第九話 間に合ったはずの距離
違和感は、音もなく戻ってきた。
最初は、ただの噂だった。
「最近、あの子ちょっと変じゃない?」
「前からじゃなかった?」
「いや、前より……なんか、軽い」
軽い。
その言葉が、耳に残った。
廊下ですれ違った彼女は、確かに軽そうだった。
笑う。
冗談に乗る。
誰とでも話す。
――距離が、ない。
触れない距離。
あれは“守った”んじゃない。
僕が置いただけだった。
「調子、よさそうだね」
声をかけると、彼女は少し驚いてから、笑った。
「あ、うん。大丈夫」
「本当に?」
「本当にって顔、やめて」
冗談めかして言うけど、
目が、忙しすぎる。
「最近さ」
彼女は続ける。
「人と一緒にいると、安心するの」
「前は、怖いって言ってた」
「今は平気」
その“平気”が、一番危ない。
「距離、近くなってない?」
「そう?」
彼女は、一歩近づく。
反射的に、僕は下がった。
一瞬だけ、彼女の顔が歪んだ。
「あ……ごめん」
「いや、そうじゃなくて」
言葉を選ぶ間に、
彼女はもう笑顔に戻っていた。
「大丈夫だよ。
ほら、ちゃんと人と話せてるし」
その言い方が、
自分に言い聞かせている音をしていた。
その日の放課後、
校舎裏で騒ぎがあった。
人だかり。
教師の声。
保健室へ運ばれる影。
彼女だった。
「過呼吸。
軽いパニックだそうだ」
誰かが言う。
軽い。
また、その言葉。
僕は、保健室の前に立っていた。
入れない。
入る資格がない気がした。
「間に合わなかったね」
隣で、声がした。
振り向くと、
また“あの人”だった。
「救えたと思った?」
「……無事だと思った」
「同じことだよ」
冷たい。
「君が距離を置いたことで、
彼女は“誰とでも近づける自分”を選んだ」
「それの、何が悪いんですか」
「悪くない」
一拍。
「でも、それは怪異の形を変えただけ」
僕は、拳を握った。
「じゃあ、どうすればよかった」
「わからないまま、関わる」
その人は言う。
「救える距離なんて、最初からない」
「……」
「あるのは、壊す距離と、
一緒に壊れる距離だけ」
保健室のドアが、少し開いた。
中から、彼女の声が漏れる。
泣いてはいない。
でも、息が浅い。
「君は、間に合ったよ」
その人は続ける。
「彼女は、死んでない」
「……」
「でも、君が“救えた”と思った瞬間、
もうズレてた」
ズレ。
それは、修正できるのか。
「次は?」
僕は聞いた。
「次は、どう関わればいい」
その人は、少しだけ考えた。
「正解を作らない」
「……」
「救えた、も
救えなかった、も
どっちも言わない」
保健室の奥で、
彼女の呼吸が、少し落ち着く。
「君が向き合うのは、怪異じゃない」
その人は、最後に言った。
「関わったという事実だけ」
気づくと、隣には誰もいなかった。
僕は、壁に背を預ける。
胸の奥で、
あの温かさが、完全に冷えていた。
救えたと思ったのは、
傲慢だった。
救えなかったと思うのも、
同じくらい。
残るのは、ただ一つ。
――関わってしまったという事実。
それだけを抱えて、
僕は次の怪異に向かう。
逃げずに。
でも、答えを持たないまま。




