以上取れたら、スマホを解禁します」
加奈子は安堵した。
五教科で八十点程度なら難しい条件ではないからだ。
加奈子は勉強が好きではなかったが、苦手ではなかった。小学校の時はほとんど九十点だった。低くても八十点はとれていた。
どんな条件が出てくるか警戒していたが、これならば何も問題はない。
強いて問題点を挙げるなら、少なくとも一か月ちょっとはスマホが手に入らないことだ。
「わかった」
「あら、随分聞き分けがいい」
「反論してほしかったの?」
「そういうわけじゃないけど。まあいいや。じゃあそういうことで」
「うん」
スマホを買ってもらえる約束を交わし、加奈子は満足した。
このことは紫音ちゃんには言わずに、学校生活を送った。手に入れた時に、サプライズとして見せたいと思ったのだ。
四月の間、加奈子はバスケに夢中になった。
紫音ちゃんとのバスケの日々は充実感に満ちていた。毎日一生懸命動き回って、汗をかく。
「加奈子もスプレー使う?」
「え、何それ」
「匂い対策。やっぱり汗って臭いから」
「え、嘘。私臭い?」
「そんなことはないけど、でもいい匂いの方がよくない?」
「たしかに。じゃあ今日は借りようかな。ありがとう紫音ちゃん」
加奈子は紫音ちゃんのスプレーの商品名を覚えて、休みの日に買いに出かけた。
バスケのことやそういう女子としてのエチケットのようなものを共有しながら二人は仲を深めていった。
そして五月に入った。
最近加奈子は知ったのだが、中学ではテスト期間というものがあり、テストの日から数えて一週間前から、部活動は停止される。
「もうすぐテスト期間だね」
紫音ちゃんとお昼ご飯を食べているとき、加奈子は話題を出した。
「あー、それね。私はあんまり興味ない」
紫音ちゃんは勉強にあまり興味がなかった。授業中はちゃんと集中して聞いているが、宿題はやったりやらなかったり。
それよりも、やはりバスケをもっと上手くなりたいようだ。
「でもテスト期間の時はバスケできないよ?」
部活動が禁止のため、体育館も使えない。バスケをする場所がないのだ。
「それなんだけど、別のとこで練習しない?」
「え?」
「バスケのコートある公園に行って、そこで練習しようよ。まあ、無理にとは言わないけど」
「んー……」
加奈子は考えた。
現時点の自分の学力は、低くはない。授業はちゃんと聞いているし、宿題も真面目に取り組んでいる。
勉強の内容はまだまだ簡単だ。わからないところがないわけではないが、九割がたわかっているつもりだ。
だから、すこしくらいバスケをしたって大丈夫だ。
「じゃあ、そうしよっか」
「そうこなくちゃ! 加奈子ならそう言ってくれると思ってた」
今だって、部活が終わってから宿題をやっているのだ。
テスト前一週間の間に紫音ちゃんとバスケをしたところでそう変わりはしない。
そして加奈子は日々を過ごす。
今日も部活動に打ち込んだ。
紫音ちゃんがゴールを決めたところで、試合終了の合図が鳴る。紅白戦は加奈子と紫音ちゃんのいるチームが勝ちだった。
「加奈子、紫音。二人とも連携がよくなってるな」
休憩中、二人で座っていたところに田宮キャプテンからそう褒められた。
「わかります? 私らめっちゃ息合うんですよね」
紫音ちゃんは嬉しそうに胸を張る。
二人の連携は他の追随を許さないほど上達していた。純粋な二対になら部内では敵なしだ。
「中間テストが終わったら練習試合がある。二人ともスタメンで出てみない?」
「え! いいんですか!」
「うちの部は実力でスタメンを決める。二人なら誰も文句はないと思う」
「出ます! ね、加奈子」
「うん!」
「おっけー。じゃあその方向で」
田宮キャプテンはそう言って振り返った。二度手を叩き「練習再開するよ」と合図を出した。
「やった。スタメンだって」
「やったね」
「なに? 嬉しくない?」
紫音ちゃんが訝しむような眼を向ける。
「え? 嬉しいよ?」
加奈子はその眼を見据える。
数秒間見つめ合うと紫音ちゃんの方から視線を外した。
「まあいいや。練習行こ!」
「うん!」
嬉しいのは間違いない。
自分の実力が認められたのだ。気持ち的には、九割くらいは嬉しさが占めている。残りの一割は「ほんとうにいいのだろうか」という悶々とした気持ちだ。
入部して一か月少しの自分がスタメンで本当に大丈夫なのだろうか。反感を買ってしまうのではないか。
実力制でスタメンを決めることは入部したときから言われていたことだ。
だから、加奈子の憂いなど意味がないのだ。
紫音ちゃんはそんなことなど微塵も心配してないだろう。だから、大丈夫なのだ。
テスト前一週間に入ってからは紫音ちゃんと放課後に公園に行って、バスケの練習をした。
「ほらほら。動き鈍くなってるよ加奈子!」
「そっちだって!」
ドリブルで抜き去ろうとする紫音ちゃんを加奈子は必死に追いかけた。
基礎練一時間。一対一を一時間。毎日、二人は合計二時間ほどバスケをした。
練習が終わると、汗だくになった。
加奈子は体の手の届く範囲で汗拭きシートを使って汗を拭った。それからスプレーを施して、匂いを消す。
「紫音ちゃんって帰ってから勉強してるの?」
聞きながら、していないだろうなと加奈子は思っていた。
「してるわけないじゃん? 動画見たりゲームしたり。適当」
「ふーん。そうなんだ」
予想通りの回答が来て、加奈子はわずかな安堵を手にする。
それから加奈子は近くのトイレで制服に着替えて、紫音ちゃんと別れた。
加奈子はそのまま寄り道をせずにまっすぐ家に帰った。
「加奈子―。ご飯何する?」
母はリビングでテレビを見ながら洗濯物を畳んでいた。
こうして加奈子や父に晩ご飯のリクエストを聞くことが母は多い。毎日の献立を考えるのは大変なのだろう。
「何でもいい。私勉強してくるから」
つい、返事がぶっきらぼうになる。
「なんでもねえ。じゃあオムライスでもいい?」
オムライスは母の得意料理だった。
特別味に自信があるという意味ではなく、作る工程が母の頭に入っていて、流れ作業で作れるから楽なのだろうだ。
「それでいいよー」
「おっけー」
母に勉強していないことを怪しまれることは無かった。
本来なら勉強をする時間でバスケをしていることに罪悪感はあった。同時に、スリルも感じていた。少しだけ自分が不良みたいになったように感じているのだ。
加奈子は二階の自室に戻ると、勉強机に持ち帰ったドリルや教科書を広げた。
根を詰めるつもりはない。宿題と少しばかりの復習だ。
加奈子は母に呼ばれるまで宿題を進めた。その合間に好きな漫画を読んだことは些細なことだ。
そんな風に過ごして、一週間がたった。




