3話 なーちゃんって呼ばないで
翌日、教室に入ると、仁志君と目が合った。仁志君は何も言わないで、そのまま目を逸らしてしまった。加奈子はそれを見て、お腹の方から湧きあがってきた黒い物を、喉元でぐっと我慢した。
「どうしたの? 加奈子ちゃん?」
優花ちゃんが顔を覗き込んできた。彼女のことは幼稚園から知っていたけど、三年生になってから話すようになった。同じクラスになって、同じアニメを好きだと判明したことがきっかけだった。
金曜日の夕方から放送されている、子供なら誰でも知っているアニメだったが、二人の知識量は豊富で、少し齧った程度では追いつけないくらいなのだ。
「ううん。なんでもないよ」
加奈子は優花ちゃんに昨日の出来事を話そうか迷ったがやめておいた。
自分がひーくん、いや、仁志君と付き合っていたことは優花ちゃんにも内緒だったので、それを話したくなかったのだ。
「そうなんだ。何かあったら話してね?」
「うん!」
加奈子は元気に答えた。
そのまま何事もなく加奈子は四年生になって、部活動へ参加することになった。
加奈子は陸上部というものに入りたかったが、加奈子の小学校には陸上部は存在しなかった。加奈子は仕方なくバスケットボール部に入った。
バスケ部ならいっぱい走れるし、ボールを手で扱うのはあまり苦ではなかったからだ。
四年生の加奈子は部活動に一生懸命だった。思った通り、バスケは加奈子に合っていた。入部して一週間後の休憩時間、先輩たちが加奈子に言うのだ。
「加奈子ちゃん、うまくない?」
「うん。初心者なのに、ディフェンスはかなりうまいよ」
「ドリブルとかパスはまだまだだけどね」
「ありがとうございます!」
先輩たちからの評価は上々だ。褒められると加奈子は嬉しくなってもっと練習をするようになった。
代わりに男子たちと遊ぶことは減った。昼休みでも、放課後でも、休日でも。
仁志君とは自然と会う機会が減って、話す機会も減って、そのうち付き合っていたことを思い出すことも減っていった。
五年生に上がると、学年の雰囲気が目に見えて変わっていった。
女の子たちがお洒落を覚え始めたのだ。
女子の思春期は男子よりも早いことが多い。そのため、これまでも可愛い服やスカートを履く子供はいた。
しかし、それを恥ずかしがって避けていた子たちまでも、好きな服装を選ぶようになったのだ。加えて、早い子の間では化粧なども流行り始めた。一番手がいれば、二番手が現れる。そこまでくれば、三番手、四番手と次々に興味のあった子たちが後を追い始める。
加奈子も例外ではなく、大きな波に乗り遅れまいとできる限りのお洒落をするようになった。もっとも、加奈子の場合、母に直接相談することは選択肢に入らなかったので、買い物の時に服をおねだりするくらいだった。
「ねえお母さん。私あの服欲しい!」
「ええー。また? この前も買ったじゃない」
「でも欲しいもん」
「テストで百点取ったらって約束でしょ?」
「……そうだけど」
「わかった。今回だけね?」
「ありがとう! お母さん!」
母は娘がお洒落に興味があることをわかっていたが、自分から口出しはしないと決めていた。娘から相談されれば、いくらでも答えられる用意はしてあったし、むしろ喜んで娘に教えてあげたかったくらいだ。
しかし、子供は知識を押し付けられることを嫌う。母はそれを自分自身の経験から理解していた。
加速度的に女子達の可愛さに磨きがかかると、男子たちもその変化に気づき始める。
女子を意識し始めるのだ。女子ももちろん、男子に興味がある。
そうすると、学年中に話が流れる。
誰々君と誰々ちゃんが付き合っている。誰々君が誰々ちゃんを好き。誰々ちゃんが誰々君を好き。告白した。振られた。片思い。両想い。片思いだと思ってるけど、実は両想い。好き。嫌い。好かれてるみたい。嫌われてるみたい。
女子の間ではいつもそんな話が回ってきた。そのたびに加奈子は仁志君のことを思い出した。
それはもはやいい記憶ではなかった。かといって、思い出したくないかと言われれば、そうでもない。加奈子の中ではそれはすでに過去のことだった。
「ねえねえ。加奈子は好きな人、いないの?」
五年生になって仲良くなった愛理ちゃんが小さな声で尋ねた。
給食の時間で、七人の女の子が机を寄せ合っていた。尋ねられたのは突然ではなかった。
話題は、愛理ちゃんが昨日健斗君と遊びに行って、キスをしたことだった。
キスしたとき、すっごいドキドキしたんだ、と語る愛理ちゃんにみんなは「うわー」とか「いいなあ」とか、恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
愛理ちゃんは、「やっぱり好きな人がいるのって楽しいよね、ところで」と区切って加奈子に尋ねたのだ。
流れとしては突然だが、七人の中で好きな人を発表していないのは加奈子だけだった。だからいつ自分にこの質問が来るか、加奈子はいつも身構えていた。
だから、突然なんかではない。この時のために回答の準備もしていた。
加奈子は少し考えるそぶりをして、
「岡田君とか、かっこいいな、なんて――」
と、恥ずかしそうに呟くと、女の子たちは色めき立った。岡田君は男子バスケットボール部で、加奈子も何度か話したことがあった。
彼は一番バスケがうまくて、顔も他の子に比べて整っている。女子の間でも人気の男子だった。加奈子が気になっていると言っても違和感のない人選だった。
彼女らの好奇心を満たしたと確信した加奈子は心の中でほっと息を吐いた。
仁志君とのことを話したくはなかった。今の加奈子は仁志君のことが好きではなかった。だから彼のことについて話すのはかなり抵抗があった。
それでも、時折加奈子は想像してしまうことがある。
あのまま、彼と付き合っていたらどんな生活になっていたのだろうか。今では男子と女子が付き合うことはおかしなことではない。
珍しくはあったが、加奈子の時のようにからかわれたり、茶々を入れられることはあまり起こらなかった。
六年生になった加奈子は、愛理ちゃんとあまり話さなくなっていた。優花ちゃんともあまり話してなかったが夏休みの間、一緒に映画を見に行くことが二人のお決まりになっていた。
今年もいつもと同じように映画を見た。
映画を見た後、好きなシーンについて話したり、秘密道具について二人で考察したりすることはとても楽しいのだ。
「もしも願いが叶うとしたら、加奈子ちゃんだったらどんな願い事をするの?」
話の流れで優花ちゃんが尋ねる。今回の映画は、主人公が魔法の世界を望んだことで始まる物語だった。それになぞらえてそんな質問をしたのだろう。
加奈子は少し考えて答えた。
「私は――」
優花ちゃんに言った願いは大した願いではなかった。
お金持ちになりたいとか、バスケがうまくなりたいとか、足が速くなりたいとか、そんな大したことのない願いだ。
本心では違うことを考えていた。それを口にしなかったのは、本心から逃げたかったからだ。
◆ ◆ ◆
「なーちゃん。好きです。俺と付き合ってください」
仁志君にそう言われたのは、卒業式の前日の日だった。
卒業式のリハーサルが始まる前、仁志君がこっそりと加奈子に近寄って、次の休憩の時に音楽室の方に来るように言ってきたのだ。
加奈子は言われた通り、音楽室に向かった。
音楽室の前に仁志君はいた。彼は壁に背中を預けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
部屋の中は明かりもついておらず、静かだ。
卒業式のリハーサルでピアノを弾くため、音楽の先生は体育館にいる。この時間は音楽の授業はないから、人はいないのだろうと仁志君は考えたのだ。
「どうしたの?」
中々口を開かない仁志君に向けて加奈子は尋ねた。
意を決したのか、仁志君はまっすぐに加奈子に視線を向けて、言ったのだ。
「好きです、付き合ってほしい」
加奈子はその言葉を予想していなかったわけではない。こんな日に呼び出されれもすれば、考えてしまう。だから、なんとなく、そんな気がしていた。
でも、返す言葉までは考えていなかった。考えられなかった。
何秒間か、何十秒か加奈子は考えた。そして、もっとも頭の中で反響していた言葉を口に出した。
「なんで、いまさら」
そうだ。なんで。
その言葉は加奈子が欲していた言葉だ。でもそれは今じゃない。あの時、三年生の時に、山城君たちに聞かれたとき。もしも願いが叶うのなら、あの時に、加奈子は言ってほしかったのだ。
好きだって。
それを、いまさら。
「ごめん。俺、言えなくて、だから諦めようとした。でも、やっぱり好きだった。子供のままごとみたいなもんだって思いこもうとしてたけど、そうじゃなかった。一緒にいたいんだ、なーちゃん」
「なーちゃんって呼ばないで」
なんで、いまさら。そんなのおかしい。私はずっと好きだった! 付き合ってないって言われたときも。その次の日に無視されたときも。時々廊下ですれ違う時も。運動場で鬼ごっこをしているのを見かけた時も。
ずっと好きだった。
過去のことになんてできなかった。好きではなかったなんて嘘だった。
ずっと、好きだった。
加奈子にとって、この三年間は楽しかったけれど、どこか心が違う場所にあった三年間だった。
その三年間を、ごめんの一言でなかったことにできるだろうか。簡単に許すことができるのだろうか。
「無理だよ」
こんな時にでさえ、加奈子は涙を流さなかった。どうして泣いたら駄目なのだろう。どうして自分は涙をこらえているのだろう。
加奈子にはわからなかった。
仁志君の顔は歪んでいた。必死に涙をこらえているみたいだった。だから先に泣いたら負けみたいに思ったのだろう。
簡単に許したくない。
「そうだよな。ごめん、高山」
仁志君はそう言って、加奈子の横を通り過ぎた。その時加奈子は、彼の身長が自分よりも大きくなっていることに気が付いた。
それでも、加奈子は泣かなかった。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
続きは1日おきに、午後8時に1話ずつ投稿させていただきます。




